dix-sept
私の何がいけなかったの?
どうしても、私じゃあなたの傍にいられないの?
悲しみと疑問符でいっぱいになった頭を抱えて、マリーが床に就いたのは真夜中だった。
言いたいことがたくさんあるという顔のフローレンスや、おろおろした様子の使用人たちは、涙を止めることのできないマリーを問い詰めるのを諦めたらしく、「とにかく休んで」とマリーを自室に誘導した。
やっぱり駄目だったのだ。
されるがままになったマリーは、ひどい空虚感に襲われた。
自分は、メメント・モリから求められていない。
セザルからメメント・モリの言葉を聞いて、マリーはそう納得せざるを得なかった。
呆然としている間に、メイドにドレスや装身具を次々に取られて、寝巻に着替えさせられていた。
水を飲まされ、ベッドに横になっても、涙は流れ出て止まらなかった。
天蓋の暗闇を見つめ、メメント・モリのいる地下の舞踏会場の闇を連想する。
このまま二度と会えないと、メメント・モリの顔まで忘れてしまいそう。
それが堪らず悲しいことに思えた。
目を閉じると、まざまざと思い出すのに。
メメント・モリに抱かれて、絵本を読んでもらったこと。
悪漢から助けてもらったこと。
とりとめもない話を聞いてもらったこと。
怖い記憶から逃れるように、マリーを抱いて走ってくれたこと。
我が儘なマリーを諭してもらったこと。
教えてもらった錬金術の歴史や、読書の楽しみ。
黒い髪を添わせた、蝋のように白い頬の削げた顔。冷たくも、優しい灰色の瞳と、静かな声。温かな手。
死を見つめる深い慈愛に、いつの間にか溺れていた。
深い闇へと飛び込んでいきたくなるくらいに。
「メメ様・・・」
なのに、メメント・モリの愛はマリーが得られないものなのだ。
閉じた瞼の際に涙が滲む。心配されているのに、優しくされているのに、友達も助けに来てくれたのに、みじめで悲しい思いは消えそうになかった。
メメント・モリに愛してもらえない自分など、どうでもいい。
そうとさえ思えた。
瞼の裏に広がる闇の中を、マリーは歩いていた。
地下へと結ぶ通路だ。そうだ、メメント・モリへと通じる道を見つけたんだった。
裸足のままマリーは足を急がせる。
やがて辿り着く場所は、地下の舞踏会場。
マリーはそこでメメント・モリの姿を一度も見たことがないはずだった。
だが、そこには、奇妙で美しい器具や品物に囲まれて、机に一人向かうメメント・モリの細くて黒い背中姿があった。
鷲の羽ペンを使って何か書き物をしている彼は、ふと手をとめて天井を見上げる。つられてマリーも見上げると、高い天井はガラス張りになっていて、その向こうの夜空に白い満月がぽっかりと浮かんでいた。
あんなのあったかしら。
見上げるメメント・モリの白い輪郭に目を移す。いつも無表情の彼の顔が、どこか寂しげに見えた。
立ち尽くしているマリーに、遠く闇の奥底から響いてくるような、静かな声が語りかけた。
「マリー。死はすぐそこにある」
マリーが見ているメメント・モリは、空を見上げたまま、口元は動いていない。
きょろきょろと周囲を見回すと、いつのまにかマリーは四方八方真っ暗な空間に立っている。
視界に入ったのは、少し遠くに、真っ黒な服装の男が、俯くようにして立っている姿だ。
「死は悲しく、痛みを伴う。陰惨にして、悲惨なこともある。積り重なる、永遠に終わらない、人々の歯車、死、死、死。私はそれをひとつずつ、見守り、世界の歯車が錆びず、永遠に鮮やかなる生を賜ることを祈っている。・・・祈っていた。」
吹けば消えてしまいそうな微かな声だったものが、はっきりと聞こえてきた。
男が顔を上げた。
「マリー。私はそんな世界に生きている。時の流転と、数多の闇より深い死の世界、陰惨・悲惨・悲劇・怨恨・腐敗・・・私はマリーを、そんなところに引き込むわけにはいかないのだ」
さらりと黒髪を頬に添わせて、灰色の瞳をこちらに向けるのは、マリーが会いたくてたまらなかった人だ。
マリーはただ涙を流した。飛び出していきたいというよりも、ただ会えて切ない気持ちが溢れて仕方なかった。
会いたくて、たまらなかった。それなのに会ってくれなかった。
