第106話 遅すぎた本隊
韓信は、戦いが始まってから何度も背後の山道へ目を向けていた。
だが、いつまで待っても劉邦の旗は現れない。先鋒三万が陳倉へ出て足場を作る頃には、本隊も山道の出口へ近づいているはずだったが、見えるのは険しい山肌と、その間を縫う細い道ばかりだった。
正面の戦況も楽ではない。
韓信は盾を前へ集め、弩が放たれた直後だけ兵を進ませることで、最初の矢雨には対応した。ところが扶蘇はすぐに弩兵を複数に分け、射撃の間隔をずらしてくる。第一隊の矢を受けて前へ出れば第二隊が撃ち、そこで足を止めればさらに別の列から矢が降るため、漢兵は少しずつ距離を詰めているものの、その代償として確実に疲労を重ねていた。
「また射撃の位置を変えましたね」
韓信は城壁を睨みながら呟いた。
戦いが続くにつれて、陳倉側の射撃はむしろ正確になっている。城壁の弩兵たちは狙う距離を覚え、盾の重なりが薄い場所や、負傷者を下げるため隊列が乱れた瞬間へ矢を集め始めていた。
しかも弩の数が多い。
韓信は多少の備えがあることは想定していたが、扶蘇がここまで大量の弩と矢を陳倉へ運び込んでいるとは思わなかった。
(どこまで備えていた)
盾を支える兵の腕は次第に下がり、交代の間隔も短くなっている。もともと険しい山道を越えてきた直後なのだから当然であり、攻め続けられる時間はもう長くなかった。
「伝令を出します」
韓信はついに背後へ兵を走らせた。
「沛公へ、可能な限り急いでいただくよう伝えてください。こちらは扶蘇に待ち伏せされ、陳倉正面で足止めされています。王賁と蒙恬も出ており、本隊が来なければ長くは保ちません」
伝令は狭い山道へ駆け込んでいった。
韓信はその背を見送った後、何事もなかったように前を向いたが、胸中には焦りが生まれ始めていた。
◆
その頃、劉邦の本隊は山中で足を止めていた。
先鋒が通った後で多少は整えられているとはいえ、大軍が進むにはあまりにも険しい。ところどころで荷駄が詰まり、馬が足を痛め、疲れ切った兵が列から遅れ始めたため、夏侯嬰はこのまま無理に進ませれば、陳倉へ出る前に本隊そのものが崩れると判断した。
「沛公、一度休ませた方がいいです。馬がかなり参っていますし、このまま押せば転落する兵も増えます」
その言葉を聞いた劉邦は、待っていましたと言わんばかりに近くの岩へ腰を下ろした。
「俺もそう思ってたんだよ。何なんだ、この道は。韓信の奴、よく三万もこんなところへ通したな」
「先鋒は荷をかなり削っておりますからね。こちらは人数も荷駄も多いので同じようには進めません」
夏侯嬰が馬の様子を見に行く横で、盧綰も水を口にした。
「でも、あんまり休んで大丈夫なのか? 韓信は先に行ってるんだろ」
「大丈夫だろ」
劉邦は干し肉を受け取り、さほど気にした様子もなく答えた。
「あいつは蕭何が天下を狙うなら大将軍にしろって言ったやつだぞ。今頃はもう陳倉くらい落として、俺たちが来るのを待ってるんじゃないか?」
「ずいぶん信用するんだな」
「信用っていうより、そこまで言われて大将軍にしたんだから働いてもらわないとな」
険しい地形のため休息を取る判断そのものは間違っていなかった。
ただ、劉邦は先鋒がすでに敵と交戦している可能性を、あまり深刻に考えていなかった。
その楽観が、陳倉では一刻ごとに重い意味を持ち始めていた。
◆
城壁の上から敵を見る俺にも、韓信軍の疲労ははっきり分かるようになっていた。
「さっきより盾が下がっていますね」
蒙凛が指した先では、漢兵たちが交代しながら盾を支えている。最初は弩を恐れながらも規則正しく前進していたが、今では矢を受けるたびに止まる時間が長くなり、負傷者を後方へ運ぶ人数も増えていた。
「そろそろ限界が近いと思う」
「門を開けますか?」
