第107話 南と北
韓信軍が山中へ退いた後も、俺は追撃を命じなかった。
逃げ道となった間道は、大軍が並んで進めるような場所ではない。こちらが勢いに任せて入り込めば、少数の伏兵に前後を塞がれるだけでも被害が出る。何より今回の目的は劉邦を討ち取ることではなく、関中への侵入を防ぐことだった。
「追わなくてよろしいのですか?」
蒙凛に聞かれ、俺は山へ消えていく敵兵を見ながら頷いた。
「ここで勝ったからって、山の中まで韓信の土俵に付き合う必要はないよ。兵を戻して、負傷者の手当てを優先してくれ」
こちらにも少なくない死傷者が出ている。韓信を先回りできたとはいえ、樊噲と灌嬰に城外の二軍を止められ、中央では大量の弩を用意してなお粘られたのだから、手放しで喜べる勝利ではなかった。
そして戦場には、最後まで退かなかった女が残されていた。
◆
樊噲の遺体は、山道へ続く狭い場所で見つかった。
片腕を失いながらも左手には武器が残り、その周囲には彼女とともに殿を務めた漢兵たちが倒れていた。黥布から事情を聞くと、韓信を逃がすため、自分から残ったのだという。
「最後まで退かなかったぜ」
珍しく笑っていない黥布が、樊噲の亡骸を見下ろした。
「右手がなくなってるってのに、左だけで向かってきやがった。俺が死ぬぞって言ったら、知ってるってよ。馬鹿みてえな女だった」
「そうか」
「嫌いじゃねえ」
黥布なりの最大級の褒め言葉なのだろう。
俺は樊噲の顔を見た。
鴻門で項羽の前へ飛び込み、主人を守るために堂々と怒鳴った女。その時にはまさか、こんな形で敵として死ぬことになるとは思っていなかった。
「遺体を丁重に弔ってくれ。捕らえた漢兵にも、墓を作るのを手伝わせていい」
「敵将だぞ?」
「だからこそだよ。あいつは自分の軍を逃がすために残った。それくらいの礼は払いたい」
黥布は少しだけ俺を見た後、肩を竦めた。
「王様がそう言うなら、好きにしな」
後日、樊噲は戦死した漢兵たちとともに葬られた。墓標には余計な侮辱も、勝者を誇る言葉も刻ませなかった。
漢将・樊噲。
ただ、それだけで十分だった。
◆
戦が終わると、俺はすぐに陳倉の守りを見直した。
今回、韓信がこの道を使った以上、もう一度狙われる可能性は高い。ただし次は奇襲ではなく、本格的な攻城戦になることまで考えておかなければならなかった。
「城壁の弱い場所を補強して、外には柵と壕を増やす。弩の予備もここへ集めよう。山道から出たところで大軍が一気に展開できない地形そのものを利用する」
俺は城壁から周辺を見渡した。
陳倉という土地の価値は知っている。
後の時代には、ここを巡って何度も大軍が動くことになる。守り方さえ間違えなければ、数千の兵でも十万の軍を簡単には通さないほどの壁になり得る。
「黥布」
「何だ?」
「ここを任せたい」
黥布は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺に城守りかよ。性に合わねえぞ」
「分かってる。細かい守備や工事は秦の工兵と守備官にやらせる。お前は敵が城へ取りついた時に叩き出してくれればいい」
「それなら話は別だな」
急に機嫌が直った。
「城から出ちゃ駄目だからな」
「善処する」
「それ、絶対出る奴の返事だろ」
俺は念を押しつつも、黥布へ陳倉の守備を任せることにした。
劉邦も韓信も、この一度の敗北で諦めるとは思えない。むしろ今回、正面から関中へ入ることの難しさを知った以上、次は別の手段を考えてくるはずだった。
◆
俺の予想どおり、劉邦軍はそのまま漢中まで退いた。
敗残兵をまとめ直し、負傷者を収容し、ようやく落ち着いた頃には、陳倉へ再び進めるような状態ではなくなっていた。
韓信は地図を前に、長い間黙っていた。
「もう一度、陳倉から行くのは駄目か?」
劉邦が尋ねると、韓信はすぐに首を振った。
「無理です。今回ですら待たれておりました。次は陳倉そのものが要塞となっているでしょうし、同じ道を使えばこちらの兵力も進軍時期もすべて読まれます」
「じゃあ桟道を直すか?」
「そちらも扶蘇が警戒しております。関中へ直接入ろうとする限り、我らは狭い出口で待ち構えられることになります」
劉邦は不満そうに地図を睨んだ。
