dix-neuf
「この判例どういうこと?両親を亡くした十歳の子供に、血の繋がらない叔父や叔母が権利を主張してきたって。何がどうなったらこれが叔父や叔母の遺産相続が認められる事例になるの?」
眉間に皺を寄せ、判例集にぶつぶつ呟きかけるマリーを見て、セザルが笑った。
二人は大学の三年生になっていた。
国家司法試験の受験勉強に余念がない時期、二人は共闘して試験の準備をしていた。
マリーたちはメメント・モリの写本の翻訳をずっと続けている。
初めての発表の折、ラテン語の先生は興味深そうに写本の存在とフォール家の由来、翻訳に目を通し、「これは貴重な資料だから、四年かけてすべて明らかにしなさい」と言った。
「こういう古い資料がお宅にある家柄とはね。内容も歴史に合うし、数年に一度、記録が綴られているから、当時の慣習や考え方を通時的に見ることができる。不思議なリアリティをもつお伽話だ。何か重要なことを伝えたかったのだと、伝わってくる」
柔軟で見識の深さを窺わせる先生のコメントに、発表のメンバーは感じ入り、四年間のラテン語の学習ですべて翻訳してみせると宣言した。
ラテン語の授業のチームは未だに仲が良い。共に勉強した以上に、共通の不思議な体験を持ったことが四人の結びつきを特別なものにしているといえる。
そんな中、ラテン語の授業と並行して、法学部のマリーとセザルは国家資格を取得する準備をしなければならなかった。
「君はいつも感情的だ。もう少し事実だけを重視して判例を見ていくのも大切だと思うよ」
「それでも、これは実際にあったことなのよ。事実を重視するとすれば、判例に登場する人たちの思いも考えなくてはならないって、そう思うわ」
真面目に答えたのに、何故だかセザルはくつくつと笑う。
「君はいい弁護士になるだろうね」
「それってどういうこと?」
「よく依頼主のことを考えてくれそうだ」
マリーは目をぱちくりさせ、「そうありたいものね」と肩を竦めてみせた。
凛々しい顔立ちのセザルだが、こういうときに笑うと、目尻に皺が寄って急に人懐こい印象になる。
最近よくこういう顔をするな。
大学一年生の頃から、同じ授業を取って、教え合ったり、ノートを見せ合ったりしていたが、近頃試験勉強をすることが多くて一緒にいる時間も長くなった。
二人きりで一緒にいる時間が多くなった理由は、試験勉強以外にもあるのだが。
「今頃、あいつらデートかな」
ほおづえをついて、セザルがカフェ『冒険者』の窓の外の通りを眺める。
休日らしく、家族や友人同士、恋人たちが腕を組んで楽しそうに歩いている。
マリーはセザルに頷いてみせ、同じく窓の外に目を移した。
「きっと博物館よ」
「ははっ」
堪え切れず、セザルが声を出して笑った。
ラテン語授業の翻訳のメンバー、エロイーズとトリスタンは、一年前にめでたく恋人同士になっていた。
美女と歴史オタクの取り合わせに、ラテン語授業を取っている他の学生たちはどよめいていたが、セザルに言わせれば「思ったより時間かかったな」というものだった。
何しろ、大学一年生の頃からエロイーズはトリスタンに片思いしていたし、二人の仲も良かった。共同作業をする友人同士、というスタンスからどうしても一歩が踏み出せなくて、ぐずぐず微妙な関係が続き、ようやくエロイーズが告白する形でカップルが成立したのだ。
二人は案外趣味が合うので、休日には博物館巡りをしているという。
仲が良い二人を、マリーは応援している。
「トリスタンだと博物館の資料を鑑定し始めるかもしれないな」
「間違いとか発見したりして」
「ああ、ありそう」
「ああ見えて頑固だものね」
セザルと目が合う。
からん。
レモネードに浮く氷が、音を立てた。
最近こういうことも多いかも。
マリーは不思議に思う。
楽しく話しているところで、ふとした瞬間に、セザルと目が合い、無言になってしまう。居心地が悪いわけではないのだが、なんだか妙にこの瞬間がこそばゆい。
気を取り直して、マリーは休憩を切り上げて、判例に向かおうとした。
「さて、勉強しないと」
「なあ、マリー」
セザルが意を決したように口を開いた。
「俺らって、何なのかな」
マリーはその瞬間、言葉を失ったが、すぐに笑って言った。