悲しみで、胸が潰れそうだ。恋しさと嬉しさに、壊れそうなほどの悲しさが混ざって、マリーの心境は複雑だった。
それとも、これは夢の中なのだろうか。
闇の空間に、マリーとメメント・モリは二人きりで対面していた。真っ暗なはずなのに、お互いの姿はくっきりと目に見える。どう考えても普通の状況ではなかった。
自分の恋しさが見せる夢なのだろうか。
これまで、夢の中にさえ、メメント・モリは滅多に出てきてくれなかったというのに。
メメント・モリは記憶通りの姿だったが、記憶の中よりも穏やかで、優しげにみえた。
冷たい灰色の瞳を細め、白い顔が、ふっと緩んだ。
「綺麗になった、マリー」
マリーは目を見張った。
「見ていた。ドレスも似合っていた」
夢がマリーにこんなことを言うのだろうか。
「メメ様」
また甘えても、いいのだろうか。
しゃくりあげるようにして、マリーは叫んだ。
「会いたかった・・・!」
駆け出して、抱きついたメメント・モリには、感触があった。
少女のときに抱きついたときとは違って、背伸びをしなくともメメント・モリの首に腕を回すことができた。
はっとして、マリーはメメント・モリから少し離れ、まじまじと近くで見つめた。
ぬくもりは記憶のままだ。
「本物なの・・・?夢じゃないの?」
「いや、夢だ」
灰色の瞳が、近くでマリーを見下ろす。
「『夢中邂逅装置』という」
首から下げている銀の一本の針しかない、奇妙な文字盤の銀時計を指差す。
「使用者が眠って見ている夢に出てきた人物が、使用者の夢を見ている場合にのみ使える。つまり二人の人間が互いに夢の中に出てきている場合だ。使用者の眠りの時間を制限時間として会える。まあ、二人の人間が同時に互いの夢の中に出てくる確率はひどく低いので、会えるかどうかは一か八かだった」
目をぱちくりさせているマリーの頬に、メメント・モリはそっと指を這わせた。
「マリー、どうか泣かないでくれ」
ドキリとして見上げるマリーに、メメント・モリは語りかけた。
「メメント・モリとて、マリーに会えないのは悲しいのだ。しかし、それでもマリーと私はもう会うべきではない」
「なぜ?」
「私は、君をずっと姪のように思っていた。君から愛の告白を受けたとき、そばにいすぎたと思った。親愛なるゴーストたる私を、異界のものとも思わず、怪しげだとも思わず、頼り、親愛の情を抱くであろうことは予測できたはずなのに、私はつい庇護者としてマリーを守るのだと驕り・・・君のそばにい続けてしまった。おぞましき私に抱く感情を恋と勘違いしている・・・私は君の前から姿を消すよう努めた。それなのに、嘆かわしい・・・」
額に手を当て、メメント・モリは天を仰いだ。
「何故、マリー、君は蝶を飛ばした」
マリーの前から姿を消した、暫く後。
その日、暗く、じめじめした地面の下の舞踏会場に、淡い光を放って、茜色の蝶々がふわりと飛んできた。
ふわり、ふわりと頼りない飛行なのに、それはメメント・モリ目がけて真っ直ぐやってくる。
あれは知己の発明した『羅針儀付き連絡蝶』、この色はどういう意味だったろうか。
と、不思議に思っているところを、蝶々にキスされた。
会いたい。
囁かれたのはたった一言。
甘く切ない気持ちが流れ込んできて、胸が痛くなった。
衝撃に固まっている目の前で、光の蝶々は掻き消えた。
舞踏会場で過ごしてきた歳月、長きにわたる研究、蓄積された知識、向き合い続けた深い闇、死を考え続けた厭世観。
そのすべてを圧して、運ばれてきた光は、鮮やかにメメント・モリの胸に灯った。
「可憐なドレスを着たマリーを、何度連れ去りたいかと思ったか。舞踏会場に留めさせたいと思ったか」
マリーは驚きに目を見張った。
今、メメント・モリは何と言ったのだ。
「私の想いは通じていたの・・・?メメ様は、私のことを愛してくれていたの?」
メメント・モリは天を仰いだまま、何も言わなかった。
マリーはすがりついた。
「あんまりだわ。どうして言ってくれなかったの。私だって、私だって」
愛している、一緒にいたかった。
皆まで言わせず、メメント・モリがぽつりと言った。
「マリー。メメント・モリは君を連れ去りたいと思う自分自身を許せなかった」
はっとして、マリーは口を噤む。メメント・モリの声は、嘆かわしいと言うときよりも、ずっと寂しく響いた。
