09、魔王
その日の図書室は、いつもより静かだった。
窓の外では、秋の風に揺れた木々がさらさらと音を立てている。
ルインは頬杖をつきながら、黒板に書かれていく文字を眺めていた。
――歴史学。
貴族の子供なら誰もが学ぶ、王国の歴史。
「では今日は、少し趣向を変えましょう」
黒板の前に立つ教師が、黒板に大きく一つの名前を書いた。
その名前を見た瞬間。
ルインの胸が、ずきりと痛んだ。
「魔王シト」
「……」
理由は分からなかった。
ただ、その名前を見ただけだった。
なのに、胸の奥を誰かに握られたような感覚があった。
「本日の授業では、十年前に討たれた魔王シトについて学びます」
十年前。
それは、ルインが生まれた年の話だった。
「魔王シトは、かつてこの王国を滅亡寸前まで追い込んだ存在です」
黒板に、簡単な年表が書かれていく。
王都への侵攻。
各地の魔物の活性化。
多数の死者。
そして――勇者による討伐。
「最終的に、当時の勇者によって魔王シトは討たれました」
「……」
リゼットが、小さく息を吐いた。
「当然ですね。魔王なんて、悪いやつに決まってます。人をいっぱい殺したんでしょう?」
「そうだ」
教師は頷く。
「記録上、シトによって失われた命は非常に多い。王国にとって、彼はまさに――」
一拍。
「世界の敵でした」
その言葉を聞いた瞬間。
ルインの指が、ぴくりと動いた。
「……世界の、敵」
小さく呟く。
自分でも驚くほど、その言葉が嫌だった。
まるで。
誰かをそんなふうに呼んではいけないと、心の奥底から訴えられているようだった。
「ルイン?」
隣の席から声がした。
リゼットだった。
心配そうにルインの顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?」
「え?」
「顔色、悪いよ」
「ああ……」
ルインは自分の頬に触れた。
確かに少し熱い。
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「本当に?」
「本当、本当」
笑ってみせる。
リゼットは納得していない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
その代わり、机の下からそっと手を伸ばしてくる。
「……?」
「はい」
小さく握った拳を差し出して。
ルインが首を傾げると、リゼットは少しだけ頬を赤くした。
「元気が出るように」
「何それ」
「いいから」
ルインは思わず笑った。
「ありがとう」
拳を軽く合わせる。
それだけで、胸の痛みがほんの少しだけ和らいだ。
けれど。
黒板に書かれた『魔王シト』という文字だけは、どうしても頭から離れなかった。
◇
授業が終わる。
ルインは一人席に残って、黒板を見る。
そこにはまだ、あの名前が残っている。
『魔王シト』
「……」
どうして気になるんだろう。
自分には関係ない。
十年前に死んだ魔王。
ただそれだけのはずだ。
ルインは席を立ち、黒板の前まで歩いていく。
そして、指先で名前をなぞった。
「シト……」
その瞬間だった。
――知らない景色が、頭の中を駆け抜けた。
赤い空。
燃える街。
黒い剣。
誰かの叫び声。
『セシリア———』
「っ……!」
ルインは反射的に手を離した。
息が乱れる。
「今の……何だ?」
額に手を当てる。
頭痛はない。
けれど、胸だけが苦しかった。
知らない。
見たこともない景色だ。
なのに。
なぜか懐かしい。
「……おかしいな」
ルインは苦笑した。
そして、もう一度黒板を見る。
そこには、ただ名前があるだけだった。
魔王シト。
世界の敵。
多くの人を殺した存在。
――そのはずなのに。
「本当に……悪い人だったのかな」
口から、自然に言葉がこぼれた。
「え?」
背後から声がした。
「うわっ!」
ルインが振り返る。
そこには、呆れた顔をしたリゼットが立っていた。
「……聞いてた?」
「聞いた」
「最初から?」
「『本当に悪い人だったのかな』のところから」
「最悪だ……」
ルインは頭を抱える。
リゼットは小さく笑った。
「変なの」
「自分でもそう思うよ」
「魔王だよ?」
「うん」
「たくさん人を殺したんだよ?」
「……うん」
「なのに、どうしてそんなこと言うの?」
「分からない」
ルインは正直に答えた。
そして、少しだけ視線を落とした。
「ただ……」
「ただ?」
「悪い人だったって言われても、なんだか納得できないんだ」
「……」
「自分でも変だと思う」
リゼットは黙ってルインを見つめる。
やがて、少し困ったように笑った。
「ルインって、変なところで優しいよね」
「そうかな?」
「うん」
「魔王にも?」
「……そこは知らない」
リゼットはくすりと笑った。
「でも、歴史の授業でそこまで悩む人は初めて見た」
「だって……」
ルインはもう一度、黒板を見る。
「なんとなく、気になるんだ」
その言葉の意味を、ルイン自身も理解していなかった。
ただ。
胸の奥に残る、この寂しさだけは本物だった。
「……誰なんだろうな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
けれどその瞬間。
窓から吹き込んだ風が、黒板の文字を薄く揺らすように感じた。
――魔王シト。




