第三章
そんな苦しい日々の中に衝撃が走る。
国境に一人、亡命した牙人が入り込んだ。
「たす、たすけて…」
その声は牙を折られ発音は辿々しかった。
亡命者はいくらかの紙の束を発見者に渡し、そのまま息絶えた。
発見者はシネレイの部下であり、急いでこの紙の束を当主に渡した。
その紙に書かれていたことは、まるで地獄そのものであり、吐き気を催した。
内容は想像を絶する敵国での扱いだった。
読みながら彼の手は震えていた。
『関所に着くなり、仕分けられ、一塊として向こうが我々を購入していく。何人かは人間の学者のような風貌のものが大量に買っていった。私は工場の労働員として割り当てられた。他にもいろんな仕事があっただろうが、自分の事で精いっぱいだった。我々の収容施設は酷く狭く、冷たく固く、ただ、雨風をしのげるだけの場所だった。手を縛られた状態で施設に入れられる。僕らの労働の対価はわずかな血の量だった。当然足りる量ではない。衰弱していく仲間はもう見ていられなかった。何度も飢えを懇願しても言葉は通じない。でも、やかましいかったのか口に何かを突っ込まれた仲間はたちまち腐臓病で死んでいった。隣の部屋の学者向けの人々とは壁伝いに信号でやり取りをしていたが、どうも連れていかれたら最後、戻ってこないと言っていた。それに、出されるものは固形物だけで、しばらく何も食べていないと言っていた。人間は我々の生態を知らなさすぎる。こんなところで生きていけないと皆私に協力してくれた。この報告書が本邦に届くことを祈る』
この文書を読んだ後、部下を部屋から追い出した。
その後一人で泣いていた。
やはり自分があの時反論し切っていればこんな事にはならなかっただろうか、と後悔がよぎる。
自分の感情を整理し、やらねばならないことを。
次のことを考えなければならないと切り替える。
急ぎ王都に出向く。
そして王都ルグリアスにて。謁見の間で取り乱しながらも報告書を渡す。
渡しながら悲しみと怒りを混ぜた声で。
震えながら、涙目で。彼らしくない表情だった。
「こんな惨状とは……このままでいい訳なかろう!やはり今すぐ奴らを根絶やしにせねばならん!」
ルブリア十世はそれを制止する。
報告書の内容に動揺は隠せていない。
「待てシネレイ。我々はそれでも彼らなしでは生きていけない。忘れるな。これを読んでまともでいられるわけがない。それは確かだ。一度皆を招集せねば」
ルブリア十世は通信士に各当主へ緊急の連絡をさせた。
一日置いてすぐに緊急の当主会議が行われた。
部屋には硫黄の匂いに急いでやってきた彼らの汗の匂いも少し混じっていた。
すぐに集まった当主たちへ例の報告書が共有された。
目を通し切った者から涙していく。
彼らもまた自分達の決断の重さを全身で受け止めていた。
後悔。これが重くのしかかるが、それが彼らの選択。
そして人間に対し、こんな野蛮で理性のかけらもない神話通りの生き物だなとはらわたが煮えくり返っていた。
涙の中に混じる怒りは皆を震えさせた。
レリグス家当主は呟いた。
「冒涜甚だしい……。すぐにでも裁かねばならないが……彼らは聞く耳を持たないのでしょう?」
ビリディオン家当主はため息をついて返す。
「そうですね。書簡はどうやら関所を超えていません。何度も送っているのに返事が一切帰ってこないところから見るにそう察しています」
そこにアウランティ家当主が明らかに取り乱し、目を泳がせ、震え、縮こまりながら呟く。
責務が呪いの様に彼を蝕んでいく。
「自分で賄えるようになるまで彼らの悲鳴を聞き続けるのか……なんと業の深いものよ。胸が苦しい」
隣に座っていたアルビオン家当主が言った。
「気を確かに……今アウランティ殿が倒れたら誰がこの国を……」
最後まで言いかけてその口を閉じた。
この言葉もまた呪いになるのではないかと気づいてしまっていた。
皆が絶望に飲まれていく。
充満する硫黄の匂いに気分が悪くなり、手持ちの布で鼻を抑える者も居た。
