05、婚約
その日、ルインは父に呼ばれていた。
「ルイン。少し話がある」
夕食を終えたばかりの広間。
父はいつになく真剣な顔をしていた。
「はい」
ルインは背筋を伸ばした。
何か叱られるようなことをしただろうか。
今日の授業では特に問題はなかったはずだ。剣術の稽古も、魔法の訓練も、いつも通りだった。
考えながら父の向かいに座る。
すると――。
「お前の婚約が決まった」
「……婚約?」
ルインは瞬きをした。
「ああ」
「誰とですか?」
「リゼットだ」
その名前を聞いた瞬間。
ルインの脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。
幼い頃から何度も一緒に遊んだ少女。
庭で本を読んでいたときも。
魔法の練習をしていたときも。
転んで膝を擦りむいたときも。
いつも近くにいた。
「……リゼット」
小さく呟く。
父は頷いた。
「向こうの家とも話はついている。お前たちは幼い頃から親しくしているし、互いの家にとっても悪い話ではない」
「そう……ですか」
ルインは少しだけ考えた。
婚約。
言葉の意味は知っている。
けれど、それが自分にとってどんなものなのかは、まだよく分からなかった。
「リゼットは……知っているんですか?」
「ああ。本人も了承している」
「そうですか」
ルインは窓の外へ視線を向けた。
夜の庭が静かに広がっている。
不思議だった。
大切な話のはずなのに、胸が大きく騒ぐわけではない。
ただ――。
少しだけ、嬉しかった。
◇
「ルイン!」
翌日。
屋敷の庭へ出ると、リゼットが駆け寄ってきた。
「聞いたわ!」
「うん」
「婚約するんですって」
リゼットは頬を少し赤くしていた。
いつもより嬉しそうだ。
「そうみたい」
「そうみたいって……」
リゼットが頬を膨らませる。
「もっと何かないの?」
「何か?」
「ほら……驚いたとか。嬉しいとか」
「嬉しいよ」
「……っ」
即答すると、今度はリゼットのほうが言葉に詰まった。
「そ、そう」
顔を逸らす。
耳まで赤くなっている。
ルインは首を傾げた。
「どうしたの?」
「なんでもない!」
「顔、赤いけど」
「なんでもないの!」
「そう?」
「そうなの!」
少し慌てた様子のリゼットを見て、ルインは小さく笑った。
「変なの」
「誰のせいよ……」
「え?」
「……なんでもない」
リゼットはため息をついた。
けれど、その表情は笑っていた。
「ねえ、ルイン」
「なに?」
「婚約したら……これからも一緒にいられるのかな」
「もちろん」
ルインは何でもないことのように答えた。
「今までと変わらないよ」
「本当に?」
「うん」
リゼットはしばらく黙った。
そして、少しだけ俯いてから言った。
「……大人になっても?」
「うん」
「ずっと?」
ルインは少し考えた。
大人になる。
その先には、まだ知らない未来がある。
どんな場所に住むのか。
どんな仕事をするのか。
どんな人間になるのか。
何も分からない。
それでも。
隣にいる相手くらいは、変わらない気がした。
「ずっと一緒にいよう」
「……!」
リゼットが顔を上げる。
大きく目を見開いていた。
「約束だからね?」
「うん。約束」
ルインは笑った。
リゼットも、ゆっくりと笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が温かくなる。
婚約というものが何なのか。
恋というものが何なのか。
ルインには、まだ分からない。
ただ。
これから先も、リゼットと一緒にいられる。
それだけは嬉しかった。
「じゃあ、これからもよろしくね。ルイン」
「こちらこそ」
二人は並んで歩き出す。
穏やかな午後だった。
何も変わらない。
そう思っていた。
この先に待っている未来など――。
ただ一つの約束だけを胸に抱いて。
――ずっと一緒にいよう。




