第9~10話 静かな話
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第9話 静かな毒
俺は次の村に近づいていた。
この村は街道沿いでは少し大きめで、
家が三十軒ほどあり、
井戸が二つあると聞いていた。
俺は旅の薬売りとして身なりを整え、懐に2080年から持ち込んだ小瓶を忍ばせていた。
その毒は、2080年代初頭に闇市場で手に入れたものだった。当時のトーキョーでは、人工パンデミックが繰り返される中で、
「静かな淘汰ツール」と呼ばれる合成神経毒が密かに流通していた。
V-17をはじめとするウイルスが社会を蝕む中、政府や闇企業はより効率的で痕跡の残りにくい化学兵器を開発していた。
この毒は、
CRISPR技術とナノマシンを組み合わせ、
神経系をゆっくり麻痺させながら内臓を内側から溶かすように設計されていた。
無色無臭、少量で数十人を殺せる。味もほとんどなく、水や食べ物に混ぜても気づかれにくい。
2080年の俺は、死刑囚として特別な「社会実験プログラム」に組み込まれていた頃、この毒を闇ルートから入手し、密かに保管していた。
実際に使ったことは一度だけある。地下の収容施設で、実験対象の囚人たちに混入させたことがある。
あの時の静かな絶望の広がり——人々が気づかぬうちに体を蝕まれ、苦しみながら崩れ落ちていく様子——が、俺の記憶に深く刻まれていた。
村の入り口で、俺は村人に声をかけた。
「薬を売りに来た。熱や腹痛に効く」
村人は俺を怪しみながらも、疲れた顔で中へ招き入れた。飢饉と戦の噂で、皆が敏感になっていたが、薬は欲しかったようだ。
俺は村の中をゆっくりと歩き、様子を観察した。
子供たちが裸足で走り回り、女たちが井戸で水を汲んでいる。男たちは畑や木こりに出ている者が多かった。
バケモノの噂はすでにこの村にも届いているらしく、夜は早めに戸を閉めるようになっていた。
夕方、俺は村の中央にある大きな井戸の近くで薬を配りながら、機会を待った。
夜が深まった頃、ほとんどの者が寝静まった。
俺は静かに動き出した。
まず、村の二つの井戸に毒を垂らした。
少量で十分だった。無色無臭の液体は、水面に触れるとすぐに溶け、痕跡を残さない。
次に、村の共同の貯蔵庫にある米と味噌に、別の毒を少しずつ混ぜた。朝になれば、多くの者がこれを口にするはずだ。
作業を終えた俺は、村の外れの林に戻り、木の根元に座って待った。
夜が明け、村が動き始めた。
最初に異変が起きたのは、井戸で水を汲んでいた女たちだった。
数人が水を飲んだ直後、体を震わせて倒れた。
口から泡を吹き、痙攣しながら地面を掻きむしる。
子供が泣き叫び、男たちが駆け寄るが、次々と倒れていく。
毒はゆっくりと、しかし確実に広がった。
朝食を取った者たちが、次々に苦しみ始めた。
腹を押さえ、吐き、目から血の涙を流して倒れる。
村全体が悲鳴と呻き声に包まれた。
俺は林の陰から、その光景をじっと見つめていた。
頭の奥が、微かに疼いた。
この静かな破壊。
2080年のパンデミックを思わせる、ゆっくりとした絶望の広がり。
俺はそれを、この時代に植え付けている。
血を噴き上げて即死させるより、こうしてゆっくり腐っていく姿を見る方が、俺の胸の奥を満たす。
村は半日で壊滅状態になった。
三十軒の家から、生きて動いている者は十人もいなかった。
残った者たちも、すでに体が蝕まれ、助かる見込みはない。
俺は村の中に入り、苦しみながら這いずる者たちの喉を、短刀で丁寧に掻き切っていった。
最後に残った幼い子供の首を、ゆっくりと折った。
村は静かになった。
血と吐瀉物と死の臭いが漂う中、俺は中央の井戸の縁に腰を下ろした。
満たされた。確かに満たされた。
しかし、またすぐに虚無がやってくる。疼きと共に。
バケモノの噂は、もう村を超えて広がるだろう。
俺は化け物として、この時代に深く刻み込まれていく。
それでいい。
俺は立ち上がり、村を後にした。背後には、静かに腐っていく死の集落が残っていた。
───
第9話 終
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第10話 男の血
俺は街道をさらに西へ進んでいた。
