sept
このお話の途中、突然主人公に対する残虐なシーンが入ります。
苦手な方はご注意下さい。
学校の男の子にいじめられて帰ってきた日、先生に不愉快な誤解をされた日。
好きな洋服を馬鹿にされて悲しくなった日。
メメント・モリが慰めてくれた。
言葉で何かを言ってくれるのではなく、ただ側に寄り添って、マリーを落ち込むままにしてくれた。
死神のように真っ黒で真っ白な男が、どうしてこんなにも温かいのか。心がささくれ立っていても、メメント・モリの背中に体を預けていると、すっぽりと守られている感じがした。
父がいたらこんな感じだろうか、と思ったこともあるが、それは一瞬のことで、写真の中で微笑む父はどう見てもこんなに死人のような雰囲気はない。
だが、気が付けば側にいた。
マリーにとって、父でも、ただの保護者でも、おじいさんでもない。
メメント・モリはメメント・モリでしかなかった。
十歳も過ぎると好きな人の一人や二人、会話の種にもなるものだが、マリーは学校の男の子には興味がなかったし、「好きなタイプは?」と問われたら、間違いなく「メメント・モリ」と答えただろう。
答えられたら、の話だ。マリーはメメント・モリが不思議な存在であることは分かっていたので、言いふらせるような人ではないと気付いていた。
時々話を振られると、「メメント・モリ」と答える代わりにこう言う。「死をよく分かっている人」と。
同級生は首を傾げて、マリーをきどってる、と嗤った。
それだって構わなかった。
「マリー、あなた友達を作らないの?」
心配そうにフローレンスに聞かれたときも、つっけんどんなものだった。
「いいの。気の合わない人と無理に一緒にいたくないもの」
冷めた物言いに、フローレンスは眉を寄せた。
「あのね、人って誰でも自分の好きな人とばかり一緒にいられないものよ。ときにはあまり好きではない人とだって、一緒に何かしなくてはならないこともあるのよ。そういうことを、勉強しなくっちゃ」
「いいもの」
「よくないわ」
フローレンスは呆れたように溜め息をついた。甘やかしすぎたかしら。そんな思いを滲ませる。
マリーはどこ吹く風だった。友達は本。屋敷には本がたくさんあった。歴代のフォール家の人々は、本が好きだったらしい。蔵書はいくらでもあった。
マリーは学校でどんなに一人でも平気だった。メメント・モリのようになるべく静かに佇んでいるのだ。
意地悪されるくらいなら、無視された方がいい。
家に帰れば、メメント・モリがすべてを包み込んでくれる。悲しいときも、苛立ったときも、メメント・モリがそばにいると思えば、何も怖くはなかった。
いつの間にか、そこが逃げ場所となり、学校生活と向き合わなくなっていることに、マリーが気付くわけがなかった。
だからこそ、あんなことが起った。メメント・モリの影を追うばかりに。
ある日、自分の部屋でメメント・モリを呼んだが、いくら呼んでも来てくれなかった。
初めてのことだったので、マリーは不安になった。地下室で何かあったのではないか。年齢のために老衰しているのではないか。不在の理由を考えてみても、実はメメント・モリのことをよく知らないと気付くばかり。マリーは寂しい気持ちと焦燥感とを覚えて、きっと出かけていることもあるんだ、とポジティブに考えようとした。
それでも想像は不安を掻き立てた。
どこかに入口はないかと、マリーは屋敷のあちこちを見て回り、隅を突いたり壁に扉がないかと探した。
そして、奇跡的に一つ、入り口を見つけた。夏の間は使わない、暖炉の奥に秘密のスイッチがあったのだ。
カラクリのように暖炉の奥の壁が開いた。その奥には、暗くて狭い階段があった。
