3話:姫神桜という過去
「……ッ、ぐぅッ!」
心臓を抉り取られるような激痛。
魔力だけでなく、私の生命そのものが霧散していく感覚に襲われる。
意識がプツリ、プツリと途切れる中、私は執念だけで最後の魔力を絞り出した。
(今度こそ……今度こそ、私をこの泥沼から救ってくれる“運命”を……ッ!)
その時、凍えそうな私の身体を、限界を察知したマーリンの温かな魔力が包み込んだ。
「何をこれしきっ、アイン様、あまり無理をなさらんでください!」
「マーリン、ごめん……ありがとう……!」
視界を埋め尽くした眩い光の粒子が、爆発的な勢いで収束していく。
魔法陣の中心。光の霧の向こうから現れたのは——。
息をのむほどに端正な容姿を持つ、黒髪の青年だった。
(……っ!! なんて、綺麗な顔。前世の記憶をひっくり返しても、あんなに整った人は見たことがない)
魔力の過剰消費で視界が激しく明滅し、今にも倒れ伏しそうになりながらも、私は完璧な召喚の成功に歓喜の笑みを浮かべようとした。
だが、その刹那。
青年の群青の瞳が、冷酷な飢えた獣のように真っ直ぐ私を捉えた。
「——っ!?」
魔力の揺らぎも、気配すら一切ない。
物理的な法則を完全に無視したかのような、無音の踏み込み。
私が悲鳴を上げる隙すらなく間合いを詰められ、気付けば私は硬い床に強く組み伏せられていた。
同時に、私の首筋に冷たく、鋭利な感触が走る。
それは、私が護身用にドレスの袖口に忍ばせていたはずの薄刃のナイフ。
いつの間に奪われたのか、私の目では全く追えなかった。
『お前は何者だ。どうやって俺をここに連れてきた』
低く、耳に心地よく響く、明確な日本語の声音。
けれど、その声に込められた一切の温度のない響きと、躊躇なく急所を押さえてみせた異常な手慣れ方に、私の生存本能が全力で警鐘を鳴らしていた。
(この男、絶対に普通の人間じゃない……っ! 勇者どころか、本物の人殺しの目だ……!)
『俺を元の場所に戻しやがれ。やり残した“仕事”があるんだ』
(な、何よこれ……。私の理想の勇者召喚、大失敗じゃない……!!)
首筋に突きつけられた刃の恐怖と、押し寄せる魔力枯渇の疲弊。
私は最悪の救世主(仮)の冷徹な顔を見上げたまま、今度こそ完全に意識を手放し、深い暗闇へと堕ちていった。
***
——夢を見た。
何度も繰り返し見る、寝覚めの悪い前世の夢。
私は今、異世界の豪華なドレスを着た『アイン』の姿のまま、前世の私である『姫神桜』の後ろ姿を見つめている。
銀髪緋色の不吉な姫君としての自分が、地味な日本の女子高生だった頃の自分を追っている。
この歪な光景こそが、私が未だにあの過去の結末に、強く囚われ続けている証拠なのだろう。
夢の中の〝過去の私〟は、友達のカオリとモエの三人で並び、他愛のない話をしながらいつもの放課後の道を歩いていた。
——懐かしい。
この頃は何も考えず、ただ漠然と過ごす日々に疑問を持つ必要も、自分の存在を誰かに証明する必要もなかった。
今ならわかる。不器用だったけれど、私は間違いなく、あの時幸せだったんだと。
「ん? あそこにいるのってミサキと……ミオ達じゃん? 何してんだろ」
(……ああ、やめて。お願いだからそっちを見ないで)
ここで、あの子を気にしなければ。
私はきっと、この見知らぬ異世界に来ることも……あの歩道橋から〝突き落とされること〟もなかったのだろうに。
「うわぁ〜、めちゃ空気わるっ。サクラ? いつものお節介はやめてよね?」
(そうよ、カオリの言うことをちゃんと聞いておけばよかったのよ)
「ミオのグループ、最近他校のガラ悪い人たちとよく一緒にいるらしいよ? 関わらない方がいいって、ね?」
(怖がりのモエを気遣って、そのまま通り過ぎていれば——)
「んん、でもアレってイジメだよね? 私は好きじゃないな、ああいうの……ちょっと見てくるから、先帰ってて!」
「ちょっ、サクラ!」
「サクラちゃん……!」
どれだけ手を伸ばしても、今の『アイン』の声は届かない。
走っていく私の背中を見つめる二人の悲しそうな表情を、私はただ見送るしかなかった。
私が向かった先、薄暗い路地裏の集団に囲まれていたのは、春野美咲。
大人しくてパッと見は影が薄いけれど、よく見れば少女漫画のヒロインのように儚げで、目を引くほど整った顔立ちをした女の子だった。
過去の私は、人通りの少ない路地へと入っていくミオたち取り巻きの三人、その後ろをおずおずと付いていく不安そうな美咲の後を、こっそりと追いかけていく。
路地の奥から、生々しく、悪意に満ちた声が響いた。
「あんたさぁ、陰キャの分際でなに調子乗ってんの?」
「……ごめん、なさい」
「は? 謝れば済むと思ってんだ。ウチらが悪者みたいじゃん。悪いのはあんたでしょ?」
「まじそれ。そうやって男引っかけてんだろ? 変なおじさんと歩いてるの見たって噂、マジなわけ?」
三人に囲まれた美咲は、困惑と恐怖で小刻みに足を震わせていた。
自分がなぜこんな目に遭っているのかわからない、という顔で、ただひたすらに現実を拒絶するように言葉を繰り返す。
「……許してください、ごめんなさい……」
「マジでイライラする。言い訳もしないわけ? もう服、剥いじゃっていいよね。写真晒そうよ」
「——!? い、いや……っ!」
ミオの手が美咲の制服に伸びた瞬間。
過去の私は、何の責任も持たない、安っぽい正義感だけで声を張り上げた。
「おーい、ミサキっ! こんなところにいたの? めっちゃ探したよ、行こ!」
「——っ、姫神、さん……?」
過去の私は、美咲の手を強く掴んで自分の元へと引き寄せた。
「は? サクラ? なにしてんの? 意味わかんないんだけど」
「私、ミサキとこれから遊ぶ約束してたから。用事が済んだなら返してもらうよー!」
ミオたちが後ろで声を荒げるのを無視して、過去の私は美咲の手を引いて足早にその場を去っていく。
それが、私と美咲の出会いだった。
ドレス姿の私は、遠ざかっていく二人の背中をただじっと眺めていた。
「……っ、チッ!」
不意に、鼓膜を刺すような、怨嗟の籠もった激しい舌打ちが聞こえた。
私はゆっくりと音のした方向へ視線を向ける。
ミオたちが悔しそうにこちらを睨みつけている、さらにその後ろ。
路地の深い暗がりに、そいつは最初から潜んでいた。
——篠崎エリカ。
前世の私を、あの歩道橋から突き落として殺した女。
エリカの、すべてを心の底から憎悪するような冷酷な瞳が、ゆっくりとこちらへ向けられようとした、その瞬間。
「っ……!」
ハッと息を呑んで、私は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた私の離宮の天井。
バルコニーから吹き込む冷たい夜風が、肌を刺す。
私はベッドの上で、滝のような冷や汗を流しながら勢いよく上体を起こした。
「……はぁ、はぁ……最悪。またあの夢……」
こめかみを押さえ、ドロリとした過去の残像を振り払う。
そして、急速に覚醒していく頭で思い出した。
そうだ、私は最後の力を振り絞って、あの黒髪の男を召喚したんだ。
そして、首をハネられそうになって——。