「何って、友達よ」
そうか、とセザルは少し寂しそうに微笑み、試験問題に向き直った。
判例集に目を落して、平静を装ったものの、マリーはどぎまぎしていた。
いつもカウンター奥で書き物をしている店長の目線をなんとなく感じる。
判例がまったく頭に入って来ない。
まさか。まさか。
「まさか今までまったく気付いていなかったの?」
宇宙人を見るような目をしてエロイーズが言った。
ランチの時間帯の大学の食堂は、多くの学生の喋り声で満たされている。目の前にいるエロイーズの声でさえ聞き取りにくい、が、彼女の表情から汲み取れるニュアンスは分かり過ぎるほどだった。
マリーは身を竦めて、「やっぱりそうだったんだ・・・」と下を向いた。
エロイーズは溜め息をついた。
「まあ、でもそうよね。マリーだものね」
「・・・いつから?」
「初めてラテン語の授業で自己紹介したときから」
「ええ!うそ!!そんなに前から」
セザルは私のことを好きだったんだ。
思わず大きな声を出しかけて、慌てて飲みこんだ。
動揺していた。セザルの言葉と態度がどうしても気になって、マリーはセザルと別れて下宿に帰った後、エロイーズに電話して翌日のランチの時間に相談したいと約束を取り付けた。
デート帰りでトリスタンからの電話を待っていたエロイーズはがっかりしたようだったが、マリーのいつになく落ち着かない様子に何かあったと察してくれたらしい。ランチの時間に会うことに応じてくれた。
セザルの言動に、自分との関係をほのめかすものがあって、マリーは困惑していた。
今までまったくそんなことに思いもよらなかった。
「頭はいいけど察しは悪い」
ビシッとエロイーズは言う。
「マリーの悪いところ」
う、と怯んだマリーに、エロイーズはふっと表情を緩ませた。
「仕方ないとは思うけど。メメント・モリのことがあるから、他の人なんて考えも及ばなかったんでしょう?」
図星を突かれてマリーは黙り込んだ。
失恋の痛手と、メメント・モリを諦めた傷。大分前のことだし、割り切っているから、今はさほどその痛みを思い出すことはない。
だが、まだ引きずってはいる。
実家に帰ったときに自室でお喋りをするのは変わらない。前より静かに独り言を言うようになったけれど、しかし確実に彼が聞いていると確信を持っている。
眠る前に思い浮かべてしまうこともある。
依然、彼は甘やかなマリーの恋人だった。
むしゃむしゃと野菜サラダを頬張ってマリーを観察していたエロイーズは、微笑んだ。
「少しはセザルのことを気になっているんじゃない?」
「私の中からメメ様が消えたりはしないわ」
「・・・それはまた、重たい」
エロイーズは呆れたように肩を竦めた。
物思いに沈んで、マリーはぽつぽつと話した。
「生れたときから傍にいてくれたのよ。諦めたって・・・この気持ちや、彼の存在がどうにかなるわけではないわ。セザルは友達だし、とてもいい人だと思うけど、彼がそういう気持ちなのに、私の方がそんな気持ちじゃ、悪くない?」
マリー。君を愛すれば愛するほど、私は君といられない。
メメント・モリが絞り出すような静かな声で言った言葉が、今でも生々しく、切なく思い出され、ほんのり胸に熱を灯す。
そんな思いを大切にし、穏やかでいたいのに、セザルの想いを知ってしまった今、胸がざわついて仕方がない。
入り込んでくる何かを拒むかのような心地。
エロイーズは表情を曇らせるマリーをしげしげと眺め、意外なことを言った。
「なんだ、マリーはセザルの気持ちを受け容れたいって思いもあるんだ?」
マリーは灰色の瞳を瞬かせた。
「え?」
「だって、そうじゃない。セザルの想いを知って、マリーはメメント・モリに思いが残っていることをにモヤモヤしているんでしょ?セザルの想いを受け容れるのに、それは相応しくないんじゃないかって、罪悪感があるんじゃないの?」
「違う」
思わず否定してしまったが、マリーの心臓は早鐘のように鳴っていた。
愕然としてエロイーズの言ったことを反芻する。まさか、自分はメメント・モリ以外の人物に、好意を覚え始めている?セザルは友達だと思っていたのに。
混乱して黙り込んでしまったマリーをエロイーズは「まあまあ」と宥めた。