ずっと下のほうは、黒いインクの池溜りがあるように真っ暗で、何も見えない。
一瞬躊躇したが、マリーは初めて見つけた入り口に踏み入れることにした。懐中電灯を手に、階段を降りて行く。
ドキドキしていた。屋敷は広いし、マリーが把握していない場所はたくさんあるけれど、この入口は特別だった。
階段は石造りで、どこまでも下るようだった。ひんやりした空気が停滞している。足音が響く。途中で曲がり、上がったり下がったりしながら、一本道を下り続ける。疲れて、途切れない闇に不安になったそのとき、開けた場所に出た。
そこは不思議な空間だった。高い天井にシャンデリア、どこからか光が注ぐ。しかし、湿った空気は土気まじりで、明らかにそこが地下なのだと教えてくれた。
舞踏会場のような場所だった。地面にはモザイクの美しい模様が描かれ、何本もの柱が天井を支える。柱には彫刻がなされ、燭台には仄かな火が灯る。
一段高くなったところに、たくさんの品物が散らばっていた。
宝石のようなものもあれば、この間テレビを分解したときにメメント・モリが持って行った部品もある。机の上にはたくさんの器具が置かれ、水槽が置いてあり、水槽の中で不思議な色とりどりの空気の玉が浮いたり沈んだりしている。銀の輪が重なる器具がくるくると動き、六分儀や地図、天体模型なども置いてある。古びた走り書きもあった。
ここは、メメント・モリの空間だ。
感動を伴って、マリーは部屋を見回した。メメント・モリの知らない一面に触れた気がして、興奮していた。
地面に模様が刻まれていることに気付いて、マリーはしゃがみこんだ。幾重にも重なった円と、放射状に伸びる線。読めない文字が刻まれている。
よく分からないが、これはきっと、錬金術なのだろう。
メメント・モリはここで研究し続けている。
立ち上がると、マリーの衣擦れの音でさえ空間に吸い込まれていく。
高い天井を見回し、暗い広間を眺めて、おそろしく静かなこの空間にマリーは寂しさを覚えた。
メメント・モリ。
呟いた。
こんな心細いところに住んでいるなんて、信じられなかった。
マリーは気持ちを紛らわせようとガラクタの山に目を移した。
見れば見るほど奇妙なものがたくさんあって、それらはマリーを退屈させなかった。
星空を延々と映すルーペを覗き込み、ガラス瓶に閉じ込められた光を眺め、鮮やかな紅い蝶の標本をしげしげと観察する。地球儀のようでよく分からない球体をくるくると回し、ふと宝石箱を見つけた。
銀細工の、指輪を仕舞う小さな宝石箱だ。なんだかお母さんが持っているダイヤモンドのペンダントに似ている。悪戯心を起こして、そっと手に取ると、ずっしりと重かった。
カチリ。
容易に開いたそれの中は空っぽだった。
なんだ、と思った次の瞬間、マリーは左右の腕を掴まれ、拘束されていた。
両手首は感触のゴワついた細い縄で縛られている。
それどころか、口々に罵る群衆の真ん中に引きずり出されているところだった。
乱暴に土の地面に投げ出される。
「殺してしまえ!」「しっかり吐かせろ」「拷問だ拷問!思い切り痛めつけて思い知らせるんだ」「罪を贖え!」
次々に人々から敵意と害意を浴びせかけられ、マリーは呆然とした。
マリーの左右を挟むのは甲冑を着込んだ兵士だった。時代錯誤でなかろうか、と思っていたら、よく見ると群衆も皆薄汚い古っぽい服を着ている。
目の前には昔の裁判官のような黒いローブを着て、白い巻き毛の鬘を被った偉そうな人物がいた。
「神に誓って、正直に白状せよ。お前は錬金術という悪魔の術を使うという罪を犯し、人々を惨殺して国を血の海としようとしたな?」
何、どういうこと?