「じゃあどうするんだ。漢中で一生暮らせってのか?」
「関中へ出なければよいのです」
「……何?」
韓信の指が、地図の南へ移った。
巴蜀。
名目上は劉邦へ与えられた領土だったが、漢中以上に山深く、中央から見れば流刑地と大差ない。土地そのものは広いものの、統治も開発も十分に進んでおらず、今の劉邦にとっては持っているだけに近かった。
「巴蜀を本格的に押さえます」
「待て待て」
劉邦は思わず身を乗り出した。
「関中に戻る話をしてるのに、何でさらに奥へ行くんだよ。漢中だけでも僻地なのに、その向こうだぞ?」
「だからです。扶蘇も、すぐに我々が巴蜀へ力を入れるとは考えにくい」
「それで何年かかるんだよ!」
劉邦は声を荒らげた。
「道を作って、土地を治めて、そこから東へ出るんだろ? 俺は老人になるまで山の中で畑を耕える気はないぞ!」
韓信は反論しなかった。
代わりに、それまで地図を眺めていた蕭何が口を開いた。
「私は面白いと思います」
「蕭何まで何言ってるんだよ」
「巴蜀は遠いですが、土地そのものが悪いわけではありません。水を整え、田畑を広げ、戸籍と倉を作れば、大きな兵糧基地にできます。関中を正面から奪えないのなら、まず長く戦える国を作るべきです」
韓信もそこで頷いた。
「巴蜀から長江へ出る道を整えれば、関中を通らず東へ兵を動かす選択肢も生まれます。遠回りにはなりますが、扶蘇が関中にいる以上、近道にこだわる方が危険です」
「……何年もかけろってことか」
「一年を惜しんで全軍を失うよりは」
陳倉での敗北を経験した後だけに、その言葉には重みがあった。
劉邦はしばらく不満そうにしていたものの、最後には諦めたように頭を掻いた。
「分かったよ。そこまで二人が言うならやる」
そして夏侯嬰と盧綰へ、それぞれ一万を預けることが決まった。
夏侯嬰には交通路と輸送の確保を、盧綰には各地の勢力との交渉と治安維持を任せ、蕭何が漢中から人員と物資を送って統治を整える。
短期間で天下へ飛び出すための策ではない。
漢という勢力そのものを育てるための策だった。
◆
軍議が終わりかけたところで、韓信はもう一度地図を広げた。
「もう一つ、行うべきことがあります」
「まだあるのか?」
劉邦は露骨に嫌そうな顔をした。
「巴蜀の開拓だけでは、扶蘇が強くなる時間も与えることになります。我々が力を蓄える間、向こうにも別の敵と戦ってもらうべきです」
「別の敵?」
韓信の指が関中から北へ動いた。
「匈奴です」
劉邦の顔が険しくなった。
「胡と組むのか?」
「味方にする必要はありません」
韓信は淡々と答えた。
「扶蘇の敵でいてもらえば十分です。北辺へ匈奴が侵入すれば、扶蘇は兵を北へ回さざるを得ない。その分だけ関中へ置ける兵が減ります」
蕭何もすぐに意図を理解した。
「私たちは南で力を蓄え、北から匈奴に圧力をかけさせる。その間に扶蘇の兵を分散させるということですね」
「はい」
劉邦は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「……使者を出すだけだぞ。匈奴のために俺たちが兵を出したりはしない」
「それで十分です」
こうして漢から、北の草原へ密使が送られることになった。
◆
その頃、匈奴でも一つの時代が終わっていた。
長く単于の座にあった頭曼が死に、その子である冒頓が新たな単于となったのである。
すでに成人していた冒頓は、父が捕らえた趙の女将から生まれた息子だった。
そして草原の風習に従い、父が残した妻たちのうち、実の母を除く女たちは新たな単于へ引き継がれることになった。
その中に、羌瘣もいた。
かつて秦の将として北辺へ出征し、匈奴に捕らえられた女。
頭曼の傍らで長い年月を過ごしながら、ついに単于の子を産むことはなかった女でもある。
「……私も、お前の妻になれというのか」
羌瘣は、新たな単于を前にしても困惑を隠さなかった。
「私はお前の父の妻だったのだぞ」
「それがどうした」
冒頓の答えは、あまりにも簡単だった。
「父は死んだ。今の単于は俺だ。父が残したものを俺が守り、引き継ぐ。それが草原のやり方だ」
「中華では、そのようなことはしない」
「ここは中華ではない」
羌瘣は睨み返した。
