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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第109話 北から来る女

 匈奴。


 その名を聞いた瞬間、楊端和(ようたんわ)の表情が強張った。


 脳裏に蘇ったのは、頭曼(とうまん)の幕で過ごした日々だった。囚われ、抗い、それでも長く傍に置かれるうちに男の強さと与えられる安堵へ縋るようになり、最後には見限られた。そして、自分とは違って草原に残った羌瘣(きょうかい)の姿まで、嫌でも思い出される。


「楊端和(ようたんわ)殿?」


 蒙恬(もうてん)に声をかけられ、楊端和(ようたんわ)は我に返った。


「……大丈夫です」


 声は平静だったが、顔色までは隠せていなかった。


「無理なら、北へ連れていかない」


 俺がそう言うと、楊端和(ようたんわ)はすぐに首を振った。


「いいえ。行かせてください。私は匈奴の騎兵がどのように接近し、どう追撃を誘うのかを知っております。あの地で得たものがあるのなら、今こそ役立てるべきです」


 過去に決着をつけたいのか、それとも羌瘣(きょうかい)と会いたいのか。そこまでは聞かなかった。


 やがて北辺から届く報告によって、新たな単于・冒頓(ぼくとつ)が軍を動かしていることが明らかになり、その先鋒を率いる将の名も判明した。


「匈奴先鋒、およそ二万。その指揮を執っておりますのは、羌瘣(きょうかい)と名乗る女とのことです」


 軍議の場が静まった。


 蒙恬(もうてん)も驚きを隠せなかったが、楊端和(ようたんわ)は何も言わず、膝の上で拳を強く握っていた。


「間違いないのか?」


「捕らえた斥候が同じ名を口にしております。先鋒を率いる女将の風貌も、我らの知る羌瘣(きょうかい)殿と一致しております」


 俺が蒙恬(もうてん)を見ると、蒙恬(もうてん)は僅かに考えてから頷いた。


「羌瘣(きょうかい)殿であれば、先鋒を任されても不思議ではございません。もともと将としての才がございましたし、長く匈奴で騎馬戦を学んだのであれば、以前より厄介になっているでしょう」


「私を先鋒にしてください」


 楊端和(ようたんわ)が口を開いた。


「羌瘣(きょうかい)の相手は、私がいたします」


「駄目だ」


 俺はすぐに首を振った。


「冒頓(ぼくとつ)の本隊がどこにいるのか分からない。お前だけを先行させるつもりはない」


 楊端和(ようたんわ)は反論しかけたものの、最後には静かに頭を下げた。


「……承知しました」


 俺は五万を率いて北へ向かうことを決めた。同行するのは楊端和(ようたんわ)、蒙恬(もうてん)、蒙凛(もうりん)、そして公には鉅鹿(きょろく)で戦死したことになっている王離(おうり)。南には劉邦(りゅうほう)がいる以上、関中を空にすることはできず、これ以上の兵を北へ動かすつもりはなかった。


 王離(おうり)だけは今回も身分を隠す必要があり、王氏の旗を掲げず、深く兜を被ったまま俺の直下に置く。


「また顔を隠すのですね」


「仕方ないだろ。死んだはずの人間が普通に出陣していたら説明できない」


「いつまでこのままなのでしょう」


「それは俺も考えてるよ」


「早く考えてください」


 その横で蒙凛(もうりん)が笑った。


「その大剣を持っていては、顔を隠しても十分目立ちますよ」


「蒙凛(もうりん)にだけは言われたくありません」


「私は隠れる必要がありませんから」


「それがずるいのです」


 いつものように言い合う二人とは対照的に、楊端和(ようたんわ)は黙ったまま北を見ていた。


◆


 五万の軍は関中を発ち、北辺へ向かった。


 かつて蒙恬(もうてん)が大軍を率いて守った土地だったが、秦末の混乱で兵は各地へ引き抜かれ、防衛網は大きく弱っていた。匈奴はその隙を突き、家畜や食糧を奪ってはすぐに移動しており、歩兵主体のこちらには捕捉するだけでも厄介な相手だった。


 数日後、先行していた斥候が戻ってきた。


「前方に匈奴軍! およそ二万!」


「指揮官は?」


「羌瘣(きょうかい)と見られます!」


 俺はすぐに陣形を整えさせた。


 中央には蒙恬(もうてん)と俺。右翼には蒙凛(もうりん)の騎兵を置き、左翼を楊端和(ようたんわ)へ任せる。王離(おうり)は身分を悟られないよう本陣近くの予備として残した。


 やがて地平の向こうから土煙が上がった。


 最初に近づいてきたのは数百騎ほどだった。正面から突撃するように速度を上げながら、こちらの弓が届きにくいところで矢を放ち、すぐに馬首を返す。追わなければ別の騎兵が左右から現れ、陣の端へ矢を浴びせて離れていった。


