7話:精霊の顕現
「そうか、リヒト殿。改めて私はアレクサンダー、お見知り置きを」
完璧な微笑を浮かべて向き直ったアレクサンダーは、言葉が通じないことを承知の上で礼儀正しく挨拶を述べ、その白皙の手を差し出した。
烏間改め——リヒトが、その意図に合わせるように穏やかな笑みを貼り付けて握手に応じる。
だが、その唇の端からは、私にしか聞こえない日本語の毒が漏れていた。
『おい。俺の意志を無視して、先に名前を教えただろう。それはどうかと思うぞ?』
まあ、確かに。
だって、あの張り詰めた空気の中で、あなたの名前はリヒト——なんて自分が付けた名前を自分で呼ぶのは、少し気恥ずかしかった。
当面は心の中だけで呼ぶことにして、ひとまずは名前の強行突破について言い訳をしておくことにする。
『……心の中で謝っておくわ。
それに、あなたの元の名前、黒だの烏だの、昏い色彩ばかりでジメジメしていたでしょう?
だから、これからは少しは〝明るく〟生きなさいよという意味を込めて、光を宿す名にしたのよ。
どう? もう兄たちに紹介してしまったから、今更訂正なんてできないけれど』
『……』
流石に前世の名前を貶めるような物言いは不躾だったかしら——と、僅かな気まずさを覚えてリヒトを盗み見た。
だが、リヒトは小さく目を見開いたまま、じっと私を見つめていた。
その瞬間、薄暗い深海に月光が溶け込んだような、彼の深い群青の瞳が、見たこともないほど激しく揺らいだように見えたのだ。
恐らくは日の当たらない世界で生きてきたであろう人間。
完全に私の憶測ではあるけれど、そんな人間を無理やり光の中へと引きずり出すような、傲慢で、無垢な名付け。
底知れない夜の海のような瞳が、酷く儚げで、けれど息をのむほど美しく私を捉える。
気がつけば私は、引き込まれるようにその眼差しを見つめ返していた。
胸の奥が、妙にドクドクと落ち着かなく跳ねる。
『あ、ああ、リヒト……そうか。まさかそんな風に、真剣に意味を考えてもらえるとは思っていなかった。少し驚いたが——嫌いじゃない。俺は今から、リヒトを名乗る』
『そ、そう。別に、本人が気に入ったのなら……それでいいんじゃない』
ハッと我に返り、慌てて視線を逸らす。なんなのよ、今の妙な空気は。
そんな私たちの微かな雰囲気の変化を察知したのか、第一王子アレクサンダーが強引に言葉を割り込ませてきた。
「しかしリヒト殿、光の高位精霊様とは恐れ入ったよ。
実は僕も、光属性の魔術を得意としていてね。
出来れば、その高位精霊様の大いなるお力を、もっと近くで拝見できないだろうか? 実に興味がある」
本当に面倒な男。心の底から嫌いだわ、この第一王子。
言葉が通じない相手だと分かっていながら、通訳である私の方へ一切視線を向けずに語りかけるあたりが、極めて傲慢で不愉快極まりない。
『あぁ……。この男、もしかして「俺もその系統の魔術が使えるから、もっと分かりやすい成果を見せてみろ」とでも言っているのか?』
『ねぇ。あなた、本当はこっちの言葉を理解しているんじゃないの?』
疑念を混ぜ込んだ半目で睨みつける私に、リヒトは何でもないことのように肩をすくめて応じる。
『いや? ただ、その場の空気、表情、口ぶりからそれ以外のニュアンスを拾い上げているだけだ。
異世界の言語とはいえ、意思を持つ人間が発する〝言葉〟だろう?
