第三話 新秩序へのラプソディ
1958年10月05日 2345時
作戦参謀が首をすくめて作戦の概要について端的かつ正確に聞き入る直前の話である。その作戦室の丁度下に5階分降りた部屋、即ち地下の二階に、スペイン諜報局の分析室は存在する。そこは、真空管の熱気と磁気テープが擦れる微かな、そして独特の音と、神経質なほどに無表情な計算音が支配する、情報の墓場だ。
「なあ、ルッシ。これよく聞いてくれよ。フランス語じゃないか?」
私は、隣のブラウン管ディスプレイを眺めるルッシの肩を軽く叩いた。赤く充血した目が、ギラギラと光っている。ルッシの机には、ドイツ語で「Koffein」と書かれたサプリメントが山を作っている。
「どうしたんだ?」
「これだよ、これ。」
ルッシがこちらに来たので、盗聴装置の音声データを再生する。オシロスコープを凝視していたその目は、確かに若そうな男の声を認めた。フランス語を解する彼は、断片的な言葉だけだったが、その言葉が「すまないな、ワインは一人で飲んでくれ」という感傷的な言葉であることを特定した。すぐさま、この第三分析室の長であるデイツ大尉に報告し、問題の「声」について再度聞くことになった。
大型のオープンリール式テープレコーダーのスイッチを入れる。スピーカーから流れ出したのは、先ほどまで「ジャン」と呼ばれていた若きフランス兵の、最期の数分間だった。
突如として室内に響き渡る木がバキバキと折れるような音と、金属の部品が噛み合う駆動音、そしてフランス語の短い悲鳴。ルッシが言うには「やめろ」とか、「こっちに来るな!!撃つな!」とか。最後には「やめろ!」と叫んでいたというが、ドイツ語と英語、ロシア語を専攻していた私にはこの男が話すフランス語はわからなかった。しかし、その後には情報畑の私でさえ何千回と聞いた音がした。あの耳を劈く衝撃音ーーーそう、撃鉄が雷管を叩き、火花が散って火薬に火がつき、火薬の燃焼ガスで押し出された弾体が加速し、目標を迅速に制圧するーーーまさしく、銃の射撃音。しかも、おそらくサブマシンガンクラスの音だ。また数秒経ち、階段を駆け下りるガタガタガタ、という音と、また十数秒後の、階段を駆け上る軍靴の音。
「……トツー、トトトトツー……」
執拗なまでの定時報告を促す信号音。そして、金属同士の鈍い衝突音と、通信途絶を表すコード。
3人の分析官はオシロスコープで捉えたその音の波を凝視する。
「ここだ。巻き戻せ」
私が指示すると、ルッシがボタンを押す。磁気テープが逆回転し、所定の位置でまた逆回転し、再び衝撃音が鳴り響く。デイツも注目したのは、フランス兵の喉が潰れる音でも、通信機が粉砕される爆音でもなく、まさしく私が見つけ出した、あの一瞬だけ記録された砂漠の風よりも微かな「言葉」だった。
『………いな。…イン………飲んで………』
先ほどはうまく聞き取れたのだが、スピーカーの調子が悪いようだった。あまりに不明瞭なその声に、スピーカーを軽く突く。
「ルッシ、もっと声を拾えないか」
「言われなくても。今やってる……これでどうだ?」
カチッと、テープの再生音が響く。
『……すまないな。ワインは一人で飲んでくれ』
録音されたその声は、驚くほど静かで、かつ哀切を帯びていた。デイツの満足げな目と一向に崩れない顔は、かすかに冷笑を含んでいた。
「この手のものは、宗教的な問題を孕む場合がある。そうした場合、教祖や信仰対象の名前を叫ぶことが多いが、ここにそうした事実はないな。むしろ、感傷的な言葉を発しているのは実に興味深い点だ。殺した相手の日常への詫びと、その喪失を悼むかのような声であるというのは、彼の『人殺しとしての欠陥』かも知れないな。」
彼は驚くような速記で記録簿に製図用ボールペンを正確に走らせ、このフランス軍の通信拠点の襲撃者をプロファイリングしていく。
『行動速度と手口からして、高度な戦闘訓練を受けた痕跡あり......と。卓越した隠密性があるのは認められるな......歩調はフランス陸軍のものと酷似。しかしながら殺し屋としては致命的なまでの感傷という欠陥を抱えていると考えられる...か。スペイン語感はあまり感じられず、アルジェリア訛りが僅かに混じっており、言い慣れている可能性が高いのはフランス語であろう...フランス語やその派生言語が母語なのだろうという点と...若々しさに若干疲れが交じる声色だな.......結論、30代なかばの男アルジェリア出身の元仏軍外人部隊と推定。これまでと同一犯で確実だろう。』
