07、知らない知識
屋敷には、午後の静かな空気が流れていた。
窓から差し込む陽光が、床に描かれた魔法陣を淡く照らしている。
ルインは、自分の前に置かれた教本を開いていた。
「では、今日は少し趣向を変えよう」
黒板の前に立つ教師――アルベルトは、手にしていた教本を閉じた。
いつもの魔力操作ではない。
ルインもそれを察したのだろう。
「基礎魔法については、もう十分に学んできたはずだ」
アルベルトは黒板に一つの図形を描いた。
円。
その内側に、複雑な文字と幾何学模様が幾重にも重なっている。
「これは古代魔術式の一つだ」
「古代魔術……?」
古代魔術は、現代の魔法とは構造そのものが違う。
現在使われている魔法は、術に魔力を流し、火や風などの現象を引き起こす。
即ち、魔力を材料として、術式という道具を使い、物理現象に落とし込む。
術者の技量があまりなくても扱える。
対して古代魔術は、魔力そのものを火や風などの他のエネルギーや他のものへ術式なしで変換することを前提としており、その変換したものをどう処理するかを主な術式としている。
即ち、魔力を直接に物理現象や他のものへ変化させたものを材料とし、術式という道具を使い、望んだ結果を作り出す。例え、物理現象にそぐわなくても。
術者の技量次第でどんなことでもできる。
例で言うと、現代魔術で作られた火は、水の中に入れると消えてしまう。
しかし、古代魔術で作られた火は、魔力が途切れない限り、水の中に入れても消えない火を作ることもできる。
高度な術式になれば、魔力を圧縮し、物質の状態へまで変質させることが必要になることさえある。
「この術式が、何のために使われていたのか。分かる者はいるか?」
ルインは黙ったままだ。
アルベルトも当然だと思っていた。
これは教科書の片隅に名前が載っている程度の魔術だ。
幼いルイン知っているはずがない。
「……では、ヒントを――」
「魔力を一度圧縮し、別の層へ転送。それをもう一度行い、片方を推進力、片方を弾丸として魔力圧縮弾を放つ、古代魔術の基礎攻撃魔術式ですよね」
アルベルトの言葉が止まった。
「この魔術は魔力圧縮さえできれば誰でも扱えるようになる、戦争時の汎用攻撃魔術式でしょうか」
「……何?」
アルベルトは思わず聞き返した。
ルインは不思議そうに首を傾げる。
「違いましたか?」
「いや……違わない」
アルベルトは黒板へ視線を戻した。
今、ルインが言ったことは正しい。
しかも単なる正解ではない。
この術式が何を目的として作られたものなのか、その核心を言い当てている。
「どうして知っている?」
「どうして……?」
ルインは少し考えた。
そして、本当に分からないという顔をした。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい」
アルベルトは眉を寄せた。
「では、今の答えは何だ?」
「……夢で見たことがあります」
その瞬間。
教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
「夢?」
「はい」
ルインは頷いた。
「小さい頃から、ときどき変な夢を見るんです」
「どんな夢だ?」
「よく覚えてないです」
そう言って、ルインは困ったように笑った。
「でも、こういう魔法陣を見ると……知ってる気がするんです」
アルベルトは黙った。
冗談を言っているようには見えない。
むしろ本人が一番困惑している。
嘘をついている人間の目ではなかった。
「……そうか」
アルベルトはそれ以上、追及しなかった。
教師としてなら、調べるべきだった。
しかし――。
今のルインには、自分の言葉を説明できるだけの材料がない。
無理に問い詰めても意味はないだろう。
「では、次だ」
アルベルトは黒板へ向き直った。
「この術式を現代魔法に応用するとしたら、どこを変更する?」
ルインは黒板を見つめた。
そして。
「ここ……だと思います」
指先が、術式の一部分を示した。
「魔力圧縮は弾丸としても、推進力としても強力ですが、現代魔術には適しません。」
「そこを、既存の風魔術と炎魔術を埋め込む形に変えると、魔力の圧縮は行われず、威力と速さが強化された炎魔術が放たれるはずです」
アルベルトは目を見開いた。
黒板の前まで歩き、ルインが示した場所を見る。
――正しい。
いや。
正しいどころか、現代魔法の研究者たちが長年かけて試行錯誤している部分だった。
「…………」
アルベルトは、しばらく何も言えなかった。
ルインは自分の手を見つめていた。
どうして知っているのだろう。
自分でも分からない。
ただ、術式を見ると。
まるで昔から知っていたように、頭の中に答えが浮かぶ。
懐かしいような。
けれど、少しだけ寂しいような。
そんな感覚だった。
「ルイン」
「はい?」
アルベルトが呼ぶ。
「このことは、今は誰にも話さなくていい」
「……え?」
「お前自身にも分からないことを、無理に説明する必要はない」
ルインは少し驚いた顔をした。
それから、ふっと笑う。
「はい。分かりました」
アルベルトはその笑顔を見つめた。
目の前にいるのは、ただの幼い少年だ。
素直で、穏やかで、少しだけ不思議なところがある。
それだけだ。
――それだけのはずだった。
最後にアルベルトは、黒板に残された古代魔術式を見つめた。
「……夢、か」
小さく呟く。
そんなものだけで説明できるとは思えない。
だが、それ以上の答えもない。
だから今は、胸の奥に疑問をしまい込む。
やがてアルベルトは黒板を消した。
――この少年が、自分でも知らない知識を持っている理由。
それを知る日は、まだ遠い。
そしてルイン自身も知らない。
自分が「初めて見るはずのもの」を、なぜ懐かしいと思うのかを。
その夜。
ルインは夢を見た。
誰かがいる。
顔は見えない。
けれど、その背中だけが妙に懐かしかった。
――大丈夫。
そんな声が聞こえた気がした。
ルインは眠ったまま、小さく眉を寄せる。
「……誰……?」
答える声はない。
ただ、遠い記憶のような光だけが、夢の中で静かに揺れていた。




