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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第108話 西へ向けた目

 劉邦(りゅうほう)が巴蜀(はしょく)へ兵を送り始めた。


 その報告を受けた時、俺はしばらく地図から目を離せなかった。陳倉(ちんそう)で敗れた以上、韓信(かんしん)が同じ道をもう一度使うとは思っていなかったが、だからといって漢中(かんちゅう)に閉じ籠もるとも考えていなかった。次にどこから来るのか警戒していたところへ、夏侯嬰(かこうえい)と盧綰(ろわん)がそれぞれ兵を率いて巴蜀(はしょく)へ入ったという知らせが届いたのである。


「……長期戦に切り替えたか」


 俺が呟くと、傍らにいた蒙凛(もうりん)が地図を覗き込んだ。


「巴蜀(はしょく)からこちらを攻めるつもりでしょうか?」


「すぐには来ないと思う。あそこから関中へ大軍を出すだけでも大変だからね。それより、巴蜀(はしょく)そのものを育てるつもりなんじゃないかな」


 山道を整え、人を入れ、農地を広げ、倉を作れば、漢中(かんちゅう)と合わせて大きな後方拠点になる。それを考えたのが韓信(かんしん)なのか、蕭何(しょうか)なのか、おそらく両方なのだろう。


 陳倉(ちんそう)で勝ったからといって安心はできない。


 むしろ一度負けたことで、韓信(かんしん)は正面から俺を抜くことを諦めた。その分だけ、次に何をしてくるのか分からなくなったとも言える。


「黥布(げいふ)からは?」


「陳倉(ちんそう)の補強は順調です。本人は退屈だと文句ばかり言っているそうですが」


「やっぱりか」


 俺は思わず苦笑した。


「城から出るなって、もう一度伝えておいて」


「三度目ですけど」


「四度でも五度でも言ってくれ」


 蒙凛(もうりん)も小さく笑ったが、俺はすぐに地図へ視線を戻した。


 南の漢だけを見ているわけにはいかない。


 東では、もっと大きな火が広がり始めていた。


◆


 項羽(こうう)が行った論功行賞は、戦場で実際に働いた者を重く扱い、そうでない者を容赦なく冷遇するものだった。


 本人にとっては公平なのだろう。


 鉅鹿(きょろく)で秦軍を前に動かなかった者と、命を懸けて戦った者が同じ恩賞を受ける方がおかしい。そう考える項羽(こうう)の気持ちは、俺にも分からなくはない。


 だが、天下を治めるのは戦場とは違う。


 王になれなかった者、望んだ土地を与えられなかった者、古くからその地を支配していたにもかかわらず、項羽(こうう)の一存で別の者を王として押しつけられた者。そうした不満が各地に積み重なり、斉を皮切りに一気に噴き出した。


 趙、魏、燕でも争いが起こり、龍且(りゅうしょ)や鍾離眜(しょうりばつ)まで鎮圧に追われている。項羽(こうう)本人が出れば反乱軍はまともに戦わず散り、別の土地で再び集まるため、楚軍は広大な東方で終わりの見えない戦いを続けていた。


 その報告が届くたび、俺の中には一つの考えが浮かんでは消えた。


 今なら、楚から離れられる。


 関中で反楚の旗を掲げれば、項羽(こうう)に不満を持つ勢力がこちらへ寄ってくる可能性は高い。かつて秦の公子だった俺が動けば、東の情勢にも大きな影響が出るだろう。


 それでも、決断できなかった。


 項羽(こうう)は俺を信じている。


 十万を超える秦の降兵を預けた時も、范増(はんぞう)が反対する中で俺を選んだ。論功行賞でも関中王となることを認めてくれたし、冗談なのか本気なのか分からないが、いまだに俺を婿にすることまで諦めていないらしい。