「初恋の人は忘れられないものよ。例え失恋したって」
困ったようにマリーはエロイーズを見る。
「ほんとう?エロイーズもそう?」
「うん。失恋したとき、世界の終りだーってくらいショックで塞ぎ込んだけど、でも、今はお陰様で彼氏と仲良くやっているわよ」
ひらひらと手を振ってエロイーズがおどけてみせる。マリーもトリスタンを思い出して微笑んだ。
「マリーの場合・・・全然、私には想像つかない。メメント・モリがどういう人だったのか。小さい頃からずっと保護者のように愛してくれて、愛してきた人なんて、いないもの。でも、昔好きになった人って、よっぽど嫌な奴だったわけじゃない限り、思い出とか記憶とかに思慕が残るものよ。そんな思慕を抱いたまま、誰かを好きになったって、おかしくないし、メメント・モリも怒ったりしないと思うわよ」
「うーん、怒らないだろうけど。セザルのことは友達として好きよ?でも恋なのか分からない」
「そんな感じでいいんじゃないかしら。応えたいって気持ちがあるなら。セザルはあまり気にしないと思うわよ」
「え」
「見込みもなさそうなのに友達でいいからって一緒にいて、三年もしつこくマリーのことを好きなんだから、マリーに応えたい気持ちが芽生えただけでも上出来なんじゃないの。メメント・モリのことを知ったって、セザルの気持ちは変わらなかったのよ。よく考えて、そんな人、いないわよ。ばっさりざっくり失恋の剣に真っ二つにされておいて、マリーは自分に当分目を向けることはないだろうけど、それでもいいから傍にいたいって、今までやってきたんだから」
マリーは唖然とした。
「それ、本人が言っていたの?」
エロイーズは悪戯っぽく口の端を上げて言った。
「私とセザル、ずっと恋愛相談していたのよ。煮え切らない関係はどっちなのよ、って感じ」
昔メメント・モリが見せてくれた水時計を思い出した。
水で満たされた容れ物を上下逆さまにすると、色のついた液体が下に巡っていく。
水より重い色つきの液体は、塊になって落ちていく。時に分離したり、融合したり、液体の流動性ある柔軟さを見せながら様々に形を変化させ、水時計の下のスペースに溜まっていく。
水時計をひっくり返したときのように目まぐるしく、マリーの頭の中で思考が展開されていた。
気持ちの整理も、昨日今日知ったことの考察も、追いつかない。
メメ様
こんなとき、つい心の中で助けを求めてしまう。
そんなこんなですっかり思考を引っ張られてしまっていたから、結果的にぼんやりしていたらしい。
ぼんやりしていても体はいつもの講義室に向かい、前から二列目の座席という定位置に着席する。
だが、同じ授業を取っている人物がやってくることを、すっかり忘れていた。
「マリー?どこを見ているの?大丈夫か」
隣にセザルが座っているのに気が付いて思わずぎょっとしてしまった。
「ななななな、なんでもないの」
明らかに挙動不審なマリーに、怪訝そうにセザルを片眉を上げる。
「何かあったのか?」
「本当に、大丈夫。ああ、これ論文のコピー!参考になるよ」
「ああ、ありがとう」
と、論文のコピーを渡すマリーの手がセザルの手に触れて、マリーは思わず勢いよく手を引いてしまった。
やってしまった。
過剰反応しすぎ、とマリーは気まずい思いで黙り込む。
これにはセザルも驚いた顔をして、眉間を曇らせた。
「俺、何かしたかな」
「違うの」
これ以上何も突っ込まないで、とマリーが身を縮めて居た堪れない思いだったが。
セザルは一瞬逡巡した後、はっとしてマリーを見た。
「もしかして昨日、俺が言ったことを気にしているのか」
セザルの察しが良すぎる。
思わず、マリーは席を立って、他の受講生が見ているのも構わず講義室から駆け出していた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
途方に暮れて、マリーは講義室に向かう学生に逆行するように大学構内を走った。
どこに向かっているのか、自分でも分からなかった。
メメント・モリがマリーの人生にいないことすら、なかなか受け止めることができなかった。マリーの一番傍にいる男の人は、ずっとメメント・モリだと思っていたからだ。それ以外に有り得なかった。