「ああ。今なら効く」
俺は西の山道をもう一度確認した。
劉邦はまだ来ない。
韓信が本隊を待っているのなら、その前に中央を崩す。
「黥布へ伝えてくれ。出番だ」
蒙凛はすぐに伝令を走らせた。
◆
陳倉の城門が開き始めた時、韓信は守備側が打って出るのだと考えた。
弩兵だけでこちらを止め続けることが難しくなり、城内の兵を使って押し戻しに来る。そう判断して隊列を整えさせたが、門の奥から現れた男を見た瞬間、韓信の顔色が変わった。
「待ちくたびれたぜ!」
顔に黥を刻んだ大男が、手勢を率いて飛び出してくる。
「黥布……!」
韓信の想定では、黥布や楊端和は関中へ通じる別の道を警戒しているはずだった。扶蘇本人と王賁、蒙恬まで陳倉へ集めた以上、他の要所を空にすることはできないと読んでいたのである。
その読みが外れた。
しかも、最悪の時機だった。
山越えと弩の射撃で消耗した漢兵へ、休ませていた黥布の部隊が正面から突っ込んだ。盾兵が最初の衝撃を受け止めようとしたものの、黥布自身が先頭へ食い込み、盾ごと押し倒された兵が後列へぶつかったことで隊列が一気に乱れる。
「中央を下げろ! 崩れた場所へ予備兵を入れて、走って逃げさせるな!」
韓信はすぐに前進を捨て、数百歩ほど後退して陣形を組み直すよう命じた。黥布に正面から押されながらも、隊ごとに下がる順番を決め、混乱した兵を後方の部隊が受け止めさせたため、中央は大きく押されたものの敗走には至らなかった。
それでも、漢軍が攻める側ではなくなったことは明らかだった。
◆
北側で王賁と戦っていた樊噲も、中央の異変に気づいた。
黥布の旗が現れ、漢軍中央が後退している。
「まずいな。中央へ戻る!」
樊噲は部下へ声を掛けると、王賁との戦いを切り上げて馬首を返した。
その瞬間、王氏の兵列から一人の兵卒が飛び出した。
将の旗は持たず、鎧も周囲の兵と変わらない。兜を深く被っているため顔もよく見えなかったが、その手にある大剣だけは兵卒が扱うには異様なほど巨大だった。
「樊噲!」
背後から呼ばれ、樊噲が振り返る。
大剣が横薙ぎに迫り、咄嗟に武器を合わせた瞬間、樊噲は馬上で大きく身体を揺らした。
「何だ、てめえ!」
兵卒とは思えない力だった。
樊噲もすぐに反撃へ移り、互いの武器が何度も激しくぶつかる。大剣を持つ兵卒は力だけなら樊噲にも引けを取らず、その一撃を受け止めながら中央へ戻ろうとする道を塞いだ。
「そこをどけ!」
樊噲が強引に押し退けようとした時、横から王賁が間合いへ入った。
大剣の兵卒へ意識を取られていた樊噲は反応が僅かに遅れた。
王賁の刃が右腕を走る。
「ぐあっ!」
武器を握っていた右手が宙へ飛んだ。
樊噲は激痛に身体を折りながらも落馬せず、周囲の漢兵に守られてその場から後退した。王賁は深追いせず、兵卒の姿をした女へ一瞬だけ視線を向ける。
「よくやった、王離」
周囲に聞こえないほどの声だった。
「はい、母上」
王離は兜をさらに深く被り直した。
世間では死んだことになっている以上、ここで名を知られるわけにはいかない。王氏の兵卒として戦場へ紛れたまま、王離は再び大剣を構えた。
◆
「樊噲殿、右手を失いました!」
報告を受けた韓信は、これ以上三つの戦線を維持するのは危険だと判断した。
中央は黥布に押され、北では樊噲が重傷を負った。南の灌嬰もまだ蒙恬の展開を妨げているものの、同じ動きを繰り返したことで次第に対応され始めている。
「各隊を中央へ戻し、円陣を組ませます。盾と槍を外へ向け、負傷者を内側へ入れてください」
攻撃は諦める。
それでも、まだ逃げない。
兵を一つにまとめて耐え、本隊の到着を待つ。
南では灌嬰も命令を受けて騎兵を引き始めたが、今度は蒙恬がその動きを読んでいた。追い回すのではなく、騎兵が中央へ戻るために使いそうな道へあらかじめ槍兵を動かしたため、灌嬰は何度も進路を変えなければならなくなった。