 あの豪快な笑い声を思い出す。


 敵に回れば恐ろしい女だ。怒れば街一つを焼くことさえためらわない。その一方で、気に入った相手には驚くほど真っ直ぐで、裏表がない。


 俺だって、何も感じていないわけではなかった。


「……だから面倒なんだよな」


 思わず漏れた言葉に、蒙恬(もうてん)が反応した。


「何がでございますか?」


「いや。こっちの話」


「項羽(こうう)殿のことでございましょう」


 あっさり見抜かれた。


◆


 その日の軍議には、蒙恬(もうてん)、王賁(おうほん)、蒙凛(もうりん)、楊端和(ようたんわ)らを集めた。


 机の中央には関中から東へ広がる地図を置いている。


「今なら楚と戦えると思う」


 俺が切り出しても、誰も驚かなかった。


「斉だけじゃない。趙も魏も燕も落ち着いていない。項羽(こうう)は各地へ兵を出していて、俺たちを討つために全軍を西へ向ける余裕はないはずだ。だから今、反楚を掲げれば呼応する勢力はかなりあると思う」


 そこで王賁(おうほん)が腕を組んだ。


「でも、私はまだ早いと思う」


「理由は?」


「東が乱れてるからだ。今の楚が苦しんでるのは確かだけど、だからって斉も趙も魏も扶蘇の味方になるわけじゃない。お前が東へ出た瞬間、そいつら全部の思惑に巻き込まれるぞ」


 王賁(おうほん)は地図の上を指でなぞった。


「それに劉邦(りゅうほう)も生きてる。お前が主力を東へ出した隙に、また関中を狙わない保証もない」


「私も、今は東へ深入りするべきではないと考えます」


 蒙恬(もうてん)が続けた。


「関中を得てから、まだそれほど年月が経っておりません。法を改め、税を整え、軍を再編している途中です。ここで大戦を始めれば、せっかく戻り始めた民を再び戦へ駆り立てることになります」


 耳の痛い話だった。


 秦が短命に終わった理由を考えながら統治を始めたのに、自分から大規模な戦争へ踏み込めば本末転倒である。


「では、何もしないのですか?」


 楊端和(ようたんわ)が尋ねた。


「いや。東へは出る。ただし、楚を討つためじゃない」


 俺は地図へ指を置いた。


「ここまでだ」


 太行山脈の西側。


 関中の東を守るためにも重要な地域で、さらに北へ進めば旧趙領へ繋がっている。


 今、その趙は一つの国と呼べるような状態ではなかった。


◆


 項羽(こうう)によって王に封じられた張耳(ちょうじ)と、王になれなかった陳余(ちんよ)の対立は深まり、旧趙領では双方の勢力が入り乱れていた。


 中央の命令が届かない土地も増え、どちらにつくべきか決められない城邑も多い。戦乱で職を失った兵や農民まで流れ込み、街道沿いには盗賊や私兵の集団が増えていた。


 特に閼与(あつよ)周辺はひどい。


 かつて秦と趙が争った土地でもあり、関中から東へ勢力を広げるなら放置できない位置にある。それにもかかわらず趙の支配は十分に及ばず、商人が襲われ、いくつもの集落が賊の根城になっているという。


「まずここを押さえたい」


 俺は閼与(あつよ)を指した。


「楚と戦うためじゃない。関中の東側を安定させるために、太行山脈より西の混乱している地域を少しずつこちらへ組み込む。街道を整えて賊を掃討し、耕せる土地には人を戻す」