「マリー。君を愛すれば愛するほど、私は君といられない」
マリーは何を言われたか分からず、立ち尽くした。
メメント・モリの目が、奇妙に光っていた。
「子は皆、母から生まれる。生れてくるのは皆一緒だ。しかし、死に方は千差万別。そのひとつひとつに向き合い、私は研究してきた。池にはまってしまった者・・・撲殺された者・・・餓えた者・・・針の上を歩かされた者・・・寿命を全うした者・・・計略に嵌った者・・・マリー、死は悲しい、安らかな虚無だ。無残で、悲惨で、陰惨なこともある。私はそれに向き合うのがこの命の使い道だと考えている。そんなところにマリーを連れて、共にいることはできない。すべての社会から、繋がりから遮断されて、日の当たる場所から影より暗いところに誘うことなどできない」
「メメ様、私は何もかも捨ててもいいの。何もかも置いてでも、あなたの傍にいきたいの」
「マリー、いけない。君の母、屋敷の者たち、君の友人たち。君が築いてきたものは、君の貴い宝だ。私は私が君に宝を捨てさせることになれば・・・やはり、私は自分自身を許せないであろう」
言い聞かせるメメント・モリは、いつかのように絶対的で、優しかった。
「投げやりになってはいけない、マリー。君は彼らを大切に思っているはずだ」
「それは・・・」
「ずっと話してくれていたではないか」
「聞いていたのね」
マリーはショックを受けた。
独り言で日々のことを話していたのを聞いてくれていたのは、嬉しい。
しかし、一人にさせたくない、自分の存在を忘れないで欲しいと思って伝えていた言葉は、逆にメメント・モリにマリーのかけがいのない人生を教えてしまっていたのだ。
途方に暮れて、マリーはメメント・モリのシャツの袖口を掴む。
胸元に目を移すと、銀色の時計が光っている。決して社会に出回ることのない、不思議な錬金術の品物だ。
自分の生まれる前の、遠い昔から届いているのかのような古めかしいデザイン。
なんて遠いのだろう。
どうあっても、マリーの想いは、メメント・モリを遠ざけてしまうのだ。
あの日、想いを伝えたときから。
「どんなにあなたの傍にいたいと言っても、メメ様は私を受け容れてはくれないのね」
込み上げてくるものを押し殺して、マリーは目に涙を浮かべてメメント・モリを見上げた。
マリーはメメント・モリが泣いているところを見たことがない。今も無表情で灰色の瞳で見下ろしているだけだ。長年見慣れたマリーにとっては、ずっと優しく見守ってくれた表情そのものだった。
「マリー。そもそも私とマリーは遠い先祖と子孫にあたる。大叔父、もしくは曾祖父と思っていればいい」
「そんなこと・・・」
「あるいは、忘れてしまった方がいいかもしれない。私のことなど、捨て置けばいいのだ」
「そんなこと!忘れられるわけがないわ」
「そうか」
ぎこちない手つきでメメント・モリはマリーの涙を拭う。やや身をかがめて、マリーと目線を合わせて言い聞かせた。
「ならば、泣き止んでくれないか。泣かせることしかできない私は、君が泣いているのがとても苦しい」
マリーは大きく深呼吸して、ゆっくり涙を止めようと努めた。
メメント・モリの思いなど考えも及ばず、一途に、無邪気に求め続けた自分が恥ずかしかった。せめて彼が安心していられる自分でいたい。
落ち着き始めたマリーを見つめ、メメント・モリは言った。
「マリー。いつか言ったように、メメント・モリはそばにいる。見えなくても、死より側に君に寄り添う。君が力の限り生き、他者と共生していくのを守る。君を愛しく思うこと、見守ること。どうかそれだけは許してくれないか」
「許してくれだなんて」
つい責めるような口調になったのを抑えて、マリーは答えた。
「・・・私、メメ様の考えなんて思いもよらなくて。メメ様とただ一緒にいたいってことばかり考えて、メメ様を困らせていたわ。ごめんなさい。私の方こそ、好きでいさせて」
憂うように、灰色の目を眇めてメメント・モリは首を振った。
「君はいつか誰かと結婚しなければならない。それが貴族の義務だ」
言うと思った。
マリーは思わずふっと微笑んだ。昔と全然変わっていない、メメント・モリらしい言葉だ。
