第一話 ガリアの雄鶏
マドリード・帝国軍統合参謀本部 作戦参謀室 1958年10月5日 2350時
帝国軍の参謀本部の正面入り口はエントランスホールで、大理石の床には丁寧に磨かれた黒曜石で「al Imperio que vendrá」(明日の帝国のために)と刻まれ、その奥には巨大なフランコの銅像が建てられている。杖をつく、威厳あるその銅像には、並々ならぬオーラを感じた。
3階のちょうど中央に位置する作戦参謀室は、あたかも巨大な墓標の内部のような静寂に包まれていた。窓の外では、カステリャーナ通りの街灯が規則正しく並び、時の独裁者・フランシスコ・フランコが強いた「秩序」という名の静謐を維持している。しかし、重厚なオーク材の扉に守られたこの一室だけは、欧州の勢力図を塗り替えるための、熱を帯びた「思考」が充満していた。
部屋の中央、巨大な長方形のテーブルには、一枚の巨大な地図が広げられている。北はピレネーの険峻な山脈から、南は灼熱と極寒が交錯するサハラの大地の果てまでを網羅した、最新の戦略図だ。何人もの死者を出しながら記録された標高や都市間の正確な距離は地図の上に記され、また現在の勢力図や拠点の位置を示す無数のピンも打ち込まれている。フランス軍の配置を示す「三色旗」の青いピンは、アルジェリアの海岸線から内陸へと細長く伸び切っており、まるで栄養を失って干らびた毛細血管のようだった。
「私」は、その脆弱な青いラインの一点を、銀の製図ペンでなぞった。ペンの先が地図の紙面を擦る、わずかな乾いた音。その一点こそが、先ほど「沈黙」が確認されたP4-6監視所の付近だった。
「フランスの『六角形』は、もはやその体裁を保てていない。”仏領アルジェリア”という巨大な四肢が壊死し始め、その波は既に毒素としてフランス本土にまで逆流し始めているのは紛れもない事実だ」
隣に立つ作戦課長が、低く、しかし断定的な声で呟いた。彼の指す地図上の「空白地帯」ーーそこは、フランス軍の通信網が寸断され、独立勢力の跳梁を許している混乱の極みだ。だが、我々スペイン軍参謀本部にとって、その空白は絶好の「入り口」に他ならなかった。
私は傍らに置かれた精密なエニグマ改良機を見やった。ドイツから引き継ぎ、スペイン独自の改良を加えたその暗号機は、フランス軍が発する焦燥に満ちた平文を、冷徹な情報へと変換し続けている。ピレネーの北側に位置する大国は、いまや第二次大戦後の疲弊から癒えぬまま、植民地という底なし沼に足を取られている。かつて欧州を席巻した『ボナパルトの亡霊』は、もはや自らの背後を固める体力すら失っていた。
「先ほど、諜報局が通信傍受装置を取り付けていた、このP4-6監視所の通信途絶を確認した。通信傍受装置の通信停止は、破壊以外に存在しない。このことから、当該物は破壊されたものと断定できる。また、このP4-6通信所はこの周辺においてフランス本国と通信できる唯一の通信基地である。つまり、このオラン東部の防衛線に決定的な『穴』が開いた。フランス軍はこれを反乱分子の仕業と断定し、初動を誤るだろう。ここに、我が軍が傷口を作る。」
私は手元の資料をめくり、一枚の航空写真を取り出した。そこには、砂漠の中にポツンと取り残された、あのフランス軍の詰所が写っている。数時間前、そこで一人の兵士が”緑色の目”を恐怖に染めて息絶えたことを、この部屋の誰も知る由はない。しかし、その死が、スペイン軍、ひいてはフランコ主義という巨大な歯車を回すための原動機を回した、最初の潤滑油となったことは紛れもない事実だった。
「連中は気づいていない。自分たちが戦っているのは、自由を求める現地人と一部のソヴィエト人だけだと思い込んでいる。……その背後で、『折れた百合』の根元に、我々が鋭く研ぎ澄まされた斧を振り下ろそうとしていることにさえ、だ」
「実に素晴らしい見立てだな。私も同意見だ。さすがは独ソ戦を戦い抜いた、”青の師団”の参謀長だね、君がスターリングラードを生き延びていてよかった。」
感嘆する作戦課長と目を合わせ、互いにゆっくり頷いたあと、私は銀の製図ペンを置き、代わりに真っ赤なインクに浸されたスタンプを手に取った。それは、スペインの誇り高き「血と黄金」を象徴する、作戦発動の徴だ。地図上の「空白地帯」にその印章を押し当てた時、微かな衝撃とともに、私は、この作戦の総司令官になった重みと共に、歴史が不可逆的な一歩を踏み出したことを確信した。
部屋の壁に掛けられた振り子時計が、規則正しい音を刻んでいる。マドリードの午前零時。その秒針が重なる瞬間、この静止した地図の上の赤い矢印が、生き物のようにフランス領へと食らいつくことになる。我々は今、単なる独立戦争への介入を企てているのではない。欧州から、植民地という名の頽廃した贅肉を削ぎ落とし、鋼の律を接ぎ木するーーーつまり、歴史の”再定義”を開始しようとしているのだ。
フランスという旧弊な主権を排し、その焼け跡に我がスペインの盾を礎として敷き詰める。マグレブの夜明けを支配するのは、三色旗の残光ではなく、我々がもたらす峻烈な静寂であるべきなのだ。
部屋には、今にも溢れんばかりの高揚感と熱気が、静かに佇んでいる。
ここにいる参謀は、私と作戦課長を除き、全部で23人。私は、全員の顔をしっかりと見てから、言った。
「……始めよう。ガリアの雄鶏が、悲鳴を上げる暇もないほどに」
隣でいつの間にか腹をくくっていたらしい作戦課長がひと思いに息を吸い、声を張り上げた。
「雄鶏の首を叩き折れ!今こそ!我が軍の意地を見せるときである!総員、一層奮励努力せよ!」
部屋は相も変わらず、静かだ。しかし、先ほどとは決定的に変わった空気があった。勝利への決意は、私、そして作戦課長はじめここにいる25人の参謀部の幕僚の心に、深く、強く刻まれたのである。
私は静かに、しかし冷酷な確信を込めて、次なる指令書を手に取った。
その指令書に、フランコ総統の名があった事実は、部屋に詰めて居並ぶ参謀たちの顔をいとも簡単に硬直させることができた。