「さすがに同じ手は続かないか」
灌嬰は舌打ちしたものの、無理に突破しようとはしなかった。
騎兵を失えば撤退そのものが難しくなる。
少しずつ距離を取りながら、韓信の円陣へ戻っていく。
◆
そこへ、ようやく催促に出した伝令が戻ってきた。
「本隊はどこです!」
韓信は伝令が息を整えるのも待たずに尋ねた。
「まだ山中にございます。荷駄と馬が詰まり、兵も疲労しておりまして、夏侯嬰殿の進言で一度休息を取っております」
「休息?」
「はい。沛公は、今頃は大将軍が陳倉を落としている頃であろうから、無理をして本隊を崩す必要はないと……」
韓信は黙った。
怒りより先に、計算が終わった。
今から劉邦本隊が休息を切り上げ、細い道を抜けてくるまでにはまだ時間がかかる。それまで円陣を維持したとしても、負傷者は増え、兵糧も減り、周囲から圧力をかけられ続ける。
ここまでだった。
「退却します」
韓信はすぐに命令を切り替えた。
「円陣を崩さず、部隊ごとに順番を決めて山道へ入れてください。負傷者を内側へ置き、先に逃げようとする者は止めます。ここで軍を崩せば、山中で全滅します」
先鋒三万を生きて戻す。
それだけが、今の韓信に残された仕事だった。
◆
撤退は容易ではなかった。
細い山道へ一斉に殺到すれば詰まるため、韓信は部隊を順番に下がらせ、その間を盾兵と槍兵で守らせた。黥布が圧力をかけても、一度に全軍を走らせず、前の部隊が山へ入るまで次の隊を踏み止まらせたことで、敗走になることだけは防いでいた。
「急ぐな! まだ走るな! 前が空いてから入れ!」
韓信自身は後方へ残り、次々と兵を山道へ送り込んだ。
負けた。
自分の策は読まれ、兵を危地へ連れ込み、樊噲まで重傷を負わせた。
ならば最後まで残るのは自分でなければならない。
「大将軍、もうお下がりください!」
「最後の隊が入るまで残ります」
「ですが」
「私がここへ連れてきたのです」
韓信はそれ以上言わせなかった。
前方では黥布の軍が近づき、北からは王賁軍も圧力を強めている。ここに残れば、生きて戻れる保証はない。
それでも構わないと思っていた。
そこへ、片腕を血に染めた樊噲が現れた。
◆
「何やってんだ、お前」
韓信が振り返り、目を見開く。
「樊噲殿! なぜここに。すぐに山へ入ってください、その傷では」
「だから来たんだよ」
樊噲は右腕を布で固く縛り、左手だけで武器を持っていた。顔色は悪く、立っているだけでも相当な痛みがあるはずなのに、韓信を睨む目にはいつもの強さが残っている。
「殿は私が務めます。大将軍は先に行け」
「何を言っているのです。その身体で追撃を止められるわけがない!」
「なら、お前なら止められるのか?」
韓信が言葉を失った。
樊噲は一歩近づいた。
「三万をここまで逃がしたのは誰だ。山の向こうまで連れて帰れるのは誰だ。お前がここで死んで、残った奴らを誰がまとめるんだよ」
「ですが、この敗戦は私の策が」
「ふざけんな!」
怒声が飛んだ。
「負けた責任を取って死ぬ? そんな簡単なことしてんじゃねえよ。負けたなら次に勝て。大将軍ってのは、そのためにいるんだろうが!」
韓信は何も返せなかった。
「私はもうこの腕だ。今までみたいには戦えねえ。でも、お前は頭が残ってるだろ。だったら使える奴が生き残れ」
「樊噲殿……」
「行け!」
背後から黥布軍の喊声が近づいている。
これ以上言い争っている時間はなかった。
韓信は唇を噛み、深く頭を下げた。
「……必ず、迎えに戻ります」
「戻ってくる頃には終わってるよ」
樊噲は笑った。
「だから、次は勝て」
韓信は振り返らなかった。
振り返れば、残ってしまう気がしたからだ。
