11、実験
地下研究室には、時計の音がなかった。
壁一面に並ぶ魔導具が低く唸り、青白い光が無数の瓶を照らしている。瓶の中には、液体とも結晶ともつかない物質が浮かんでいた。
その中心で、男が一冊の研究記録を閉じた。
「……ようやくだ」
ヴァルドは眼鏡を押し上げ、目の前の装置を見つめた。
王国は、魔王を倒した英雄を称え、聖剣を讃え、正義を語る。
反吐が出る。
その輝かしい歴史の裏側で、どれほどの人間が切り捨てられたのか。どれほどの命が、王国の都合で踏みにじられたのか。
彼は忘れていない。
「死者を蘇らせる。時間を巻き戻す。そして、あの魔王をもう一度この世界へ呼び戻す」
誰もいない研究室に、ヴァルドの声が響いた。
「そうすれば、今度こそ王国を壊せる」
そのために必要なのは、奇跡ではない。
理論と、魔力と、犠牲だ。
*
第一実験の対象は、一輪の花だった。
枯れた花を台座に固定し、周囲に刻まれた術式へ魔力を流し込む。ヴァルドが指を動かすと、装置の中央に淡い光が集まり始めた。
「対象の時間を、過去へ干渉させる。肉体の状態を以前の段階へ戻す……理論上は可能なはずだ」
光が花を包んだ。
枯れた花弁が震え、茶色く変色した茎がわずかに持ち直す。散りかけていた花びらが、逆再生するように元の形へ戻っていった。
「成功か……?」
ヴァルドは身を乗り出した。
しかし、次の瞬間。
ガラスが弾ける音とともに、装置が激しく明滅した。
「なっ――!」
術式の一部が焼き切れ、花は黒い灰となって崩れ落ちた。
魔力の奔流が研究室を吹き抜け、棚の瓶がいくつも倒れる。ヴァルドは腕で顔を庇いながら、歯を食いしばった。
やがて光が消えた。
静寂の中、彼はゆっくりと顔を上げる。
「……失敗、か」
声には落胆が滲んでいた。
だが、彼の目は床に落ちた花の残骸を捉えていた。
灰の隣に、透明な粒が一つ残っている。
ガラス片のようでいて、内側には淡い光が流れていた。触れた指先に、奇妙な温かさが伝わる。
「これは……?」
分析の結果、その物質は周囲の時間に微細な干渉を起こす性質を持っていた。完全な巻き戻しには至らなかったものの、時間の流れそのものに触れた痕跡が残っている。
ヴァルドはしばらく黙り込んだ。
そして、乾いた笑いを漏らした。
「花は救えなかった。だが、時間の欠片は残ったわけか」
彼はそれを小瓶へ封じた。
「使い道は……いずれ考えよう」
*
第二実験には、花ではなくとある人間…..いや、怪物の死体が必要だった。
研究室の奥。幾重もの結界に囲まれた台座の上に、怪物の死体が横たわっている。
ヴァルドはその顔を見下ろした。
「怪物よ、待っていろ」
返事はない。
「死の直前まで時間を戻す。肉体が生きていた状態へ戻れば、生命活動も再開するはずだ。魂さえ戻れば……」
言葉を切り、彼は術式を起動した。
床に刻まれた魔法陣が赤く染まり、死体の周囲に光の輪が幾重にも重なる。
空気が震えた。
死体の指先が、ぴくりと動く。
「来たか……!」
ヴァルドの顔に興奮が浮かんだ。
皮膚の変色が薄れ、閉じられたまぶたがかすかに震える。まるで時間だけが過去へ引き戻されているかのようだった。
しかし、胸は動かない。
心臓は沈黙したまま。
いくら肉体を巻き戻そうとしても、そこにあるはずのものが戻ってこなかった。
「どうしてだ……。肉体は戻りかけている。術式も機能している。なら、なぜ――!」
魔法陣がひび割れた。
ヴァルドは慌てて魔力を注ぎ込んだが、光は一瞬だけ強く輝き、次の瞬間には砕け散った。
死体は元の姿へ戻った。
何も起きなかったかのように。
ヴァルドは立ち尽くした。
握り締めた拳が震えている。怒りなのか、悔しさなのか、自分でも判別できなかった。
「……時間を戻すだけでは、足りない」
やがて彼は、低く呟いた。
「肉体を戻せても、魂は戻らない。死者を蘇らせるには……別の何かが必要だ」
その答えは、まだ見えない。
だが、諦めるつもりもなかった。
「待っていろ、魔王。必ず、お前をこの世界へ呼び戻す」
*
数日後。
ヴァルドは研究室の隅に積まれた失敗作を見下ろしていた。
第一実験で生まれた透明な物質。時間への干渉は確認できたが、安定性に欠け、研究に利用するには危険すぎる。
第二実験にも役立たなかった。
今の彼にとって、保管する価値はない。
「廃棄しておけ」
助手が戸惑った顔をした。
「ですが、先生。時間干渉の痕跡があるのなら、もう少し分析を――」
「聞こえなかったか?」
ヴァルドが顔を上げた。
冷たい視線に射抜かれ、助手は言葉を飲み込んだ。
「役に立たないものを抱えている余裕はない。次の実験の準備をしろ」
「……承知しました」
小瓶は、ほかの廃棄物とともに運び出された。
ヴァルドはそれを見送ろうともしなかった。
彼の意識は、すでに次の研究へ向いていたからだ。
小瓶が研究施設を離れたことも。
やがて誰かの手に渡ることも。
そして、その中に残された時間の欠片が、思いもよらない形で人の運命を変えることも。
彼は知らない。
遠い町のどこかで、今日もパンが焼かれている。
香ばしい匂いに誘われて、人々が店を訪れる。
その店の主が、やがて一つの食材を手にすることになるなど――。
まだ、誰も知らなかった。




