9話:本物の勇者
妙に熱っぽい視線を向け、世迷言を垂れ流していた男を一撃のもとに沈めた私は、額に浮かんだじっとりとした汗を拭った。
未だに衣服の裏でうるさく跳ねている鼓動を深呼吸で押さえ込みながら、冷静に状況の整理を試みる。
そもそも、考えるまでもなく原因は『従属の刻印』のバグだ。
彼の本心の意志や感情などではなく、単なる術式の副効果に過ぎない。
本来なら魔獣が主に対して抱くはずの「絶対的な帰依と盲従の好意」。
それが、知性を持つ人間の精神に、それもピカリンの言う「中身が空っぽな鉄の器」のような男に強引に適用された結果、術式が異常な化学反応を起こし、あのような脳を焼かれた溺愛の台詞に変換されてしまっただけ。
ただのシステム上のエラー。分かっている。分かっているのに。
(……あれ。なんだろう。なんだか、ひどく虚しいな)
私の身勝手な都合で、彼の精神を歪めてしまったことへの罪悪感か。
それとも、彼が私に向けたあの熱い眼差しと言葉が、偽物の魔術によって生み出されたものだという事実に対する——ひどく身勝手な、寂寥感か。
「「「ガルゥ……?」」」
「グルゥァ」
俯く私の顔をミケの三つの頭が順番に覗き込んできた。
ポチも大きな鼻先を私の肩へと寄せ、慰めるように微かな熱を帯びた息を吹きかけてくる。
そうだ。この子たちが私に向けてくれるのは、魔術の強制力などではない。
私がこの世界で十数年間、血の滲むような日々の果てに築き上げた、本物の信頼と絆なのだ。
「……ありがと。励ましてくれて嬉しいわ、ミケ、ポチ」
(ピカリンもアインちゃんのこと、世界で一番大好きだよぉ! ピカ!!)
「ええ、ありがとうピカリン。あなたたちは、私の誇りよ」
本当に愛おしい私の味方たち。
ひとまず、気が済むまでミケの豊かな毛並みを十分に愛でてから、彼らには別空間の召喚領域へとご帰宅いただいた。
客室には一応、私の直接の護衛として、少女姿の光の精霊ピカリンだけに残ってもらう。
(アインちゃん、この転移者の人間、どうするピカ?)
私のストレートがよほど綺麗に顎に入ったのか、豪華な絨毯の上で手足を投げ出し、完全に伸びきっているリヒトを見下ろしながら、ピカリンが不思議そうに首を傾げた。
「どうするって言ってもね。
……私の理想に叶う完璧な勇者様を再召喚するその日まで、予定通り当面は彼に勇者(仮)を演じてもらわなきゃいけないわ。
そのためにも、まずはこの世界の常識を叩き込まないと」
(アインちゃんは、本物の……世界を救う勇者を召喚したかったのピカ?)
「ん? 一応はそうだけど……世界? ピカリンにはまだ、詳しい事情を話していなかったかしら」
そういえば、ピカリンにはあの晩餐会の土壇場で、即興のアドリブだけで完璧な「勇者の証明」を演出してもらったのだった。
(……ん。でもね、アインちゃん。
この世界にはまだ、神話に謳われる〝終末の混沌〟も、すべての元凶となる〝破滅の象徴〟も現れていない。
災厄の予兆すらないのに、それでもアインちゃんは、世界を救うための刃を望むの?)
——え?
いきなり部屋の空気が、肌がピリつくほどのシリアスな重圧へと変貌した。
ピカリンの愛らしい声音から、特有の軽快な語尾が完全に消失している。
混沌? 破滅の象徴?
まるで、いずれ確定した未来として世界を滅ぼす災厄が訪れると言わんばかりの口ぶり。
冗談じゃないわ。私、そんな大層な出来事、何一つ聞いていないのだけれど。
まさか、物語のような命がけの展開が、この世界の裏で本当に進行しているというの?
確かに「魔王」は存在して、魔族とこの国は小競り合いを長年続けてはいるけれど、人類の生存を賭けた大戦という感じでもない。
魔族が邪悪な存在だなんて価値観は、少なくとも私の認識では誰も抱いていないはずなのに。
「難しいことは、私には分からないけれど……。少なくとも、今の私の人生には、あの男という手札が必要不可欠なのよ」
そう、私の目的はどこまでも私利私欲、自分のための宮廷闘争劇。
世界を救うだの何だのという大層な意味での「本物」である必要など、私の都合としては一切ないのだ。
要するに、この忌々しいカゴの鳥である私に、絶対的な自由という翼を与えてくれる存在こそが私の勇者。
——そう考えると、リヒトなんて天地がひっくり返っても対象外だ。
容姿が極上であることは悔しいけれど認める。
けれど、性格が最悪すぎる。
私はもっと、前世の小説に出てくるような、優雅で紳士的な王子様系の人にエスコートされたいのだ。
(……わかった! ボク、アインちゃんのために全力で頑張る! ボクに全部任せて欲しいピカ!)
「あ、ちょっと、ピカリン?」
(少しの間、ボクは〝呼び出し〟には応じられなくなっちゃうけど、アインちゃんなら絶対に大丈夫! 楽しみに待っていてね、ピカ!)
刹那、ペカッと部屋全体を眩い黄金の光で満たしながら、ピカリンはその姿を文字通り掻き消してしまった。
一体、何を思いついてどこへ行ってしまったのだろう。
けれど、あの純粋な精霊が私のことを想って行動してくれているのは確かだ。
ピカリンだもの、きっと私の想像を超えるような、愛らしくて平和な結果を持って帰ってきてくれるはず。……うん、深く考えるのはやめよう。
「さてと、どうしたものかしら」
ふと視線を床に落とせば、完全に気を失ったまま、無防備にすやすやと規則正しい寝息を立て始めているリヒトの姿があった。
長く整った睫毛が、薄暗い部屋の灯りに影を落としている。
「……寝顔だけは無駄に綺麗だなんて、本当に反則よ。絶対に騙されてあげないんだから」
仮にも、得体の知れない術式で世界を強制転移させられてやってきたのだ。
どれほど強靭な精神を持っていようと、肉体と神経が疲弊しきっていないわけがない。
少しだけ胸の奥がちくちくと痛むような、妙な違和感を覚えた。
私はその感情を傲慢な態度で覆い隠すように、彼の引き締まった身体へ厚手のブランケットを乱暴に放り投げ、そのまま逃げるように部屋を後にした。
頼れる精霊がどこかへ旅立ち、最悪の勇者が眠る、静まり返った客室。
その扉の向こう、夜の廊下の暗がりに、私の「最強の手札」を狙う新たな悪意の気配が、静かに蠢き始めていることにも気づかずに。