◆
最後の漢兵が山道へ入り始める頃、黥布が追いついた。
その前に、樊噲が立っている。
右手はない。
左手だけで武器を構え、その後ろには殿を志願したわずかな兵が残っていた。
「……おいおい」
黥布は呆れたように笑った。
「その腕で俺を止める気か?」
「止めるなんて言ってねえよ」
樊噲も笑う。
「少し付き合ってもらうだけだ」
「死ぬぞ」
「知ってる」
その答えに、黥布の笑みが少しだけ消えた。
「名前は?」
「樊噲」
「覚えといてやる」
「そいつは光栄だね」
樊噲は左手で武器を持ち上げた。
その後ろでは、韓信が守った三万の残兵が次々と山へ消えていく。
樊噲は一度だけその方向を見た後、迫る黥布へ向き直った。
もう逃げなかった。
◆
韓信が劉邦の本隊と合流したのは、その日の遅い時刻だった。
山道の途中で敗残兵が次々と現れたことで、さすがの劉邦も何か起きたことに気づいていた。休息はすぐに打ち切られ、進軍を再開していたものの、その時にはもう遅かった。
泥と血にまみれた韓信を見つけると、劉邦は自ら駆け寄った。
「韓信! 何があった?」
「何があった、ではありません!」
韓信は初めて感情を剥き出しにした。
「なぜ来なかったのです! こちらは三万で扶蘇、王賁、蒙恬、さらに黥布まで相手にしていたのですよ!」
劉邦は言い返さなかった。
「……悪かった。道が想像以上に酷くて、夏侯嬰にもこのままじゃ本隊が崩れるって言われた。それで休ませたんだ。俺も、お前ならもう陳倉を落としてるだろうって勝手に思ってた」
「その間に何人死んだと思っているのです」
「分かってる。俺の判断が甘かった」
劉邦は素直に頭を下げた。
その姿を見ても、韓信の怒りは簡単には消えなかった。だが、それ以上責めようとしたところで、劉邦が周囲の兵を見回した。
「……樊噲は?」
韓信の表情が固まった。
劉邦も、それだけで何かを察したらしい。
「おい。樊噲はどこだ?」
誰も答えない。
「韓信」
「殿を……代わってくださいました」
韓信は絞り出すように答えた。
「私が最後まで残るつもりでした。しかし樊噲殿は、私が残兵を連れて帰れと。右手を失った身体で、自ら追撃を止めると……」
劉邦の顔から血の気が引いた。
「戻ってくるんだろ?」
韓信は答えなかった。
「樊噲だぞ。あいつなら片腕でも逃げてくるだろ。そういう奴だろ」
それでも誰も答えない。
やがて劉邦は、その場へ膝をついた。
「……嘘だろ」
沛から付き従ってきた女だった。
無茶をすれば怒鳴り、危険な場所には真っ先に飛び込み、鴻門では自分を救うために項羽の天幕へまで突入した。
「俺が……もう少し早く行ってれば」
声が震えた。
劉邦は顔を覆い、その場で子供のように泣いた。
韓信は、その姿を黙って見ていた。
自分の策が失敗した。
劉邦の到着も遅れた。
そして、その間を埋めるために樊噲が死んだ。
誰か一人の責任にして済む話ではなかった。
しばらくして劉邦は涙を拭い、まだ赤い目で韓信を見た。
「お前のせいじゃない」
「私がこの道を選びました」
「でも遅れたのは俺だ」
「策を立てたのは私です」
しばらく互いに譲らなかった。
最後に劉邦は鼻をすすりながら、疲れ切ったように息を吐いた。
「じゃあ、次は二人で間違えないようにしよう」
韓信は驚いたように顔を上げた。
敗軍の将を責めるでもない。
大将軍から降ろすとも言わない。
次があることを、当然のように口にした。
韓信には、まだ劉邦という男が分からなかった。
軽率で、楽観的で、腹が立つ。
それでも、敗れた自分へもう一度兵を預けようとしている。
「……承知しました」
やがて韓信は小さく答えた。
陳倉への最初の進攻は失敗した。
だが、劉邦と韓信の戦いは、それで終わったわけではなかった。