セザルの気持ちを勘付いたとき、何故か急にセザルの存在が自分の人生に入り込んだ気がした。
今まで、マリーはセザルと同じ目線で生きていなかったのかもしれない。
少なくとも、仲良くし、親しいとしても、この先も共にいる想像ができる相手ではなかった。
怖い。
セザルはマリーがいい弁護士になると言ってくれたが、マリーはフォール家と町のために生きると決めていた。
メメント・モリの守護を信じながら、屋敷の人に囲まれ、一人で切り盛りする。
だが、その想像は、思わぬ影響で、変化しようとしている。
ぽつりと冷たい雫が顔に当たって、マリーは足を止めた。
気が付けば大学を出て、街の入り組んだ道を歩いていた。石畳が次々に水玉模様に埋もれていく。
見上げると空は薄っすら曇っていて、弱いが確実に街を濡らす雨がしとしとと降り始めていた。
マリーは足早に歩いて、カフェ『冒険者』に向かった。無意識に、そちらに足が向いていたらしい。
『冒険者』は開いていなかった。窓のカーテンは閉められて、中は無人らしかった。
お昼の後の時間帯にカフェを開けないなんて。店長はやっぱり変わり者だわ。
マリーはカフェの扉の前にある庇の下で雨宿りした。急な雨に道行く人もまばらで、マリーは雨の中の孤独に浸った。
何も持たないで飛び出して来てしまった。これから授業だったのに、荷物をまるごと残したままでセザルは困るだろう。あらぬ注目も浴びてしまったかもしれない。
どうしてセザルなのだろう。マリーは思いを巡らした。例えばトリスタンだったら、想いを寄せられたとしてそこまで動揺しない気がした。エロイーズの恋人だということを抜きにしても、マリーの中でセザルとトリスタンだと自分との関係がそれぞれ異なるように思えた。
それなりに、今まで一緒に協力してトップの成績を取り続けてきた仲間だ。ラテン語だけならず、法学部の授業もほとんど一緒に取って、互いに切磋琢磨し合う。
だが、よく考えたらセザルには法学部にそれなりに友人はいるし、その中にも成績のいい人はいる。何故マリーなのだろう。そしてマリーにしても他の受講生と話さないわけではないし、それなりに親しい人はいるが、気が付いたらいつもセザルと共にいた。
今更ながらマリーは自分とセザルが異様なほど一緒にいたことに気付く。そして、それがマリーにとって、当たり前のようなものになっていたと。
メメ様。
死人のような白い肌の、黒髪の青年を思い出す。
心の中で呼びかけるだけで、お守りのように、マリーを落ち着かせる。
彼は当たり前のように、死より側にいてくれる存在だった。
今のマリーは、彼がいたから形作られた。それだけは揺るぎない。
「いた」
それでも、マリーの目の前に、もう彼は現れない。
傘を手に、自分の荷物とマリーの荷物を持ったセザルが緊張した面持ちで立っていた。
自分を探しに来たのは分かっているのに、マリーはついつい理性的な反応をしてしまった。
「授業は」
「・・・はあ、なんだか、気が回るんだか抜けているんだか。後でノート取らせてくれって頼んでおいた」
傘を畳んで、セザルはマリーの隣に並んだ。
荷物を受け取って、マリーはなんとなく雨の降る通りを眺めた。セザルも暫く話をしなかった。
レインコートを被って駆けて行く男を見送ったところで、セザルが口を開いた。
「マリーはメメント・モリ以外には興味がない。そう思っていたし、それでもいいからってずるい思いを抱いて、一緒にいようとしていた。・・・だけど、今は期待してしまっている」
マリーは自然と微笑んでいた。
隣を見上げるとセザルがマリーを見下ろしていた。マリーは真新しいことに気付いたかのように、セザルの瞳を見つめた。
まるで晴れ渡っているときのスカイブルーだ。
「ねえ、確かにセザルの言う通りかもしれない。私はメメ様しか見ていなかった。でも、今はセザルとの関係を、私も期待してしまっているの」
目を見開いたセザルは、嬉しそうな笑顔になって、隣にいるマリーの手を握った。
恋人としては、不思議な出だしだったかも知れない。
まだ引きずっている状態で、手を取り合った。セザルも、マリーも、それはお互い分かっていた。
だが、マリーの中に、確実にセザルと共に生きる選択肢が見いだされた瞬間だった。




