08、町へ
朝食を終えると、父から突然そう言われた。
「今日は町へ出るぞ、ルイン」
「……町?」
僕は思わず顔を上げた。
父はいつも忙しい。
屋敷にいる時でさえ、書類を読んでいるか、使用人や家臣と話をしている。僕が声をかけても、「後でな」と言われることのほうが多い。
だから、父から一緒に出かけようと言われるのは珍しかった。
「たまには屋敷の中ばかりではなく、外の空気も吸え。お前ももう少し大きくなったからな」
「うん!」
思わず声が弾んだ。
それを見て、父がほんの少しだけ笑った。
「そんなに嬉しいか?」
「嬉しいよ。だって父さんと町へ行くの、久しぶりだから」
「……そうか」
父は照れたように咳払いをした。
その横で母がくすりと笑う。
「あなた、ルインに甘いんですから」
「何を言う。これは教育だ」
「はいはい」
「母さん、その言い方は絶対信じてないよね?」
「あら、ばれた?」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
屋敷を出る。
門を抜けた瞬間、空気が変わった。
道の両脇には店が並び、朝から人々が忙しそうに行き交っている。
「おはようございます!」
父に向かって頭を下げる人がいた。
「おはよう」
父は穏やかに返す。
けれど、相手が僕に気づくと、今度は少しだけ表情を緩めた。
「坊ちゃんも大きくなられましたな」
「もう子供じゃないよ」
「これは失礼しました」
笑いながら頭を下げられて、僕は少しだけ胸を張った。
少し歩くと、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
「……いい匂い」
思わず足が止まる。
母が僕を見る。
「食べたい?」
「……食べたい」
「正直でよろしい」
「父さんは?」
「私も食べよう」
「父さんも?」
「私だって腹は減る」
店に入ると、店主が大きな声で笑った。
「これはこれは! 今日はご家族でお揃いですか!」
「ああ」
父が答える。
僕は並べられたパンを眺めた。
丸いパン。
細長いパン。
甘い香りのする菓子パン。
どれも焼きたてで、表面にはまだほんのりと熱が残っている。
「どれにする?」
母に聞かれて、僕は真剣に悩んだ。
「……全部」
「食べきれるの?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目でしょう」
父まで笑い出した。
結局、僕は一つだけ選んだ。
焼きたてのパンを両手で持つ。
ぱくり。
「……おいしい」
思わず頬が緩んだ。
外は香ばしく、中は柔らかい。
噛むたびに小麦の甘さが広がる。
「そんなに美味しいか?」
「うん!」
「そうか」
父は満足そうに頷いた。
それから僕たちは市場を歩いた。
野菜を売る店。
果物を並べる店。
魚を売る店。
子供たちが走り回り、その後ろから母親が慌てて追いかけている。
少し離れたところでは、老人たちが椅子に座って談笑していた。
誰かが笑っている。
誰かが怒っている。
誰かが買い物をしている。
誰かが仕事をしている。
そんな当たり前の光景が、どこまでも続いていた。
「父さん」
「なんだ?」
「この町って、平和だね」
何気なく口にすると、父は少し黙った。
そして、町を見渡した。
「……ああ」
その声は優しかった。
「平和だな」
僕も町を見渡す。
昔、この国には魔王がいた。
そういう話を聞いたことはある。
遠い昔、王国を脅かす恐ろしい存在がいたのだと。
けれど、僕にとっては歴史の教科書に書かれている昔話と同じだった。
今の町には、魔王なんていない。
剣を持った勇者が駆け回ることもない。
人々は今日の夕飯を考え、明日の仕事を考え、家族と笑っている。
僕も、その中の一人だ。
「ルイン」
「ん?」
母に呼ばれて振り返る。
「何をぼんやりしているの?」
「ううん。なんでもない」
そう答えて、僕は笑った。
その時だった。
「おーい、坊ちゃん!」
市場の向こうから声が飛んできた。
見ると、さっきのパン屋の店主が手を振っている。
「これ、持っていきな!」
投げられたのは、小さなパンだった。
慌てて受け取る。
「いいの?」
「子供がそんな顔してパンを見てたら、サービスしたくなるってもんよ!」
「ありがとう!」
「また来な!」
「うん!」
僕が手を振ると、店主も笑った。
父がそんな僕を見て、目を細める。
「気に入ったようだな」
「うん。また来たい!」
「そうだな。また来よう」
その言葉が嬉しかった。
帰り道。
僕は父と母の間を歩きながら、もらったパンを大事そうに抱えていた。
空は青い。
風は暖かい。
町には人の声が溢れている。
こんな毎日が、ずっと続く。
僕は、何となくそう思っていた。
明日も。
明後日も。
来年も。
きっと同じように朝が来て、家族と食事をして、町へ出て、誰かと笑う。
それが当たり前なのだと。
僕は、そう信じていた。