 左翼にも匈奴騎兵が迫る。


「盾を上げろ! 弓兵はまだ射つな!」


 楊端和(ようたんわ)の鋭い下知が飛び、前列の盾が揃った。


 矢が盾へ突き刺さると、敵騎兵は一斉に反転する。兵の何人かが追おうとした瞬間、楊端和(ようたんわ)の怒声が響いた。


「追うな! 陣を離れる奴は私が斬るぞ!」


 兵たちはすぐに足を止めた。


 楊端和(ようたんわ)は、この誘いを知っている。逃げる騎兵を追わせ、隊列が伸びたところを別の騎兵で叩く。それに付き合わず、左翼は崩さずに受ける。


 右翼では蒙凛(もうりん)が騎兵を率いて応戦していた。敵が近づけば馬を前へ出して騎射で迎え、追撃できる場面でも本陣との距離を保つ。匈奴側もまともにぶつかるつもりはなく、両軍の間では矢の応酬だけが繰り返された。


 そんな探り合いが続いた後、匈奴軍の動きが変わった。


 前方の騎兵が左右へ分かれ、その中央から整った一団が姿を現す。


 先頭には、一人の女がいた。


 その姿を見た瞬間、左翼の楊端和(ようたんわ)の目が細くなった。


「……羌瘣(きょうかい)」


 秦にいた頃とは装いが違う。革鎧も弓も草原のものとなり、馬上での身のこなしには匈奴騎兵の軽さが染みついている。それでも、あの顔を見間違えることはなかった。


 羌瘣(きょうかい)も楊端和(ようたんわ)を見つけたらしい。


 まず周囲の騎兵を左右へ広げ、自分が戻る道を確保してから、一騎だけ前へ出てきた。


 楊端和(ようたんわ)も馬を進める。


「ここを動くな! 敵が寄っても陣を崩すな!」


 副官へ命令を残し、両軍の間へ出た。


 二騎は互いの顔が見えるところで止まった。


 長い年月を隔てた再会だった。


「久しぶりだな、楊端和(ようたんわ)」


 先に声をかけたのは羌瘣(きょうかい)だった。


 楊端和(ようたんわ)はしばらくその顔を見てから、僅かに眉を上げた。


「……随分とよく喋るようになったな、羌瘣(きょうかい)」


「そうか?」


「昔のお前は、必要なことしか口にしなかった」


 羌瘣(きょうかい)は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。


「草原では黙っているだけでは何も伝わらない。私も少しは変わった」


「少しどころには見えない」


「お前はあまり変わらないな。相変わらず堅い」


「貴様に言われる筋合いはない」


「その返しも懐かしい」


 余裕を崩さない羌瘣(きょうかい)に、楊端和(ようたんわ)の目が険しくなる。


「お前こそ随分楽しそうではないか。草原に残った暮らしは、それほど良いものなのか?」


「気になるのか?」


「何?」


「自分は頭曼(とうまん)に捨てられ、私は残った。その先がどうなったのか、気にならない方がおかしいだろう」


 わざと傷を抉っている。


 それが分かっていても、楊端和(ようたんわ)の表情は硬くなった。


 羌瘣(きょうかい)は左翼の向こうへ目をやり、さらに遠くの本陣を眺めた。


「あれが扶蘇(ふそ)か」


「お前には関係ない」


「拾ってもらえて幸せなのか?」


「拾われたのではない」


「なら、一つ聞こう」


 羌瘣(きょうかい)は口元を上げた。


「頭曼(とうまん)には抱かれた。それほど大切に思っている扶蘇(ふそ)には、まだ抱かれていないのか?」


「貴様!」


 楊端和(ようたんわ)の顔に怒りが走った。


「そのような欲にまみれた話ではない! 扶蘇(ふそ)様は、私を一人の人間として扱ってくださった。それを貴様のような」


「まだなのか」


「黙れ!」


「私は幸せだぞ」


 羌瘣(きょうかい)は少しも悪びれない。


「冒頓(ぼくとつ)はいい男だ。若く、強く、私を妻としても戦士としても扱う。夜も退屈しない」


「聞いていない!」


「お前が聞いたんだろう。草原に残って何が良かったのかと」


「そんな意味ではない!」


 羌瘣(きょうかい)は声を上げて笑った。


 その笑い方も、昔の羌瘣(きょうかい)からは想像しにくいものだった。


「本当によく喋るようになったな」


 楊端和(ようたんわ)が吐き捨てる。


「それ以上喋るなら、その口を斬る」


「試してみろ」


 羌瘣(きょうかい)も剣を抜いた。


 二頭の馬が、ほとんど同時に駆け出した。


◆


 最初の一合は正面からぶつかった。


 剣と剣が激しく噛み合い、二騎がすれ違う。互いに馬首を返すと、今度は角度を変えて再び距離を詰めた。


 楊端和(ようたんわ)が肩口を狙って振るった剣を、羌瘣(きょうかい)は受け流すと同時に馬を半歩外へずらし、そのまま横から刃を返す。楊端和(ようたんわ)は辛うじて受けたものの、反撃へ移る前に羌瘣(きょうかい)はすでに間合いを外していた。


