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マグリブの星  作者: waka
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第二話 沈みゆく残光

第二話です。話の視点はスペインの外務大臣・デフレシアに移ります。

1958年10月6日 0010時

私は、車から降りた。マドリードから外れたとも外れない、その喧騒から遠ざけられた豪邸だ。


ーーー在スペイン フランス大使館。

門前に敷かれた湿った砂利が、私の革靴に踏まれかすかな悲鳴を上げる。昼間は無恥なまでの自尊心を誇り示しているはずの三色旗《トリコロール》が高く掲げられているが、今は掲げられずに3本の鉄芯が風に揺れるのみであった。

今頃、軍の参謀たちがフランコ総統(カウディーリョ)の指示のもと作戦をせっせと練っているはずだ。

ーー”軍の努力を、無駄にするでないぞ”ーー

この一言は、一人で受け止めるにはあまりにも重すぎた。今もなお、わたしの両胸に収まっている肺を冷たく圧迫している。フランコ総統(カウディーリョ)の、枯れ木の軋みのような乾いた声が耳朶(じだ)に鋭い刃のように刺さる。その声が、いまにもそこの角から飛び出してくるように聞こえる。今、この国の命運は、この私の胸に秘めた一通の書簡にかかっているのだ。



「お待たせ致しました、デフレシア外務大臣」

出迎えに現れたのは、ウェニッツ駐スペイン フランス大使だった。年は六十を数え、人生の黄昏時を迎えたその顔には、深夜零時の呼び出しに対する困惑以上の「予感」が張り付いているようだった。いきなりの応対がこの男ということは、フランス側も重大な”なにか”を感じ取ったに違いない。

深夜の0時に、外務省から電話がかかってくるのだから、相当慌てたことだろう。ネクタイの結び目はわずかに緩み、顔の血色《けっしょく》はよろしいとは言えない。

「ええ、事態が緊急なので、早急に終わらせたいところですな」

私は極めて無機質な、あるいは声に含まれる温度を徹底的に噛み殺したかのような声を放った。ウェニッツは、その声のどこかに違和感を覚えたようだ。

「そうとは言わずに...こんな寒い夜です。ハーブティーでも一杯......どうぞこちらへ」

応接間に通された。旧帝的な豪華さと宮廷的な静寂を無理やり接ぎ木したかのような、いかにも”フランス”を醸し出す豪勢な部屋だ。

歴代の大使の、肖像画を眺めながら座って待っていると、大使館の職員だか、ウェニッツの私設秘書だかの女がやってきて、青色と赤色のハーブティーをふたつ、白いテーブルの上に置いていった。そのすぐ後ろに、ウェニッツが入ってきたので、そろそろか、と、誰にもわからぬよう気を引き締めた。

「それで...デフレシア外務大臣。どのようなご要件ですか?」

「我がスペインの支配者たる、フランシスコ・フランコ総統陛下より、伝言《ことづて》を預かっております。」

「わかりました。謹んでお聞きしましょう」

ウェニッツが、ハーブティーに手を運ぶ。その様子を見ながら私は、硬くオーダーメイドしたスーツから1つの赤と黄金に飾された封筒を取り出した。その封筒を取るたび、デフレシアの脳裏にはフランコ総統(カウディーリョ)が常々、片隅に映し出されるのだった。

封筒の中から、76年が経つ今も完成の兆しはない”未完の教会”ことサグラダ・ファミリアが薄く透かされている紙を取り出し、圧迫される肺をどうにか押して息を吸い込み、言った。

「我がスペイン政府はこの通知書の交付を以て、アルジェリアの青年たちの独立を支援し、旧帝国的な植民地支配から解放するため、南部国境を越境することを通告します。これは、歴史の滞留を精算するための不可避な処置であります。通告書の内容は、今この刻を持って有効となります。」

青いハーブティーを口に運んでいたウェニッツは、物理的に動くことを忘れてしまったようだった。顔の額から顎の先端まで、上から下に血の気が引いていくのが見て取れた。顔面は、もちろん蒼白だ。

十数秒の沈黙の後に、ウェニッツの喉はなにかのノイズとともに、言葉にならない「はっ.......?」という思考が停止したかのような声を上げるので精一杯のようだった。

