4話:自己中心的覚悟
——篠崎エリカ。
私を、あの歩道橋から突き落として殺した女。
離宮のテラスから吹き込む冷たい風が、頭痛とともに前世の記憶の傷口をなぞる。
いじめられていた春野美咲を助けた時の、万能感にも似た高揚感。
無条件で私を過大評価し、泣きながら縋り付いてくる彼女との関係は、当時の私にとって、自分の価値を証明してくれる唯一の安らぎだった。
美咲は、物語の儚いヒロインを地でいくような、純粋で、どこか危うい少女。
私は自分が、彼女を救う勇気ある「ヒーロー」なのだと盲信していた。
けれど、現実は甘くなかった。
いじめの中心人物だったミオたちに人気のない裏路地へ呼び出され、私は——物理的にも精神的にも、完膚なきまでに叩きのめされた。
その時、思い知ったのだ。
物語の主人公のように颯爽と人を助けるなんて、生半可な覚悟でできることではない。
私の安っぽい正義感の器なんて、手遅れなほどバキバキに砕け散っていた。
学校に行く勇気もない。カオリやモエに合わせる顔もない。
自室に引きこもる私に、ある日、何も知らない美咲から電話で助けを求められた。
「いじめがもっとエスカレートしてるの。お願い、助けて、サクラちゃんしかいないの」
その時、私の口からこぼれたのは救いの言葉なんかじゃない。
「——正直、重い。もう私に関わらないで」
私はヒーローでも何でもなかった。
ヒロインの絶望に耐えかねて、背を向けて逃げ出した、ただの最低な「悪役」だったのだ。
数ヶ月後、美咲は————あの歩道橋から身を投げて死んだ。
事件の後、美咲の「一番の親友」を自称して私の前に現れたのが、篠崎エリカだった。
「あんたがミサキを殺した。責任を取って、あんたも死になよ」
エリカはいつも美咲の近くにいたような口ぶりだった。
けれどおかしなことに、生前の美咲からエリカの名前なんて一度も聞いたことがなかった。
美咲はいつも、エリカではなく、もっと別の「目に見えない不気味な支配者」に怯えているようだったのに。
だが当時の私は、エリカの言葉に反論できなかった。
彼女は、私の底なしの孤独と罪悪感をエサにして、私を精神的に破滅の淵へと追い詰めていった。
あの日、雨の降る歩道橋。
罪悪感に背中を押されるようにして、私は美咲が身を投げたという現場へ足を向けた。
階段を上り切り、手すりの花束へ向かって屈んだ、その瞬間。
——背中に、ドスンと、強烈な衝撃。
身体が宙を舞う。
激しい痛みとともに世界が反転し、階下へ転がり落ちていく。
スローモーションのように流れる視界の端、歩道橋の上から私を見下ろし、不気味に満足げな笑みを浮かべていた篠崎エリカの顔。
あの悍ましい瞳を、私は今も忘れられない。
「っ、はあぁっ……!」
激しい戦慄とともに完全に意識が覚醒すると、そこは冷たい夜気に満ちた私の離宮だった。
「アイン様! お目覚めになられましたか!?」
至近距離で私の顔を覗き込んできたのは、心配そうに白髭を揺らすマーリンだった。
私はベッドの上に寝かされており、彼はその傍らで私の手を握って魔力を送り続けてくれていたらしい。
「……っ」
「アイン様、いけませぬ! 魔力を文字通り一滴残らず使い切り、危うく命を落とすところでしたぞ!
もう、このような無茶は……」
慌てて身を起こそうとするが、情けなく身体の力が抜けてベッドに沈みそうになる。
それをマーリンに優しく受け止められた。
向けられる親心全開の温かさが、前世のトラウマで歪んでしまった今の私には、酷く重苦しい。
「……あの男は。私が召喚した、勇者様はどこ?」
ふと我に返り、部屋を見渡す。
あの一瞬、私の首筋に冷たい刃を突きつけてきた、あの恐ろしい青年。
「勇者様は現在、国王陛下の元へお連れいたしました。
異界からの客人、それも勇者となれば王家の総力を挙げて持て成さねばならんと、五番目の王子殿下らが張り切って連れて行ってしまい……ワシの力では止められず、申し訳ありません」
(っ……マーリン、あなたでも止められなかったのね。やっぱり、誰も私の味方にはなってくれないんだ)
激しい焦燥が胸を焼く。
私が命懸けで、魂を削って召喚した勇者だ。
それを、権力欲の塊である兄姉や、私を道具としか思っていない国王の前に差し出すなんて。
利用され、奪われてたまるものか。
「……頭が割れそうに痛い。けれど、行かなきゃ」
「アイン様、まだお体が! どうしても行かれるならば、ワシが城までの馬車を——」
「そんな悠長なこと、していられないわ!」
私はマーリンの制止を振り切り、ふらつく足でバルコニーへと駆け出た。
夜の王都を見下ろす、目も眩むような高さのテラス。
「アイン様!? 危のうございます!」
マーリンの悲鳴を背に受けながら、私は迷うことなく、漆黒の虚空へと自らの身体を投げ出した。
「……私は、二度と誰かのせいで自分を見失いたくはない。私の人生は、私のものよ!」
吹き荒れる夜風が、銀の髪を激しくかき乱す。
落下しながら、私は空中に一瞬で円形の紅蓮の術式を構築した。
「来なさい、ポチ!!」
猛烈な咆哮とともに中空に現れた『赤炎竜』の、その分厚い背へと、私は見事に飛び乗る。
「グルゥァアァ!」
私の号令に応じる、強靭な翼の頼もしさ。
安心しなさい。もう二度と、誰にも私の背中を押させない。
あの歩道橋の時のように、無防備に突き落とされたりなんかしない。
前世で死んだ美咲への罪悪感も、殺された私自身の無念も、すべてはこの世界で本当の「自由」を手にするための糧にしてやる。
「王城へ急いで、ポチ! 私の獲物が奪われる前に!」
ポチの背に立ち、私は漆黒の夜空を切り裂いて王城へと飛翔した。
誰にも支配されないための、私だけの切り札。
あの無礼で危険な男を、今すぐこの手で飼い慣らすために。