マリーの様子にメメント・モリは複雑そうな顔をして念押しした。
「分かったか?」
「確証はできないわ」
「そんなことを言うものではない。オリヴィアが泣く」
「オリヴィアって、メメ様のお姉さん?」
「写本を読んで知ったのだな。いかにも。マリーの先祖だ・・・」
遠い昔を眺めるように虚空を見上げ、メメント・モリは語った。
「私はペストによる多くの死を目の当たりにし、人が幸福に生きるには、人が死ななければいいのだと考えた。あの舞踏会場で研究し続け、いつの間にか己のみ不老不死に近い身体になり・・・そのとき、オリヴィアに再会した。オリヴィアはもともと美しい娘だった」
マリーに目を移し、メメント・モリはその灰色の瞳を優しく眇めた。
「マリーもその面影がある。マリー、メメント・モリは、オリヴィアに再会して己が誤りを犯していたと知った」
「誤り?」
「彼女は幸せそうだった」
財産分与でいがみあう息子たちに心を痛めていたが、収束した後、オリヴィアは心穏やかに過ごし、安らかに眠った。
「オリヴィアは老いていたが、子供たちや、孫に囲まれ、幸福そうに死んだ。不老不死で人は幸福になるのではない。天寿を全うし、愛されることで人は人らしく、生を満足して終えることができる。人が幸福に生きるために、私がするべき研究は病も治すことだったのかもしれない。だが、私は多くの死を忘れられなかった。あまりに無念だ。生きたいと望み、神に祈りを捧げ、無残に死んでいった者ども。私は死んでいった彼らを置いて生きることなどできなかった。この身を使い、この世のあらん限りの死を見つめ、深く胸に刻むことが私の使命だと決意したのはそのためだ」
静かに揺れる灰色の瞳で、マリーを見下ろす。
こんなに饒舌で、表情豊かなメメント・モリをマリーは見たことがなかった。
「マリー。日の下で生き、営み、闇の中にいる私に君の生きる姿を見せてくれ。それが使命に生を尽くす私の希望となろう」
「ずるい人ね」
涙目で睨みつけて、マリーは言った。
「私には望むものをひとつもくれないのに」
メメント・モリは無表情だった。
マリーは大きく深呼吸をした。
恨み言はここまでだ。
「これだけは忘れないで。私はずっとメメ様を愛している。忘れないわ。あなたがやってきた錬金術の研究も、思いも、必ず後続の人たちに伝える。あなたは一人ではないわ」
震える声を抑えて、マリーは言った。
思いが通じていると分かっているのに、やっと会えたのに、これまで思い続けた人を諦めるのは、想像以上に辛かった。
子供の頃に寄り添ってくれた思い出さえ、切り離されてしまいそうに感じられた。
しかし、死がすぐそばにあるのと同じように、メメント・モリへの思慕は、消えないように思えた。
確実にメメント・モリは、マリーの知らないところでマリーを助けてくれる。その思いは信用できるが、寄り添う存在として、助け合う間柄としてのメメント・モリが有り得ないのだということを受け止めて、生きて行かねばならない。
孤独な荒野に自ら一歩を踏み出さねばならないような、頼りない気持ちになった。気丈に振る舞いたいのに、涙を流したままメメント・モリと別れたくないのに、立っているのもやっとだった。
それともここは夢の中だから、立っていようとなかろうと、関係ないのだろうか?
「ひとつだけ、お願いがあるの」
軽く目を見開いたメメント・モリに、マリーは無理やり微笑んでみせた。
「私が目が覚めるまで、手を握っていてくれない?」
真っ白な蝋のような肌、骸骨のように痩せた輪郭に黒い髪がさらりと添う。
灰色の瞳は、鏡で見る自分と同じ色なのに、記憶に刻みついている優しさの色。
死人のようだという細身の体は、鋼のようで、温かい。
夢の中であろうと、目に焼き付けた。
「いいだろう。もうじき時間だ」
大きな手がマリーの右手を包み込み、マリーはゆっくり目を閉じる。
温かな手が、優しくマリーの頭を撫ぜた。
ふっと目を開けると、室内がなんとなく明るかった。
泣いたまま眠ったせいで頭も痛むし、瞼も重い。
だが、心も体もすっきりしていた。
ベッドでぼんやり寝ていたマリーは、自分の右腕がベッドの際まで投げ出されているのを目で辿った。
指先に温かさが残っている気がした。