魂の欠片が漏れ出すような、絶望が明らかに交じる声だ。どうやら、想定もしていない言葉だったらしい。

「デフレシア殿、待ってください...我々はピレネーを挟んで向かい側、いわば兄弟ではないか!?こんなもの、どこからどう見たって宣戦布告....!いったい、何があったんです?!まだ間に合います!話し合いで.......!」

老大使の冷静は、羽アリの羽ばたきほどの重みもなく瓦解した。かつてナチスの蹂躙に耐えたはずのそのその誇りは、今や命乞いに等しい錯乱へと成り下がった。

「大使、勘違いをなさらないでいただきたい。」

私は立ち上がり、彼の腰元.......不自然に膨らんだ上着の裾へ視線を落とした。

「我々は19世紀から澱《よどみ》のように積もった、貴国の無能な植民地主義そして帝国主義に基づく、搾取的で病的な支配構造を徹底的に掃除するに過ぎない。これは戦争ではなく、正当な秩序への置き換え(リプレイス)なのです。おや、その物騒な膨らみはコルト・ガバメントですかな? 懐かしい。私もハワイで、太平洋軍のパイロット(クレイジーボーイ)とよく射撃場に通い詰めたものです。もっとも、私が今から撃ち抜こうとしているのは、紙の標的ではありませんがね...」

私の声は、ひどく静かだった。自分でもわかるほど、私の放った氷の刃が大使の魂を穿つかのように、その場に凍り付いたような沈黙が支配する。ウェニッツ大使の顔は、血の気を失っていて、蝋人形のようだ。僅かに開かれた口が、無言のまま震えている。その喉からは、もはや意味ある言葉は紡がれまい。かつての大国の外交官としての矜持は、この一言によって、音もなく砕け散ったのだ。ウェニッツは、ただ茫然《ぼうぜん》と私を見上げていた。その双眸には、恐怖と絶望、そして、なによりも「認めたくもない理解」の色が混じり合っていた。


私がこの場に持ち込んだ書簡は、とうに無意味だ。すでに刻は0045を過ぎ、スペイン軍の最初の部隊は集結を完了している。彼の脳裏で、我が国の無慈悲な進軍が、現実として再構築されているに違いない。


私は、青と赤のハーブティーが並べられたテーブルを一瞥した。大使が口をつけた青いカップは、その中身を少し減らしている。一方、私の目の前の赤いカップは、一切手を付けられていないまま白い机の上で湯気を立てていた。


「では、私はこれで失礼いたします。大使。」


無表情のまま、私は席を立った。床と靴底が擦《こす》れる微かな音が、豪奢《ごうしゃ》な応接間に響く。一歩、また一歩と扉へと向かう私の背に、ウェニッツ大使の視線が突き刺さる。その視線は、憎悪でも怒りでもなく、ただただ、無力な哀願に満ちていた。

振り返ることはしなかった。大使館のお付人が扉を開けようと駆け寄るが、デフレシアはそのまま扉の取っ手に手をかけ、重厚な扉をゆっくりと押し開く。デフレシアにとっては見慣れたこのフランス大使館の廊下を足早に通り抜け、近くの護衛に合図するとともに大使館入り口のドアを開けて外気に体を晒す


外は、ぱらつき始めた雨が夜闇に溶け込み、少し遠くの、未だ酒の匂いが消えないであろうマドリード繁華街の喧騒すらも吸い込んでいるかのようだった。


専用車のドアが静かに開き、私は滑り込む。後部座席に体を沈め、一度だけバックミラーに目をやった。大使館の威容は、雨と夜の帳に霞んで遠ざかっていく。私の脳裏には、先ほど見たウェニッツ大使の「認めたくのない理解」に満ちた表情が焼き付いていた。


ーー理解しただろう。我々が何を成し遂げようとしているのかを。ただ、彼はそれを理解したくないだけなのだ。


車は静かに、しかし加速しながらマドリードの街を走り去っていく。私の胸中には、フランコ総統(カウディーリョ)の乾いた声が、再び響き渡っていた。


「……軍の努力を、無駄にするでないぞ」


その言葉は、もう私の肺を圧迫する重荷ではなかった。むしろ、冷酷な決意を燃やす、炎の燃料と化していた。


背後の旧態依然たる豪邸(トリコロール)は、いつになく弱々しく光っているようにも見え、先ほどまでいた応接間のあたりだけ明るく光って見えた。

急速に遠ざかる光。それは、フランスという巨大な残光が、サハラの砂漠に沈みゆく終わりの始まりであった。


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