卓の上には涙で滲んだ報告書が散らばる。
亡命者が命を賭して渡してきた物は彼らへの怨嗟か。
負の重圧に潰されかけており、気が動転している中良いアイデアなんて出るわけがなかった。
ルブリア十世もまた、限界だった。
自分の心臓が緩やかに沈んでいき、呼吸が浅くなっている事に気づいた。
こう言う時にすることは決まっていた。
馬鹿げた話かもしれないが、これしかないと。
静かになった部屋の中。
理解し難い言葉が置かれた。
「……皆、温泉にでも行こう」
数名が反論する。あまりに突飛なアイデアにどこか空気の抜けた様な声で。
「王よ、同胞があんな目に合っていながら我々はのうのうと……」
アウランティ家当主が力なく反論したが、ルブリア十世は続ける。
「違う。このままじゃ会議が進まん。なら、一度皆を導くために必要な頭に切り替える必要がある。今皆の神性の血管が滞っている。なら血流を良くせねばならんだろう。手っ取り早い方法を考えただけだ」
未だ納得しきれない当主もいたが、それは少数派だった。
ルブリア十世は王都の王族専用の温泉を解放した。
苦しむ民を横目に温泉に入っていると言うことが領民に知られては革命が起きても仕方ない。
ルブリア十世はそう判断し、伝統を破った。
「後にも先にもきっとここを入る我が血族以外のものは皆だけだろうな」
扉を開き、脱衣所で皆こうなるとは思っていないと混乱しながら服を脱ぐ。
彼らにとって温泉は由緒正しき接待の場のため、こういうことは慣れていたものの、まさか王族のための神聖な湯処に行くとは思ってもいなかった。
故に彼らの中でまだ怒りはあったものの、どこかぎこちない空気になっていた。
そして白く湯気が立ち上る岩に囲まれた空間。
綺麗に整えられた生垣が包む。
聞こえるのはただ湯が湧き出る音とたまに凪ぐ風が木を揺らす音だけだった。
13人が入るには少し狭そうな露天風呂だった。
皆、やや狭いと感じながらもじっと瞑想に耽る。
湯の温かさが彼らの凝り固まった思考を溶かす。
怒りは滲み、薄くなっていく。
しかし心に染みついた怒りは薄まりきることはなかった。
薄くなった怒りの代わりに浮かぶのは自分たちができることは何か、打開策は何かという思考だった。
相変わらず誰も口を開かない。
自然の音だけの空間が新たな緊張感を生んでいく。
湯気で視界が真っ白になる。
風が吹いて視界が明瞭になったとき、ルブリア十世は口を開く。
「皆固くなるな。こんなときくらい少しは肩の力を抜け」
数人がそんなことできやしないと目で訴える。
「何のために場所を移したかわからない。……ほら、後でちゃんとした話をするとして。私がなんだかんだ最年少なんだから。皆王と担ぎ上げているけど私だってこれで正しいかの迷いはある。初めてこんなことをするんだから。今まで牙人がここまで一つになったことはないだろう」
レリグス家当主がぽつりと呟く。
「まあ、点々と過ごしていましたからね。我々も驕りがあったのでしょう。もっと早く事を動かすべきだった」
それに続いてカルニフィク家当主も俯きながら言う。
「あの時はそうせざるを得ないと思っていたが……自分のしたことがこう返ってくるのは悲しいことよ」
スコラスティアン家当主はブツブツと独り言を言っている。
「もっと違う計算をすればよいのではないか……そもそもこの収支は……」
ニグリィ家当主がそこに声をかける。
「おい、なんの計算だ」
「いや、農園のやり方だ。どう言う配分でリソースを割くかだ」
「どういうつもりなのか教えろ」
そこにアウランティ家当主とアルキテクト家当主が混じる。
「その話、私が居なければ意味がないだろう」
「なに、どうせ後で話が飛んでくるなら混ぜろ」
技術者同士が会話を弾ませた。
「我々はうまく民を導けているだろうか」
心配そうにレリグスとヴィオラセイ家当主に投げかけるアルビオン家当主。
それに答えるヴィオラセイ家当主。
「信仰と矜持はまだ僅かに保たれているはず。我々でできることがあればやり続けるしかないだろう」
