第五十四話 ふたりの遺伝子
朝は来る。
いつもの朝だけど、いつもと違う朝だと思う。
毎日、毎日何も変化がないけど、それは目に見えないだけで、確かに何かが変わったと思う。
先輩のせい?
「先輩おはようございます」
「ああ、おはよう」
「よく眠れたようですね?」
「う~ん、咲良さんは?」
「はい。私も気持ちよく眠れましたよ。ええ、本当に気持ちよく」
「ええっと、もしかして怒っている?」
「まさか。新婚の妻を放っておいて、一人ですやすや休めるその大物ぶりを、わたくし気にしたことなんて、今の今まで一度もございませんわ。おほほほほほほ」
一度、こういう笑い方をしてみたかったんだ。どうですか、先輩?
「ああ、すみませんでした」
「冗談はさておき、早く起きてください。朝食にしますよ」
「ああ、はい」
今日も、いい一日になるといいなあ。
二人仲良く会社に出勤するけど、会社の玄関前でうんざりすることになった。
母が居たのだ。
昨日の今日なのに、暇なんですね、母さんは。
どうしよう?
やっぱり、もう一発殴っておいた方が良かったかも。
「咲良」
「また、来たんですか?」
ホント、うんざり。
「今日は、あなたに重大な事実を伝えに来ました」
「警察は、どうしたんですか?」
「気に入らないとは言え、元夫を告発するのは、さすがに人の道としてどうかと思いました。警察に通報するのを、今回に限りやめました」
「素直に、警察に相手にされませんでしたって、どうして言えないのかな?」
先輩の言う通りだった。冷静になれば、誰でもわかることなのに、何で分からなかったんだろう。
やっぱり、先に頭に血が上った方が、愚かだということかな。反省しないと。
「いいですか。この結婚は、無効です」
「だから、成人した男女が決めたことです。あなたには、関係ありません」
「あの~、ふたりとも。ここはさ」
「うるさい!」
「先輩黙って!」
「ああ、はい。そうですよね」
ごめんなさい、先輩。でも、ここは引けないんです。
いい加減、決着を付けないと。
それは、母も同じなようだ。
こういう所が、母娘なのかな?
ホント、むかつく。
「いい。あなたはね、認めたくないけど、この男の子供なのよ!」
捨て身ですか?
ホント、後先考えない人って、愚かなんだと思う。
これって、自爆テロと同じだけど?
母さん、あなたは分かっているのかな?ああ、分かってないなあ。
確かに、先に頭に血が上った方が、愚かなんだなあ。
「どういうこと?」
先輩が当然のように、疑問を挟んできた。正直、意味は無いけど。
「私はあなたと離婚する前に、すでに妊娠していたんです。だから、咲良はあなたの血を受け継ぐ、あなたの実の子供なんです」
「ええ?」
「血の繋がった親子で、結婚は出来ません。これで、分かったでしょう。さあ、咲良、私たちの家に帰りましょう。家族三人で、幸せに暮らしましょう」
勝ち誇っているけど、正直どうしようか?この馬鹿を。というか、あんたの男なんて、私は知らないんですけど?