 今の羌瘣(きょうかい)は、明らかに騎馬戦へ慣れている。


 楊端和(ようたんわ)が強く斬り込むほど、羌瘣(きょうかい)は馬の速度を僅かに変えて軌道を外し、空いたところへ刃を差し込んでくる。数合を重ねるうちに、楊端和(ようたんわ)の鎧には浅い傷が増えていった。


「昔なら、もう少し手こずったんだがな」


「黙れ!」


「草原で馬に乗り続けた差か」


 羌瘣(きょうかい)には余裕があった。


 楊端和(ようたんわ)も技量で大きく劣るわけではない。それでも、挑発へ反応するたびに斬撃が大きくなり、その僅かな乱れを羌瘣(きょうかい)に拾われている。


 そして羌瘣(きょうかい)は、それを分かった上でさらに口を開いた。


「そういえば思い出した。昔、趙との戦で胸を晒したことがあったな」


 楊端和(ようたんわ)の顔が引きつった。


「……それがどうした」


「今度は扶蘇(ふそ)の前で晒してやろうか?」


「貴様!」


 楊端和(ようたんわ)が大きく剣を振った。


 その軌道を見た瞬間、羌瘣(きょうかい)の目が細くなる。馬を内へ滑り込ませ、空振りした剣の下へ潜ると、開いた脇へ刃を走らせた。


 その時だった。


 一本の矢が、二人の間へ飛び込んだ。


「っ!」


 羌瘣(きょうかい)は咄嗟に上体を反らした。


 矢は頬のすぐ横を抜け、そのまま後方の地面へ突き刺さる。


 視線を向けると、左翼へ向かって移動してきた蒙凛(もうりん)が、騎兵の一部を従えて弓を構えていた。


 羌瘣(きょうかい)本人が左翼へ現れたと知った蒙凛(もうりん)は、右翼を副官へ預け、中央後方を回ってこちらへ移ってきたのである。遠目にも楊端和(ようたんわ)の剣筋が普段より荒れているのが分かり、危険と見てさらに前へ出ていた。


「楊端和(ようたんわ)様! 下がってください!」


 すでに次の矢が番えられている。


「いい腕だな」


 羌瘣(きょうかい)は感心したように呟いたが、すぐに周囲へ視線を走らせた。


 一騎打ちに時間を使ったことで、左翼の関中兵が少しずつ押し出してきている。さらに蒙凛(もうりん)の騎兵まで寄ってきた以上、これ以上ここへ残れば退路が細くなる。


「今日はここまでだ」


「待て!」


「二万で五万の前に居座るほど馬鹿ではない」


 羌瘣(きょうかい)は馬首を返した。


「次に会う時までに、少し頭を冷やしておけ。今のお前では扶蘇(ふそ)に心配をかけるだけだぞ」


「羌瘣(きょうかい)!」


 楊端和(ようたんわ)が追おうとした瞬間、その馬の前へ矢が突き刺さった。


 今度も蒙凛(もうりん)だった。


「追わないでください! 敵陣まで誘われます!」


 その声で、楊端和(ようたんわ)はようやく手綱を引いた。


 羌瘣(きょうかい)は確保していた騎兵の間へ戻り、そのまま自軍との距離を縮めていく。匈奴側も追撃を誘うようにゆっくりと下がったが、関中軍から飛び出す部隊はなかった。


◆


 戦闘が収まると、蒙凛(もうりん)はそのまま楊端和(ようたんわ)のもとへ馬を寄せた。


 大きな傷こそないものの、楊端和(ようたんわ)の鎧には羌瘣(きょうかい)の剣が掠めた跡が残り、普段より呼吸も荒い。


「楊端和(ようたんわ)様」


「……助かりました」


 楊端和(ようたんわ)は素直にそう言った。


「矢のことだけではありませんよね」


「分かっています」


 少し間が空いた。


「冷静ではありませんでした」


 自分で認める声は苦かった。


「あの女がわざと怒らせていることくらい、分かっていたはずなのですが。それでも、頭曼(とうまん)のことや……扶蘇(ふそ)様のことを口にされると」


 蒙凛(もうりん)はそこで僅かに眉を動かしたものの、何を言われたのかまでは尋ねなかった。


 分かっていて挑発に乗った。その事実は、楊端和(ようたんわ)自身が一番よく理解している。


 一方、本陣にいる俺からは、二人が何を話していたのかまでは聞こえていない。それでも、楊端和(ようたんわ)の剣が途中から明らかに荒くなり、最後には蒙凛(もうりん)が援護へ入ったことは見えていた。


 俺は追撃を禁じたまま、斥候をさらに広く放った。


 羌瘣(きょうかい)が二万を率いて目の前にいる。


 それ自体が、こちらの視線を一か所へ集めるための動きかもしれない。


 何より、冒頓(ぼくとつ)がまだ見えなかった。

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