第108話 西へ向けた目
劉邦が巴蜀へ兵を送り始めた。
その報告を受けた時、俺はしばらく地図から目を離せなかった。陳倉で敗れた以上、韓信が同じ道をもう一度使うとは思っていなかったが、だからといって漢中に閉じ籠もるとも考えていなかった。次にどこから来るのか警戒していたところへ、夏侯嬰と盧綰がそれぞれ兵を率いて巴蜀へ入ったという知らせが届いたのである。
「……長期戦に切り替えたか」
俺が呟くと、傍らにいた蒙凛が地図を覗き込んだ。
「巴蜀からこちらを攻めるつもりでしょうか?」
「すぐには来ないと思う。あそこから関中へ大軍を出すだけでも大変だからね。それより、巴蜀そのものを育てるつもりなんじゃないかな」
山道を整え、人を入れ、農地を広げ、倉を作れば、漢中と合わせて大きな後方拠点になる。それを考えたのが韓信なのか、蕭何なのか、おそらく両方なのだろう。
陳倉で勝ったからといって安心はできない。
むしろ一度負けたことで、韓信は正面から俺を抜くことを諦めた。その分だけ、次に何をしてくるのか分からなくなったとも言える。
「黥布からは?」
「陳倉の補強は順調です。本人は退屈だと文句ばかり言っているそうですが」
「やっぱりか」
俺は思わず苦笑した。
「城から出るなって、もう一度伝えておいて」
「三度目ですけど」
「四度でも五度でも言ってくれ」
蒙凛も小さく笑ったが、俺はすぐに地図へ視線を戻した。
南の漢だけを見ているわけにはいかない。
東では、もっと大きな火が広がり始めていた。
◆
項羽が行った論功行賞は、戦場で実際に働いた者を重く扱い、そうでない者を容赦なく冷遇するものだった。
本人にとっては公平なのだろう。
鉅鹿で秦軍を前に動かなかった者と、命を懸けて戦った者が同じ恩賞を受ける方がおかしい。そう考える項羽の気持ちは、俺にも分からなくはない。
だが、天下を治めるのは戦場とは違う。
王になれなかった者、望んだ土地を与えられなかった者、古くからその地を支配していたにもかかわらず、項羽の一存で別の者を王として押しつけられた者。そうした不満が各地に積み重なり、斉を皮切りに一気に噴き出した。
趙、魏、燕でも争いが起こり、龍且や鍾離眜まで鎮圧に追われている。項羽本人が出れば反乱軍はまともに戦わず散り、別の土地で再び集まるため、楚軍は広大な東方で終わりの見えない戦いを続けていた。
その報告が届くたび、俺の中には一つの考えが浮かんでは消えた。
今なら、楚から離れられる。
関中で反楚の旗を掲げれば、項羽に不満を持つ勢力がこちらへ寄ってくる可能性は高い。かつて秦の公子だった俺が動けば、東の情勢にも大きな影響が出るだろう。
それでも、決断できなかった。
項羽は俺を信じている。
十万を超える秦の降兵を預けた時も、范増が反対する中で俺を選んだ。論功行賞でも関中王となることを認めてくれたし、冗談なのか本気なのか分からないが、いまだに俺を婿にすることまで諦めていないらしい。
あの豪快な笑い声を思い出す。
敵に回れば恐ろしい女だ。怒れば街一つを焼くことさえためらわない。その一方で、気に入った相手には驚くほど真っ直ぐで、裏表がない。
俺だって、何も感じていないわけではなかった。
「……だから面倒なんだよな」
思わず漏れた言葉に、蒙恬が反応した。
「何がでございますか?」
「いや。こっちの話」
「項羽殿のことでございましょう」
あっさり見抜かれた。
◆
その日の軍議には、蒙恬、王賁、蒙凛、楊端和らを集めた。
机の中央には関中から東へ広がる地図を置いている。
「今なら楚と戦えると思う」
俺が切り出しても、誰も驚かなかった。
「斉だけじゃない。趙も魏も燕も落ち着いていない。項羽は各地へ兵を出していて、俺たちを討つために全軍を西へ向ける余裕はないはずだ。だから今、反楚を掲げれば呼応する勢力はかなりあると思う」
そこで王賁が腕を組んだ。
「でも、私はまだ早いと思う」
「理由は?」
「東が乱れてるからだ。今の楚が苦しんでるのは確かだけど、だからって斉も趙も魏も扶蘇の味方になるわけじゃない。お前が東へ出た瞬間、そいつら全部の思惑に巻き込まれるぞ」
王賁は地図の上を指でなぞった。
「それに劉邦も生きてる。お前が主力を東へ出した隙に、また関中を狙わない保証もない」
「私も、今は東へ深入りするべきではないと考えます」
蒙恬が続けた。
「関中を得てから、まだそれほど年月が経っておりません。法を改め、税を整え、軍を再編している途中です。ここで大戦を始めれば、せっかく戻り始めた民を再び戦へ駆り立てることになります」
耳の痛い話だった。
秦が短命に終わった理由を考えながら統治を始めたのに、自分から大規模な戦争へ踏み込めば本末転倒である。
「では、何もしないのですか?」
楊端和が尋ねた。
「いや。東へは出る。ただし、楚を討つためじゃない」