「はあ~。何を言うかと思えば」
「これは、動かしがたい事実ですよ。裁判所に訴えれば、結婚も無効に出来ます。良かったね、咲良。戸籍もキレイに出来ますよ」
「ええっと、でも離婚後に妊娠したって、私はそう聞いたけど」
「あなたに愛想を尽かしていましたから、あなたとの縁を切る為に、妊娠日を誤魔化したんです」
「ああ、そうなんだ」
ああ、先輩もその意味を、まったく分かっていないようだ。離婚の理由が、まったく無くなったことを。
そして、母の不実を。
「嘘も、大概にしてください」
「嘘じゃないわよ」
「嘘ですよ」
「知りもしないのに、何でそんなことを言うの?この男のせいね?あなたは、この男に騙されているのよ?」
「ホント、愚かな人」
母は動揺していたけど、一応反撃してきた。反撃になっていないけど。
「愚かなのは、あなたでしょう?事実を認めなさい。いい、私はあなたのことを、心から心配して言っているのよ?」
あんたが心配しているのは、あんた自身でしょう?まったく。
私はカバンから、一通の封筒を取り出した。私はその封筒から書類を抜き出し、母に突き付けた。
「ほら」
「え?」
「DNA鑑定書よ」
「え、でぃ何?」
「DNA鑑定書。私と勝呂先輩の鑑定結果」
「どういうこと?」
「見て分からないの?」
書類を凝視していたら、母さんはわなわなと震え始めた。
「嘘よ、嘘に決まっているわ」
母は、すっかり動揺していた。さすが、科学。ぐうの音も出まい。
「科学で証明されたことよ。認めなさい」
「ええっと、どういうこと?」
「先輩のDNAと私のDNAを鑑定して、親子関係が無いことを証明した書類です」
昨夜見た郵便物の中に、私の前の住所から転送された手紙の中に、その封筒が入っていた。
いいタイミングだったけど、中身を見て良かったと思った。調べてもらって、本当に良かった。
私と先輩は、血の繋がる親子では無かったから。
もう、誰にも後ろ指を指される謂われは、一切ないことを。
「いつの間に」
「すみません、黙っていて」
いつこのことを話そうか、正直悩んでいたけど、結局言い出せなかった。
言い方次第では、私と先輩が実の親子の可能性がありながら、結婚したことになってしまうから。
さすがに、どう説明したものか、その時は分からなかったから。
「これで先輩と私は、いついかなる場合でも、婚姻が結べます。何でしたら、裁判でも証拠に出来ますよ」
「信じないわ」
「信じようが、信じまいが、私にはどうでもいい話です」
母が手に持っている、DNA鑑定書を引ったくり、カバンにしまった。大事な書類だから。
「嘘よ」
「ねえ、母さん?」
今度は私が、母を追いつめる番だね。
ここまで、10年掛かった。
待っていた訳ではなかったけど、この日を待っていたような気がする。
「え?」
「私の本当のお父さんって、誰なんですか?」
「あ、あああ」
「先輩と婚姻中に妊娠したってことは、他の男と不義密通をしたって、そういうことですよね?不倫をするなんて、母さんて最低ですね」
「ち、ちがうの」
「ちなみにその頃は、先輩とはもう夫婦関係が無かったって、私は聞きましたけど?違うというなら、どうやって私を妊娠したんでしょうね?」
「ち、ちがうの、ちがうのよ」
「夫以外の男と、セックスしたんでしょう?ホント、最低。どっちが、淫乱なんだか」
「だ、だから。ね?話を聞いて?」
「だから、聞いているじゃないですか?不倫相手は、誰なんですかって?」
「だ、だからね、いい?あのね?ええっと」
「要領を得ませんね。言い訳なんか、もう要りませんよ」
「う、うちにいきましょう。ね?落ち着いて?みんなで話し合いましょう」
「落ち着くのは、私ではなくあなたですけど?」
「すべてはね、あなたの為なのよ。あなたに幸せになってほしいって、私も夫も思っているのよ?」
「夫?誰それ?私、そんな奴、知らないんですけど?」
「だから、きちんと紹介するわ。咲良もきっと、気に入ってくれるわ」
「セックスの相手にですか?」
今の私は、すごく嫌な顔をしているだろうって、自覚はある。でも、どうしても止められない。
