21、ヤエの日常
テレジアとヒナタが森の巡回をしている間。
朝と昼の隙間の少しの時間。
それはヤエだけの時間。
ヤエだけのスローライフ。
この時間、柔らかい朝の陽光が狸のしっぽ亭に差し込んでくる。
その優しい光はカウンターまで届き、中に立つヤエはゆったりとそれに包まれながら、外からの音を聞く。
鳥の囀り、木々のざわめき、風の囁き。
深く、息を吸って、まぶたを閉じ、それらを聴く。
閉じたまぶたの下からでも見える陽光の暖かい光を感じながら。
フーッと息を吐き出して、ヤエは目を開いた。
そうしてから背後を振り返り異世界冷蔵庫を開ける。
よどみなくその中に置かれているコーヒー豆の袋を取り出し口を開け、計量カップに豆をすくい、地球儀みたいなコーヒーミルの上蓋を開け、その中に入れていく。
ミルの中に転がり込む豆のゴロゴロという音と一緒にかすかにローストされたコーヒーの香りがして、これを挽いた時にやってくる幸福を思って少しヤエの胸は躍った。
コーヒーミルやカフェに必要な道具はすべて元々狸のしっぽ亭にあった。
ヤエはスローライフの中でカフェもやりたいと願っていて。
これらはその備品として有ったものだ。
ドリッパーやペーパーフィルターはヤエの能力でも作れるが、流石にミルの金属部分の形や仕組みがどうなっているかわからないし、作れるかはわからないところなので、これを見つけた時はテレジアにとても感謝した。
もう一度、テレジアに感謝しながら、コーヒーミルの上についたハンドルをゆっくりと回す。
手に少しだけの抵抗を感じるけれど、すぐにハンドルは回って、ゴリゴリとした小気味の良い音を立てる。それに合わせるようにして、ぶわりと広がったコーヒーの良い薫りが、ヤエの五感を刺激する。
受肉して良かったと思える瞬間だ。
今日も朝がやってきたと実感する。
そうしているうちに、コンロにかけていた銅製のドリップケトルがシュンシュンと鳴いて、その蓋がケタケタと笑う。ヤエは火を止めて、ケトルの隣で予熱のために温かい湯に浸かっていた磁器製のドリッパーを取り出す。
「あちち」
木でできた体だけれど熱いものは熱い。
急いでドリッパーをガラス製サーバーの上に置いた。コトンと音がする。
手際よく少し折り目をつけたペーパーフィルターをドリッパーの中に広げて、沸いたばかりの湯で軽く湯通しして紙の匂いを抜く。サーバーに落ちた湯を捨てるのにドリッパーを持ち上げるとまだ熱い。急いでお湯を捨ててドリッパーとサーバーを元に戻してミルの引き出しに落ちた挽いた豆をドリッパーの中に入れて、そこへと銅製のケトルから少し湯を注ぐ。
花開いて薫る。
それを逃さないように鼻から息を思い切り吸い込んで独り占めしながら、ドリッパーの中を見ると、豆が湯を吸ってふっくらと膨らむのがわかる。その美しい姿をみながら豆が十分に蒸れるのを待って、そこへとゆったりとした速度で、ひらがなの「の」の字を書くように湯を注ぐ。
そこから湯を数度に分けて注ぎ入れて。
やっと一杯分のコーヒーが完成した。
「前世ではこんな時間をかけてコーヒーを淹れるなんて考えられなかったわね」
サーバーから陶器製のコーヒーカップにコーヒーを注ぎながらヤエはひとりごちる。
少しコーヒーの温度が下がるのを待つ間に、ミルやドリッパーをささっと片付けてから、コーヒーカップを手に持ってテラスに出る。
そのまま席について淹れたてのコーヒーを口に含むと、ふくよかなコーヒーの香りと味がやってきて、一瞬でヤエに幸せを与える。
「おいしい」
苦味と酸味のバランスがちょうどよく。
ブラックだというのに甘みすら感じさせる。
コーヒーカップの中に揺蕩う表面にあるほんの少しの油分が陽の光にきらめいていて、黒い宝石みたいだとヤエは思う。
「こんなに美しくて美味しい飲み物を飲めないテレジアさんとヒナタは不幸だわ」
ヒナタは一歳なのでもちろん飲めないし、テレジアは狸なのでコーヒーを飲もうとはしない。
この味を独占しているのは少し罪な気さえする美味しさだ。
安堵と覚醒の両端を与えてくれる。
ふたたびコーヒーカップに口をつける。
「うん、やっぱり美味しい。将来的にはこの森をある程度人間に開いて、狸のしっぽ亭を本格的にカフェとして運用するのも良いかもね。そうすればこの世界の人たちとの交流も生まれるし」
ヒナタのためには。
自分たち以外の存在と触れ合う場が必要だとヤエは考えていた。
「でも一般に解放しちゃったら、この味だもの、きっと混んじゃうわよねー。それはスローライフじゃないし。難しいわねー。ま、今度テレジアさんに相談してみましょう」
そう言ってヤエはとりあえず問題を棚上げし。
自分の淹れた美味しいコーヒーを飲みつつ、可愛い娘と愛らしい友人の帰りをゆっくりと待つのだった。
スローライフに悩みは似合わない。




