15、それはマジックワード
森にはお天気雨が降っていて。
草木の上に落ちた雨の雫が楽しそうに光と踊っている姿がテラスから見える。
ヤエは椅子に軽く腰掛けながら。
そんな美しい風景を見ることなく見ている。
その横、テーブルの上にはいつものようにテレジアが丸くなっていた。
ヒナタはといえば。
丸くなったテレジアの腹肉の柔らかい所を背もたれにして。
テーブルの上に一人で座っていた。
「アアイ」
しっかりと座りながら。
美しい雨と光のダンスを見てご機嫌に声をあげている。
最近のヒナタはずりばいで移動できるようになって。
身体もしっかりしてきたのか。
支えがなくてもひとりで座っていられるまでに成長していた。
森の風を感じられるこの場所がヒナタのお気に入りの場所だ。
ここ最近はほぼ毎日、日課のようにここでずっと森を見ている。
雨が降っていなければ、柔らかい草が茂った中庭を散歩したりもする。
このように自由に移動できるようにはなったが。
ヒナタは決して狸のしっぽ亭の敷地からは出て行こうとはしない。
どこまで行っても森である限りはヤエの中なので危険はないのだけれど。
ヤエから離れないのは勇者の本能のようなものかもしれないとヤエは考えていた。
ずりばいなどの行動が、生後五ヶ月程度の乳児の行動として、早いのか遅いのかはヤエにはよくわからない。
そもそも前世の人間と今世の人間が同じ成長速度なのかもよくわからないのだから判断しようもない。
ただなんとなく親の欲目に似た感情から。
ヤエはヒナタの成長は早いように感じている。
「ヒナタもまあ、よく飽きもせずに森を見続けてますねえ」
「そうね、森が好きみたい」
「森そのものであるヤエさんが言うと、随分うぬぼれた発言に聞こえますよう?」
「待って! そういう意味じゃないわよ!?」
「ふふ、冗談ですよう。まあ、どっちにしてもヒナタはヤエさんのことが好きでしょう?」
「そう、かしらね? そうだといいけど……」
この子はヤエを殺すために世界が生み出した子供だ。
ヤエはこの子に好かれるかどうか不安を感じている。愛おしさが大きい分、不安もまた大きい。
「ヤエさん、多分、大丈夫ですよう」
そんなヤエの不安をテレジアは理解している。
「女神に保証してもらえれば安心ね」
「ヤエさんはヒナタのママなんですから。ねえ、そうでしょうヒナタ?」
テレジアの問いかけに一瞬不思議な顔をしてから。
ヒナタはニコニコ笑顔で口を開く。
「アーイ。ヤーママ」
「ほら、ヒナタもそう言ってま……え? は?」
「テテテ!? テレジアさん? 今、ヒナタ、ヤエママって言わなかった?」
「いい、言いましたよね? 聞きましたよね?」
ヤエとテレジアは顔を見合わせてからヒナタを見る。
急に注目されたヒナタはそんな視線などお構いなし。
変わらずニコニコと笑っている。
ヤエはそんなヒナタを抱き上げた。
「ヒナタ? もう一度、ヤエママって言ってみて?」
腕の中で楽しそうにしているヒナタに問いかける。
「アーイ」
ヤエに抱かれて嬉しいのかキャッキャと笑っている。
「ほらヤエママよ? 言ってみて、ヤエママ」
「ヤーママ?」
急に真剣な顔をしだしたヤエに戸惑いながら。
ヒナタは言われた言葉を繰り返す。
「言った」
「言いましたねえ」
「ヤエママ、ですって」
ヒナタの一言に。
ヤエの胸の中はよくわからない温かい感情でいっぱいになった。
思わず腕の中のヒナタをぎゅうと抱きしめる。
ふわふわな髪の毛が生えた頭に頬を擦り寄せる。
乳児の芳醇な香りが鼻をくすぐる。
不思議なことに、より胸の温かみが増したように感じる。
「キャアイ、ヤーママ」
その言葉がヤエを喜ばせると知ったのか。
ヒナタはニコニコ笑いながらヤエに手を伸ばす。
柔らかい小さな手がヤエの顎に触れる。
これが幸せかと小さく噛み締めた。
さっきまでの不安はヒナタの光を受けて一瞬で蒸散していた。
「ヤエさん! うらやましいですよう!」
満足しているヤエの横から、テレジアの非難の声が上がった。
ヒナタを抱いたままヤエがそちらを見れば。
テーブルの上ではテレジアが憤慨していた。
珍しく立ち上がっているから、かなり本気で羨ましがっているのがわかる。
前世で立ち上がるレッサーパンダはいたが、こちらの世界では狸も立ち上がるんだなと。
ヤエは変に感心してしまった。
とはいえ、ヤエもテレジアの気持ちはとてもわかる。
逆だったらヤエもすごく羨ましく感じるだろうと思った。
テレジアだってヒナタをとても可愛がっている。
狸の身に転生した都合上、ミルクを与えることができないからヤエに遅れをとっているが、ずりばいで庭を散歩させる時には必ずそばに寄り添っている。
森の狼に食わせようと提案した女神と同じとはとても思えないほどだった。
ヤエは両脇を持つ形にヒナタを持ち替えて、憤慨するテレジアの前に差し出した。
「ほら、ヒナタ。テレママだよ。テレママって呼んであげると、きっと喜ぶわよ」
「アアイ?」
ヤエに持たれた状態で、ヒナタは不思議そうな顔でヤエを振り返る。
「私に言ってくれたみたいにテレママを呼んであげるの。わかる? すごく喜ぶわ」
「テー?」
「そう、テレママよ」
「アーイ」
わかったのかわかっていないのか。
ヒナタはヤエからテレジアに向き直る。
「ヒナタ、わかりますか? テレママですよう?」
鼻先をヒナタのお腹にぷにっと押しつける。
「キャアイ」
それがくすぐったかったのか、キャアキャアとヒナタは笑った。
無邪気な笑いにテレジアの怒りや焦りは一瞬で溶かされた。
立ち上がっていた姿勢からストンと足を落として。
狸スタンダードな四足立ちに変わった。
「まあ、ゆっくりでいいでしょう。成長したらテレママと呼んでください」
鼻先を持ち上げるようにしてヒナタを見上げながら言う。
どうやらテレジアはヒナタの成長を待つことにしたらしい。
そんなテレジアの頭をヒナタが撫でる。
「良いナデナデですねえ。女神も満足ですよう」
「アーイ、テーママ! キャアーイ!」
ヒナタの言葉にテレジアは目を見開いた。
明らかにテレジアをママと呼んだ。
「ヒナタ……あなたはお利口さんですねえ。こんなにも女神を喜ばせた人間はいませんよう」
「ンキャア」
「テレジアさん、よかったですね」
「ヤエさん、これすごいわね」
「ええ」
森と女神は深い喜びを共有してうなずきあった。
ヒナタの言葉はまるで魔法の言葉のように。
ヤエとテレジアの心をやさしくあたためるのだった。