俺は地図へ指を置いた。
「ここまでだ」
太行山脈の西側。
関中の東を守るためにも重要な地域で、さらに北へ進めば旧趙領へ繋がっている。
今、その趙は一つの国と呼べるような状態ではなかった。
◆
項羽によって王に封じられた張耳と、王になれなかった陳余の対立は深まり、旧趙領では双方の勢力が入り乱れていた。
中央の命令が届かない土地も増え、どちらにつくべきか決められない城邑も多い。戦乱で職を失った兵や農民まで流れ込み、街道沿いには盗賊や私兵の集団が増えていた。
特に閼与周辺はひどい。
かつて秦と趙が争った土地でもあり、関中から東へ勢力を広げるなら放置できない位置にある。それにもかかわらず趙の支配は十分に及ばず、商人が襲われ、いくつもの集落が賊の根城になっているという。
「まずここを押さえたい」
俺は閼与を指した。
「楚と戦うためじゃない。関中の東側を安定させるために、太行山脈より西の混乱している地域を少しずつこちらへ組み込む。街道を整えて賊を掃討し、耕せる土地には人を戻す」
「東へ出る足場にもなりますね」
蒙凛が言った。
「ああ。ただし、それは将来の話だよ。今は領土を広げることより、広げても支えられるだけの国力を作る方が先だ」
兵糧を増やし、人口を戻し、税を軽くしながら国庫を整える。劉邦が巴蜀を育てるつもりなら、こちらも時間を無駄にはできなかった。
王賁はしばらく地図を見てから頷いた。
「それなら悪くない。太行より東へ出なければ、楚への露骨な敵対には見えにくいし、旧趙領の混乱を鎮めるって名目も立つ」
「項羽には一応、使者を出しておいた方がよろしいでしょう」
蒙恬が言う。
「趙の内乱へ加担するのではなく、関中に近い無主同然の地域で賊を討つのだと伝えておけば、あちらも今すぐ殿下と争おうとはしないはずです」
「そうしよう」
俺も頷いた。
今はまだ、項羽と戦う時ではない。
いずれ天下を巡ってぶつかることになるかもしれない。それでも少なくとも、俺の方から彼女の信頼を踏みにじるような始め方はしたくなかった。
「決めよう。楚とは戦わない。まず関中を固め、その上で太行山脈の西側までを安定させる。閼与周辺の賊を掃討して、こちらの勢力圏へ組み込む」
異論は出なかった。
関中を得たからといって、すぐ天下へ手を伸ばす必要はない。
秦があれほど短く終わったのなら、俺は同じ失敗を繰り返したくなかった。
◆
数日後には、閼与へ向けた出兵の準備が始まった。
今回は天下を争う大戦ではないため、全軍を動かす必要はない。俺自身が兵を率いるか、それとも蒙恬や王賁へ任せるか、関中には誰を残すかまで詰めていた。
「扶蘇、お前まで行く必要はないんじゃないか?」
王賁が地図を眺めながら言った。
「盗賊討伐なら私か蒙恬で十分だ。お前は関中に残って政務を見てた方がいい」
「でも、あの辺りをこの先こっちへ組み込むなら、最初くらいは自分で見ておきたいんだよ」
「王になっても相変わらずだな」
「何が?」
「自分で見ないと気が済まないところ」
王賁は呆れたように笑った。
その時だった。
天幕の外が急に騒がしくなった。
やがて入口が開き、一人の騎兵が転がり込むように入ってくる。全身が埃にまみれ、馬を何度も替えながら昼夜を問わず走ってきたことは一目で分かった。
「関中王!」
兵はその場へ膝をついた。
「北辺より急報にございます!」
俺の手が止まった。
北。
その一言だけで、嫌な予感がした。
「何があった?」
伝令は荒い息を整えながら、ようやく声を絞り出した。
「匈奴が動きました。新たな単于を名乗る冒頓が大軍を率いて南下しております。すでに北辺の集落がいくつも襲われ、各地で烽火が上がっております!」
冒頓。
その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
知っている。
頭曼の後を継ぎ、やがて匈奴を巨大な勢力へまとめ上げる男。後の漢帝国すら北から圧迫することになる単于だ。
よりによって、この時に。
蒙恬の表情も一変していた。
「兵力は?」
「まだ正確には掴めておりません。ただ、これまでの略奪とは規模が違います。複数の部族が同時に南下しているとのことです」
俺は地図の閼与へ置いていた指をゆっくり北へ動かした。
東へ出る計画は、これで止めるしかない。
「出兵準備は中止する」
俺は立ち上がった。
「全軍へ伝えてくれ。行き先を変える」
王賁がこちらを見る。
「北か」
「ああ」
南では劉邦が巴蜀へ根を張ろうとし、東では項羽の天下が燃えている。
そこへ今度は、北から冒頓が来た。
「まず北辺の状況を掴む。閼与は後回しだ」
軍議はその場で組み直された。
俺たちが東へ目を向けようとした、まさにその時だった。
新たな戦が、北から関中を呼んでいた。