長く匈奴で暮らしてきても、この風習だけは理解できない。父の妻だった女を、息子がそのまま妻にするという感覚は、どうしても自分の中の常識と噛み合わなかった。
だが冒頓は、そんな羌瘣をしばらく眺めた後、不意に言った。
「父の子を産めなかったそうだな」
羌瘣の表情が強張った。
触れられたくないところだった。
頭曼の妻として生き残りながら、その子を残すことはできなかった。匈奴での自分の居場所を作るため、一時はそれを望んだことすらある。
「それが何だ」
「別に」
冒頓は一歩近づいた。
「お前は単于の子を産めなかった。それでお前に価値がないと言う者もいるらしい」
羌瘣の目が鋭くなる。
「なら、お前もそう思えばいい」
「俺がいつ言った?」
冒頓は羌瘣の顎を上げさせ、真正面からその目を見た。
「お前に本当に価値があるかどうかは、俺が判断する」
「随分と傲慢な男だな」
「単于だからな」
羌瘣が何か返す前に、冒頓はその身体を抱き寄せた。
若い。
そのことを、羌瘣は嫌でも意識した。
父である頭曼とは違う。鍛えられた腕も、胸板も、自分を見下ろす顔にも若い男の力が満ちていた。
「離せ」
「嫌なら、本気で振りほどいてみろ」
「……後悔するぞ」
「それならそれで、お前がどれほど強いか分かる」
挑発するように笑う冒頓を、羌瘣はしばらく睨み続けた。
腹立たしい。
草原の風習も理解できない。
この男の傲慢さも気に入らない。
それでも、胸の奥では別の感情が動き始めていた。
頭曼より若く、強く、何より自分の価値を「子を産めるかどうか」だけで決めていない。
その夜、羌瘣は新しい単于の妻となった。
◆
翌朝。
「起きろ」
羌瘣が目を開けると、すでに身支度を整えた冒頓が立っていた。
「……何だ」
「馬に乗るぞ」
「私はお前の妻になったばかりなのだが」
「だから何だ?」
冒頓は当然のように答えた。
「父から聞いている。お前は秦の将だったのだろう。妻だからといって幕の中で寝かせておくつもりはない。戦えるなら働け」
羌瘣は呆気に取られた。
やがて、小さく笑った。
「本当に、父親とは違うな」
「父と同じ男が欲しかったか?」
「まさか」
羌瘣は立ち上がった。
草原へ出ると、冒頓は自ら馬を駆り、騎射を見せた。速い馬上で姿勢をほとんど崩さず、矢を放つ。単に単于の息子として育っただけではなく、戦士としても確かな腕を持っていた。
羌瘣も負けじと馬を並べる。
最初は、父とは違う男なのだと思っただけだった。
だが馬を並べ、戦について語り、冒頓が自分を妻である以上に一人の戦士として扱うたび、その感情は少しずつ変わっていった。
草原の風習はいまだ理解できない。
それでも、冒頓という男そのものには惹かれていく。
その事実を、羌瘣自身が認めるまで、それほど長い時間は必要なかった。
◆
そんな折、漢から密使が草原へ到着した。
新たな単于・冒頓へ会いたいという。
使者を前へ通すと、冒頓は羌瘣を自分の傍らに座らせたまま話を聞いた。
「漢王・劉邦様より、単于へお話がございます」
「言ってみろ」
「我らが敵とするのは関中王・扶蘇。もし匈奴が北辺から関中へ圧力をかけるのであれば、漢もそれを妨げることはございません」
その名を聞いた瞬間、羌瘣の目が僅かに動いた。
扶蘇。
そして、その傍らにいるであろう蒙恬や楊端和。
遠くなったはずの秦での日々が、一瞬で胸の奥へ戻ってきた。
冒頓は、そんな羌瘣の反応にも気づいていた。
「なるほど」
新たな単于は、使者を見ながら笑った。
「漢のために戦えという話ではないのだな」
「もちろんでございます。ただ、我らと単于には共通の敵がいる。それだけのことかと」
「悪くない」
冒頓は答えた。
漢を助けるつもりなどない。
だが北辺の守りが薄く、関中の王が南にも敵を抱えているというのなら、その機会を利用しない理由もなかった。
「羌瘣」
「何だ」
「お前は扶蘇を知っているのだったな」
「ああ」
「なら、ちょうどいい」
冒頓の笑みが深くなる。
「今度は俺の妻として、そして俺の戦士として、昔の主に会ってみるか?」
羌瘣はすぐには答えなかった。
かつて秦の将として北へ来た自分が、今度は匈奴の側から南を見ることになる。
その皮肉を噛み締めた後、羌瘣は静かに笑った。
「面白い」
草原に、新たな戦の気配が漂い始めていた。