「東へ出る足場にもなりますね」


 蒙凛(もうりん)が言った。


「ああ。ただし、それは将来の話だよ。今は領土を広げることより、広げても支えられるだけの国力を作る方が先だ」


 兵糧を増やし、人口を戻し、税を軽くしながら国庫を整える。劉邦(りゅうほう)が巴蜀(はしょく)を育てるつもりなら、こちらも時間を無駄にはできなかった。


 王賁(おうほん)はしばらく地図を見てから頷いた。


「それなら悪くない。太行より東へ出なければ、楚への露骨な敵対には見えにくいし、旧趙領の混乱を鎮めるって名目も立つ」


「項羽(こうう)には一応、使者を出しておいた方がよろしいでしょう」


 蒙恬(もうてん)が言う。


「趙の内乱へ加担するのではなく、関中に近い無主同然の地域で賊を討つのだと伝えておけば、あちらも今すぐ殿下と争おうとはしないはずです」


「そうしよう」


 俺も頷いた。


 今はまだ、項羽(こうう)と戦う時ではない。


 いずれ天下を巡ってぶつかることになるかもしれない。それでも少なくとも、俺の方から彼女の信頼を踏みにじるような始め方はしたくなかった。


「決めよう。楚とは戦わない。まず関中を固め、その上で太行山脈の西側までを安定させる。閼与(あつよ)周辺の賊を掃討して、こちらの勢力圏へ組み込む」


 異論は出なかった。


 関中を得たからといって、すぐ天下へ手を伸ばす必要はない。


 秦があれほど短く終わったのなら、俺は同じ失敗を繰り返したくなかった。


◆


 数日後には、閼与(あつよ)へ向けた出兵の準備が始まった。


 今回は天下を争う大戦ではないため、全軍を動かす必要はない。俺自身が兵を率いるか、それとも蒙恬(もうてん)や王賁(おうほん)へ任せるか、関中には誰を残すかまで詰めていた。


「扶蘇、お前まで行く必要はないんじゃないか?」


 王賁(おうほん)が地図を眺めながら言った。


「盗賊討伐なら私か蒙恬(もうてん)で十分だ。お前は関中に残って政務を見てた方がいい」


「でも、あの辺りをこの先こっちへ組み込むなら、最初くらいは自分で見ておきたいんだよ」


「王になっても相変わらずだな」


「何が?」


「自分で見ないと気が済まないところ」


 王賁(おうほん)は呆れたように笑った。


 その時だった。


 天幕の外が急に騒がしくなった。


 やがて入口が開き、一人の騎兵が転がり込むように入ってくる。全身が埃にまみれ、馬を何度も替えながら昼夜を問わず走ってきたことは一目で分かった。


「関中王!」


 兵はその場へ膝をついた。


「北辺より急報にございます!」


 俺の手が止まった。


 北。


 その一言だけで、嫌な予感がした。


「何があった?」


 伝令は荒い息を整えながら、ようやく声を絞り出した。


「匈奴が動きました。新たな単于を名乗る冒頓(ぼくとつ)が大軍を率いて南下しております。すでに北辺の集落がいくつも襲われ、各地で烽火が上がっております!」


 冒頓(ぼくとつ)。


 その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 知っている。


 頭曼(とうまん)の後を継ぎ、やがて匈奴を巨大な勢力へまとめ上げる男。後の漢帝国すら北から圧迫することになる単于だ。


 よりによって、この時に。


 蒙恬(もうてん)の表情も一変していた。


「兵力は?」


「まだ正確には掴めておりません。ただ、これまでの略奪とは規模が違います。複数の部族が同時に南下しているとのことです」


 俺は地図の閼与(あつよ)へ置いていた指をゆっくり北へ動かした。


 東へ出る計画は、これで止めるしかない。


「出兵準備は中止する」


 俺は立ち上がった。


「全軍へ伝えてくれ。行き先を変える」


 王賁(おうほん)がこちらを見る。


「北か」


「ああ」


 南では劉邦(りゅうほう)が巴蜀(はしょく)へ根を張ろうとし、東では項羽(こうう)の天下が燃えている。


 そこへ今度は、北から冒頓(ぼくとつ)が来た。


「まず北辺の状況を掴む。閼与(あつよ)は後回しだ」


 軍議はその場で組み直された。


 俺たちが東へ目を向けようとした、まさにその時だった。


 新たな戦が、北から関中を呼んでいた。

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