バケモノの噂は、予想以上に速く広がっていた。
旅人同士が道端で立ち話をする際、必ずと言っていいほど「あの森のバケモノ」の話題が出る。
俺はそれを聞きながら、薄く笑みを浮かべていた。頭の奥の疼きは相変わらずだったが、今、気にならなかった。
午後遅く、俺は一人の男を見つけた。
四十代前半。旅装の武士だった。
腰に大小の刀を差し、供の者はいない。
一人旅のようだ。
体格は良く、鍛えられた肩と腕が着物の上からでもはっきりわかった。
顔には幾つかの古い刀傷があり、相当な戦歴を持つ男だと直感した。
目つきも鋭く、油断のない動きをしていた。
俺は距離を詰め、疲れた様子を装って声をかけた。
「道中、お一人ですか。少し先までご一緒しても?」
武士は俺を鋭く見つめた。
数秒の沈黙の後、軽く頷いた。
「……構わん」
俺たちは並んで歩き始めた。武士は寡黙だったが、時折この辺りの治安の悪さを呟いた。
「最近、妙な噂が多い」と。
彼は俺を警戒しつつも、完全に油断していたわけではなかった。
時々、俺の動きを横目で確認しているのがわかった。
日が傾きかけた頃、俺はいつものように森へ誘った。
「少し休みましょう。水場がある」
武士は少し眉を寄せたが、喉の渇きに負けたのか、ついてきた。
森の奥に入った瞬間、俺は背後から短刀を抜いた。
武士の反応は予想以上に速かった。
俺が飛びかかるより一瞬早く、身を低く翻して刀の柄に手をかけた。
俺の短刀が彼の右腕に深く突き刺さったが、武士は歯を食いしばって耐え、左肘で俺の顔面を強打してきた。
ゴツッという鈍い音が響き、俺の唇が裂けた。
血の味が口内に広がる。
その瞬間、俺の興奮が一気に高まった。
唇から滴る自分の血が、俺をさらに駆り立てた。
俺は短刀を抜かずに武士の腕を抉りながら、体を密着させた。武士は低いうめき声を上げ、俺の腹に膝を叩き込んだ。
激しい痛みが走るが、俺は離れなかった。短刀をさらに深く押し込み、横に大きく引き裂いた。
熱い血が噴き出し、俺の胸と腹を濡らす。武士の腸の一部がわずかに覗いたが、彼はまだ倒れなかった。
「ぐっ……この……化け物…!」
武士が初めて声を上げ、左手で俺の首を掴もうとした。
力は強かった。俺の首が絞められ、息が苦しくなる。
俺は短刀を彼の脇腹に再び突き刺し、刃を回転させた。
肉と臓器が抉られる感触が手に伝わる。
武士の顔が苦痛で歪み、口から血の混じった唾が飛んだ。
それでも彼は倒れなかった。
武士は必死に俺を引き剥がそうとし、地面に転がりながら抵抗した。
俺は馬乗りになり、短刀を胸に何度も叩き込んだ。
一突きごとに肋骨が軋み、刃が肺に達する感触。
武士の目が血走り、俺を睨みつけたまま、喉の奥から獣のようなうめき声を漏らし続けた。
体が激しく痙攣し、地面を両手で掻きむしる音が森に響いた。
指先が土に深く食い込み、血で真っ赤になっていく。
俺は武士の首に左手をかけ、力を込めた。武士の顔が赤紫色に変わり、目が飛び出さんばかりに腫れ上がった。
最後に彼の体が大きく跳ね、長い吐息と共に動きが止まった。
俺は武士の死体の上に跨がったまま、荒い息を吐いた。
「これでご一緒じゃなくなったな」
唇から滴る血を舌で舐め取った。鉄の味と、武士の血の味が混じり合う。
この感覚が、俺の胸の奥を熱く満たした。
男の血は、女子供のそれとは明らかに違っていた。
より濃く、粘り気があり、生命力の強さを感じさせた。
頭の奥が、再び疼いた。この疼きは頻繁になっていた。
俺は武士の死体を調べ、懐にあった金と短刀を奪った。
死体は深い茂みに隠し、血の跡をできるだけ消した。しかし完全に消すことはできなかった。
地面に残った大量の血と、武士の苦悶の跡は、誰かが来ればすぐに気づかれるだろう。
この武士は、どこかの有力な家臣だったのかもしれない。
もし生き残りの者がいれば、話は大きくなる。
バケモノの噂は、もう単なる村の怪談ではなくなりつつあった。
俺は血まみれの服を川で洗いながら、静かに考えていた。
この時代にも、俺は絶望を植え付け続けている。
もっと、もっと深く。
───
第10話 終
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