身に覚えのないことに、マリーははっきりと答えた。
「いいえ、私はそんなことしてません!」
すると、周囲からの罵り声が一段と増え、マリーに襲いかかってきた。
身を竦ませているマリーに、目の前の裁判官は首を横に振って、明らかな侮蔑を目に浮かべた。
「なんと罪深い。神の前に嘘を吐くとは」
身体が震えた。
嘘なんかじゃない。
そう叫ぼうとしたところで、恐怖で声が出なかった。
「連れてゆけ」
割れんばかりの喝采が人々から湧き上がった。マリーは容赦なく兵士に引き立てられ、木の粗末な小屋に連れて行かれた。
抵抗しようにも力が強くてどうしようもない。不安とパニックでマリーの頭の中は混乱していた。
やがて連れて来られたのは、やけに床が黒っぽい、暗い部屋だった。
床に押さえつけられて、床を間近にみなければよかったと後悔した。床は血がどす黒く染みついていたのだ。
「やめて」
言葉は聞き入れられない。
押さえつけられた指に、冷たい針先のようなものが当てられたと思ったら、激痛が走ってマリーは叫び声を上げた。
爪と指の隙間に針を捻じ込まれた。
「お願い、いやッ!!」
もう一本針が差し込まれる感触があって、マリーは痛みと絶望と混乱とで頭が真っ白になった。
絶叫し、意識するより先に助けを呼んでいた。
「いやああああああああああああァァァあ――――――――――――!!!メメさま!メメさま!」
「マリー!」
あの静かな声が響いて、いつの間にかマリーは元の地下の広間にいた。
それでもマリーは気付かなかった。パニック状態で、床に倒れ込んで身を引きつらせ、叫んでいた。今しがた起った出来事が五感に焼きついていた。
「ああぁああああああああああああぁ―――――!!」
「マリー、しっかりしたまえ。こちらを見なさい。大丈夫だ、ただの幻だ」
しっかり抱き上げられて、メメント・モリの膝の上にいた。揺さぶられ、目が合う。落ち窪んだ灰色の瞳が、こちらを見つめていた。
マリーは思い切りメメント・モリに抱きついて、しがみついたまま大声で泣き声を上げた。
「マリー・・・すまない」
マリーを撫でながら、ぽつりとメメント・モリから発せられた。
それから、メメント・モリはマリーを抱いて暗い階段を駆け抜け、マリーを屋敷に戻した。
マリーはその間、ずっと泣きながらメメント・モリにしがみついていた。混乱していたし、何も見たくなかった。ただメメント・モリだけを感じていなかった。
暗い階段を上がりながら、マリーは目を瞑って、ほっとした瞬間に寂しい地下の空間と怖い幻を思い出して、にわかに気付いた。
メメ様を一人にしてはいけない。
静かで暗い、寂しい地下の舞踏会場で、ひたすら錬金術の研究をして、あんな悲惨なものと向き合っている。
マリーが考えられるより、ずっとずっとずっと前から。
マリーは自分に絵本を読んでくれ、いつも相手をしてくれるメメント・モリのことしか知らなかった。
それだけに、さきほどのショックは別の方向へ向いた。
どうして自分はメメ様のことを、何も知らなかったのだろう。
こんなに側にいるのに、何故メメ様のことを何も分かろうとしなかったのだろう。
いつも嘆いているメメ様の姿は、本心からのものだったのだ。
あんな理不尽を知っているとすれば。
深い闇の奥底に、メメ様はただ一人とどまって、悲しみを見つめている。
子供心に、マリーは堪らなくなって、ひたすらメメント・モリをきつく抱き締めた。
フローレンスは勿論、執事を始めとする使用人たちは、大泣きしているマリーを抱えてメメント・モリが出現したのにひどく驚いていた様子だった。
「まあ!どうしたの、マリー!」
「・・・悪かった。私の部屋の道具に触って、他人の記憶を疑似体験してしまったのだ」
「何ですって?!一体どんな記憶なの」
メメント・モリはあの静かな声で、淡々と答えた。
「かつて迫害された錬金術師が、いわれのない罪で告発され、拷問にかけられた記憶だ」
メメント・モリの首にかじりつき、しっかり抱かれたまま、マリーの意識は一度そこで途切れた。