私の背筋にはデイツに対する冷たい何かが走ると同時に、ここ最近、第三分析室から大きな星は上がっていなかったことからくる小さな安堵が襲った。デイツが書いた記録簿に担当者として記名し、また分析室の主任として、「情機」という四角い判子を押す。
言うまでもなく、このデイツという男の真の優れているところはまさにこの分析力だ。
本来、諜報局の分析室の長というのは少佐がつくべきポストだ。しかしながら、デイツは大尉である。優れた状況理解能力と神をも超えると恐れられた分析能力をもって、諜報局長の大抜擢を受け、『彼のための』と言っても過言ではない大改編が諜報局内で行われた。この第三分析室はそんな大改編の最中、昨年4月に新設され、その室長にはデイツが就任するべくしてその室長という任を託されていた。そんな中で、この分析室のメンバーは、総統直属の情報組織となる国家情報局、国防総省の情報局からも幾人かが選抜され、ここへ配属された。ルッシは国家情報局から選抜を経て編入された男だ。かという私は諜報局の諜報員事務局からの派遣で、実地での任務は4年ぶりだった。他の面々も元の職場は多種多様である。
そんな特殊な経歴を持つメンバーの中でも、特に異色なデイツの声が、静かに響く。
「この人物のものと判断し得る、あるいは殺害者が不明なフランス兵の遺体については、第三分析室が持ちうる限りの情報であればこれまでで50人近くに及ぶほど確認されている。が、フランス軍は、この男について、まだ性別すら掴めていないはずだ。だが、我々にとってこれほどまでに我軍の進軍経路をこじ開け、最も安価で、かつ最も鋭利な、都合の良い演算子は過去何一つとしていない。」
彼は、記録簿とは異なる紙に何かを書いて連絡官に渡した。
男が向かったと推測できる集落の座標と、一つの命令が記されていたようである。
連絡員は間違いの一つもないように、内容を読み上げた。「ーー最後の拠点、P4-6の破壊を確認。当方面に決定的な破口ができたため、作戦の実施が可能。当該破壊者、我の利用者たりうるため、監視を継続し、接触厳禁。当該がフランス軍を屠るたびに我の介入正当性は一層強固なものとなるーー通達先はベルデン参謀総長でよろしいでしょうか?」
「ああ、それで構わない。3階の参謀作戦室にいるはずだ」
連絡員は敬礼し、デイツの答礼後に駆け足でエレベーターに向かった。
今朝のミーティングで第一分析室が言う限りでは、フランス軍は北部の主要都市の奪還、防衛に必死で、またゲリラ戦術にヘリコプターで対応するなどしている。が、南部まで手が回っていない他、諸外国でも反植民地主義的風潮・反帝国主義的風潮が高まっており、フランスのアルジェリア独立の阻止には裏で冷ややかな目線を向けられているようだ。
フランスから見てドーバー海峡を挟んだ向こう側、かの連合王国も、フランスの支援に回りつつあるが、独立への動きが自国の植民地でも起きている。じきに、植民地の独立運動が加速し、それに伴って放棄を始めるであろう。少なくとも第一分析室では、1960年代初め頃と結論づけている。
「アメリカも、黙認せざるを得まい......53年の協定以来、我が国が与えているジブラルタル海峡の制海権と基地の提供は、パリの『泣き言』などとは比較にならん。ワシントンは欧州の旧帝国どもに愛想を尽かしているはずだ」
と、デイツがアメリカから収集している情報をまとめた世界地図を見ながらつぶやく。諜報分析の点では、デイツは世界の中でも名のしれた分析のプロで、アメリカには何度か行っている。世界地図には、海底トンネルの軍用通信周波数や海底聴音ソナーの位置、精度、能力や各国の通信・電力規格も書かれていた。
「......すまないが、ワインは一人で飲んでくれ」
オシロスコープの中で揺れる音の波の形は、一人の嘆きではなかった。スペインがマグレブに築くべく動き出した、スペインが描く新秩序という巨大な狂詩曲の第一節にしか過ぎなかった。
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