02、普通の少年
朝の光が、広い屋敷の窓から差し込んでいた。
「ルイン様。起きてください。もう朝ですよ」
「……あと五分」
「昨日も同じことを仰っていました」
布団の中から返ってきた声に、侍女は小さくため息をついた。
やがて布団がもぞもぞと動き、黒髪の少年が顔を出す。
まだ幼い顔立ちだというのに、その黒い瞳だけは妙に落ち着いていた。
「……おはよう」
「はい。おはようございます、ルイン様」
眠そうに目をこすりながら、ルインはベッドから降りる。
貴族の子供らしく、朝から身支度を整え、食事を済ませれば勉強の時間だ。
礼儀作法。
歴史。
算術。
魔法学。
普通なら、子供にとっては退屈極まりない授業だ。
けれど――。
「ではルイン様。この問題を」
家庭教師が黒板に書いた問題を指差した。
「……答えは十二です」
「…………」
「先生?」
「い、いえ。正解です」
家庭教師は眼鏡を押し上げた。
ルインは首を傾げる。
「簡単ですよ?」
「簡単……ですか」
「だって、ここを先に計算すれば――」
ルインは小さな手で紙を引き寄せ、さらさらと式を書いていく。
説明まで淀みがない。
家庭教師はしばらく黙って少年を見つめ、それから苦笑した。
「……本当に、あなたは子供らしくありませんね」
「そうですか?」
「ええ」
ルインは少しだけ頬を膨らませた。
「子供らしくないって、褒め言葉ですか?」
「もちろんです」
「なら、いいです」
そう言って笑う。
その笑顔だけは年相応だった。
けれど、彼には一つだけ困ったことがあった。
勉強が終わっても、頭の中が退屈してしまうのだ。
「魔法って、もっと自由に使えないのかな」
庭へ出たルインは、誰もいない場所で手を掲げた。
指先に小さな魔力の光が生まれる。
普通なら、これだけでも十分な才能だ。
だがルインは満足しない。
「もっと……小さくして」
光が縮む。
「もっと」
さらに縮む。
小さな光は豆粒ほどになり、やがて完全に消えた。
「……できた」
ルインは嬉しそうに笑った。
魔力を無駄なく操る。
それが、彼にとっては呼吸をするのと同じくらい自然だった。
しかし。
「ルイン」
突然、背後から低い声がした。
「父上」
振り返る。
そこにはルインの父親が立っていた。
厳格な表情をしている男だったが、息子を見る目にはわずかな優しさがある。
「また魔法の練習をしていたのか」
「はい」
「熱心なのはいい。だが、今日は別のものを見せよう」
「別のもの?」
父親は侍従に目配せした。
運ばれてきたのは一本の木剣だった。
ルインの目が輝く。
「剣……?」
「ああ」
父親は木剣を息子へ差し出した。
「お前もそろそろ、身体の使い方を覚えておいた方がいい」
「僕が使ってもいいんですか?」
「もちろんだ」
ルインは両手で木剣を受け取った。
ずしり。
思っていたより重い。
「……重い」
「最初はそんなものだ」
「でも――」
ルインは木剣を握り直した。
「なんだか、変な感じがします」
「変?」
「初めて持ったはずなのに……」
ルインは木剣を見つめた。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついていた。
知らないはずなのに。
触れたことなどないはずなのに。
この重さを知っている。
この握り方も。
この立ち方も。
まるで、ずっと昔から身体のどこかに残っているような――。
「振ってみろ」
「はい」
父親の声に、ルインは頷いた。
構える。
右足をわずかに引く。
腰を落とす。
そして――。
ヒュッ!
木剣が空気を裂いた。
「…………」
父親の目が見開かれる。
侍従も言葉を失っていた。
今の一振り。
幼い子供が偶然できる動きではない。
力任せではない。
身体の軸がぶれていない。
剣先が最短距離を通っている。
「ルイン」
「はい?」
「……今の構えを、どこで覚えた?」
「え?」
ルインはきょとんとした。
「覚えた……?」
「ああ」
「知りません」
本人は本当に分からなかった。
父親は息子の顔をじっと見る。
ルインは困ったように眉を下げた。
「変でしたか?」
「いや」
父親はゆっくり首を横に振った。
「……見事だった」
「本当ですか?」
「ああ」
その瞬間、ルインの顔がぱっと明るくなった。
「もう一回やっていいですか?」
「好きなだけやれ」
「はい!」
ルインは嬉しそうに木剣を握り直した。
一度。
二度。
三度。
振るたびに、身体が勝手に動いていく。
本人には理由が分からない。
ただ、剣を振ることが楽しかった。
まるでずっと探していた何かを、ようやく見つけたように。
夕方。
庭に伸びた影の中で、ルインは一人、木剣を握っていた。
「……剣って、面白いな」
小さく呟く。
その顔には、子供らしい無邪気な笑みが浮かんでいた。
けれど。
次の瞬間。
ルインの手が止まった。
「……?」
胸の奥に、知らない感覚が走った。
誰かの声。
誰かの姿。
暗い夜。
そして――。
自分ではない誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
――セシリア。
「……誰?」
ルインは眉を寄せた。
けれど、次の瞬間には何も思い出せなくなっていた。
「……まあ、いいか」
少年は首を傾げ、それから笑った。
「明日も剣、振ろう」
その小さな背中を、夕陽が長く照らしていた。