それに、魔術以外の部分に関しては、この国の文化形態は俺の知る世界の歴史と酷く似通っている。
感覚としては、言葉の通じない海外の怪しい社交場に放り込まれたようなものだ』
何かしら、この完敗したような感覚は。
底意地の悪い男だと思っていたけれど、その正体は、異常なまでの観察眼と洞察力を備えた怪物だったというわけね。
チート能力の恩恵ではなく、純粋な本人の技術と経験だけでこの状況を読み解いているのだとしたら、本当に恐ろしい。
『……なんだか無性にムカつくわね』
『え? なぜ俺が理不尽に睨まれているんだ? というか、アイン王女。
この張り詰めた空気、俺はどう立ち回ればいい?』
『そのまま大人しく、神妙に佇んでいて。——こっちで形にするから』
アレクサンダーの言葉に、なぜか目を輝かせた国王が同調し、まだかまだかと子供のように声を弾ませている。
第一王子は、端から高位精霊の証明などできまいと踏んでいるのだろう。
その美貌に冷徹な観察の光を宿し、こちらの出方を窺っている。
甘いわよ、第一王子殿下。実は、もう来ているの。
先ほどからリヒトの肩に、掌に収まるほどの小さな、燦然たる光を纏った愛らしい存在——光の最高位精霊が、ちょこんと腰掛けているのが見えないかしら。
ついでに言うなら、この世界において、本当に光の魔術の才能がある者には、あの肩の精霊の姿がはっきりと視認できるはずなのだ。
けれど、第一王子の瞳には何も映っていないご様子。
それどころか、ピカリンはアレクサンダーに向けて、露骨に不快そうな表情を浮かべている。
光魔術が得意、ですって? 盛大に虚飾の化けの皮を晒してくれて滑稽極まりないわ。
彼には、精霊に愛される才能など微塵もないのだ。
よし。ならば、光の高位精霊に相応しい〝顕現〟を、盛大に披露して差し上げようかしら。
(ピカリン。今から少しだけ姿を大きくして、現世に〝実体化〟してもらえる? 適当に私の意志に合わせて、威厳を演じて頂戴)
私の脳裏の呼びかけに応じ、ピカリンは小さく首を傾げた後、力強く頷いてみせた。
ふわりとリヒトの背後へと飛び上がったピカリンが、その小さな身体から、大広間全体を白銀に覆い尽くすほどの圧倒的な黄金の光を放った。
「な、何と……! この神聖なる光波は……!」
「まさか、高位精霊の、実体化!?」
驚愕に目を見開く国王。
その傍らで、第一王子の仮面の笑顔が完全に崩壊した。
端から信じていなかった思惑が、一瞬で瓦解した証拠だ。
『うお、眩し……っ』
『今からピカリンがあなたを救世主らしく演出するから、動揺を顔に出さないで。何かすべてを悟った聖者のように佇んでいて』
『あ? 聖者って、俺のガラじゃないにも程があるぞ……』
『つべこべ言わずにやる!』
私は目力でリヒトを制し、収束していく光の渦へと視線を向けた。
瞬間、さらに激しさを増した神聖な波動に、その場にいた全員が視界を奪われ、平伏するように声を失った。
光の奔流が中央へと集い、人型の輪郭を形作っていく。
純白の法衣を纏い、人外の神々しさを放つ神秘的な少女の姿が、そこに佇んでいた。
「この者は、我が加護を授けし存在。——此者を害するは、我が神威に仇なすものと知れ……ぴか」
凛とした鈴を転がすような声音が、厳かに広間に響き渡る。
……ただ、その厳粛な言葉の末尾に、なぜか名付けた精霊達共通に現れる言語の響き——「ピカ」という微かな音節が混じったのを、私は聞き逃さなかった。
(……ピカリン、その可愛い語尾は雰囲気に合わないってば!)
「……光の導き、この勇者に宿らんことを。——ピカ」
(だから、無理があるって言っているでしょう!?)
本人は至って厳かに、威厳を以て誤魔化したつもりだろうけれど、私の脳内は突っ込みで大忙しだ。
私が密かに使使している他の最高位精霊たちも、なぜかこういう妙な癖が漏れるのよね。
「め、滅相もございませぬ! 我らの希望たる勇者殿を害するなど、断じてあろうはずがございませぬ!!
ガルムス国国王の威信と王位に懸けて、このエルドラム、いかなる時も勇者殿の絶対なる味方であることを誓いましょうぞ!」
国王は力強く宣言し、事もあろうにリヒトの前に深く膝を折った。
一国の王が平伏するなど本来ならば許されぬ暴挙。
だが、それだけ高位精霊の顕現という事象が、絶対的な神話の現実として彼らを圧倒したのだ。
聖霊に直接的な祝福を授けられた存在——これ以上の〝勇者〟など、この大陸のどこを探しても存在しない。
兄姉たちを見れば、完全に威圧されて身を縮めている者、面白くなさそうに顔を歪める者と、実に見苦しい有様だった。ざまあみろ、だわ。
思案を巡らせながらも、私は周囲から不審に思われぬよう、国王と同じくリヒトの前へと優雅に膝を突いた。
「良い。今後、我が契約者たる勇者の導き手には、その召喚者たる第十王女アインを任命する。光の洗礼が、この王国全土に万遍なく行き渡らんことを——」
最終的には完璧な神聖さを演じきり、私の忠誠の礼を見届けたピカリンは、光の粒子となって消滅する寸前、リヒトの背中越しに、私にだけ分かる得意げな笑みを浮かべてみせたのだった。