否、止めるわけには行かない。ここで、ケリを付けるんだから。
会社に出社しようとしている人たちは、私たちをチラッと見るだけで、足早に社屋に入って行った。
関りを、持ちたくないからだろう。
それはそれで、助かる。
変に介入されると、益々おかしくなるから。
「母さんの代わりに、私をその男の夜のお相手をさせる為でしょう?」
「な、なんて!は、はしたない!」
「だって、事実がそうだったんだから」
「ち、違うわ。あれは、あなたが誘惑したって」
「ほら、やっぱり。あんたは、私の味方じゃない。なら、敵でいいよね?」
「だ、だから、お願いだから、は、話を聞いて」
「聞いているじゃない?それで、母さんは誰と寝たの?どこの誰と、子供を作ったの?」
「ち、違うのよ」
「私には、知る権利があります。私の本当のお父さんって、いったい誰なんですか?」
「し、しらない。しらないわよ。ほ、ホントよ。ウソじゃないわ」
「ねえ、母さん。あなたは、誰とセックスしたんですか?」
「し、してないわ。あなたがなにを言ってるのか、私には分からないわよ」
「はあ?あんた、セックスした相手を・・・」
「咲良さん、もう、いいじゃないか」
先輩が私の肩に手をやり、止めに入ってくれた。
正直、どこまで行くのか、どこまででも行こうとしているようで、私自身怖かった。
誰かに、止めて欲しかった。
「先輩?」
「君もだ。こんなことをやって、何が楽しい?私は、ただ不快なだけだ」
「あ、あなたのせいね!咲良に、あんなに素直だった咲良を、こんなにおかしな子にしたのは、あなたね?」
「君に、親の資格は無いよ。家族を持つってどういうことか、今からでもよく考えるんだね」
「わ、わたしは、わたしはがんばってきた、がんばったのよ?」
「頑張る方向を間違えたら、皆が不幸になるだけだ」
「先輩」
もういいです。もう、いいんです。
私は、先輩のスーツの袖を引いた。
「うん、もう行こうか」
「はい、先輩」
「ま、待って」
「咲良さんは、私の大事な家族です。母親だからと言って、これ以上の勝手は認めません」
「あ、あなたのせいよ!あなたが、あなたが全部悪いのよ!私は悪くない!悪くないのよ!」
やっぱり、一発殴っておこう。
私はともかく、先輩は悪くない。悪いのは、全部あんただ。全部、あんたと私なんだ。
でも、先輩は私を引き留めた。結構、強い力で。
私はそれを、抗いたくなかった。
「ね?もう、終わりにしよう」
「はい」
私と先輩は、母を置き去りに社屋に入って行った。
母は、私は悪くないと言い続けていた。
私たちはフロアを歩きながら、お互いに所属している部署に向かっていた。
そこは何故か、人気がなかった。
だからか、先輩の方から話しかけてくれた。
「ああ、でも君の本当のお父さんが誰なのかは、知る権利はあると思う」
「別にいいんです。多分ですけど、母の前の旦那さんでしょうから」
「そうなんだ」
「はい」
「ゴメン」
「何で、先輩が謝るんですか?」
「だって、君が泣いているから」
「泣いていません」
「泣いているじゃないか?」
「花粉症です」
「そうかい」
「はい、そうなんです」
やっぱり、私はダメなオンナだ。
また、こうやって先輩の胸を借りてしまっている。
どうすれば、償えるだろうか?
母娘して先輩に甘え、先輩を追い詰め、また先輩に縋って助けてもらう。
ダメな女たちだ。全然だ。
「せんぱい。ごめんなさい」
「君は悪くないよ」
先輩はゆっくり、私の頭を撫でてくれた。
私は、先輩のそんな大きな手が、大好きなんだ。
「だって、だって」
「悪いのは、すべて大人なんだよ」
「せんぱい・・・」
「君を守ってあげる事が出来なくて、悪いと思っているよ」
「せんぱいの、せいじゃないです」
「私を含め、すべての大人の責任なんだよ」
「なんですか、それ?」
「さあ?」
さっきまでと違って、先輩はいつものとぼけた顔になっていた。
先輩のいつもの昼行燈の顔に、私は救われたような気がした。
こうして、この騒動も終わったようだ。
あれから母は、私たちの前に、姿を表すことは無かったから。