民の心に寄り添う者たちもまた会話を弾ませる。
ユーディキリオ家当主とビリディオン当主もまた外と内での交渉術について話し合っていた。
心が冷え切った残りの三人。
その中でナウィクラリィ家当主が話し出す。
「ああ、我々だけはどうも晴れないな。人を罰し、人を連行する。気が狂いそうだ」
カルニフィク、シネレイ家当主は黙ったままだった。
「返事がなくてもいい。ただ、独り言だ。我々だけが民の秩序を守れる。苦しい立場だがもう少し頑張ろう」
黙ったままの二人は少し顔が綻んでいた。
皆、少し思いの丈を述べていったが、ルブリア十世は限界だった。
「すまない、私はもう限界だ、出させてもらう」
王は熱さで真っ赤になっていた。
それに呼応するように皆も出た。
湯面が揺れる音が響く。
「無理したな王よ。長風呂苦手なら先に言っとくべきだったな」
シネレイ家当主が笑いながら水で冷えたタオルを王に渡した。
「すまない。少し休んだら会議に戻る」
のぼせてふらついていたルブリア十世はしばらく風呂の外で身体を冷やしていた。
先に着替えの済んだ当主達から部屋に戻り、また円卓を囲む。
遅れてルブリア十世が入る。
緊張が高まる。しかしそこに深い闇はない。
「遅くなった。始めよう」
会議は温泉の効果か、皆の目に生気が宿る。
ルブリア十世はそれを見て話し始める。
「とにかく、急務は農園の整備だろう。更にできることはあるか」
スコラスティアン家当主がいう。
「我が分家も参入させよう。人手はある方が良かろう。都市計画はやや遅れるかもしれないがアルキテクトよ、構わないな?」
アルキテクト家当主が待ってましたと言わんばかりに答える。
「私もそう考えていたところだ。こちらの分家もインフラ設備から農園に必要な設備から整えるとしよう」
ルブリア十世はそれに呼応する。
「では分家も総動員で整えてもらおう。指揮管理はアウランティ家で大丈夫か?」
皆がアウランティ家当主を見る。
もうそこに迷いはない。
「ああ、責任は取ろう。皆力を貸してくれ。後で詳細を詰めよう」
そこにカルニフィク家当主が差し込む。
「話がまとまったところ申し訳ないが、取引の人材が不足している。更に不安に押しつぶされた民衆が度々法の目をくぐって暴れている。つい先日も配給所の担当員が負傷した。どうにかならんか」
レリグス家当主とユーディキリオ家当主が目を合わせる。
口を開いたのはユーディキリオ家当主。
「かなり不本意だが……宗教罰を増やせないか?法律は限度がある。それに変えるのは容易ではないし反発が大きくなりやすい。宗教側から攻めるとまだ理解は進むのではないだろうか」
レリグス家当主は口をつぐむ。考える。
やっと出した答え。
「いや……本当に求心力の神性をこう使うのは非常に苦しいのだが、総合的に考えると間違いない。しかし私の声だけでどうにもなるまい。アルビオンやヴィオラセイにはかなり動いてもらうことになると思うが」
名の上がった二人もまた目配せする。
一拍の沈黙の後にアルビオン家当主が覚悟を決めた。
「よかろう。誇示の神性にかけて。何かそういう催しを考えるとしよう」
触発されたヴィオラセイ家当主も続く。
「ならば私も続かねば。自尊の神性にかけ、芸術の力でなんとか心を保たせよう」
「頼もしい。なら踏み切ろう。民には窮屈を強いることになるが……ここから先はもう振り返れないだろうな。やり切るしかない」
レリグス家当主も腹を括った。
こうして議会は幕を閉じ、厳しい宗教的罰が敷かれる。国民はそれに窮屈さを持ちながらも、ただ状況がよくなることを祈っていた。
信じる心と現実から目を背けることで何とか飢えを凌いでいくしかなかったのであった。
秩序はかろうじて守られたものの、民の目は死んでいた。
当主達の必死の努力もむなしく農業改革は進まず、ただ時間だけが過ぎていく。
焦りがミスを呼ぶ。
怒号飛び交う現場も既に疲弊していた。




