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俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】  作者: パラレル・ゲーマー


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第28話 猿と概念と斬撃魔法

 夜。


 佐藤健司の住む六畳一間のアパートは、安い蛍光灯の光に照らされ、異様な惨状を呈していた。


 フローリングの床一面に、無数のコピー用紙が散乱している。


 だが、そのどれもが「切れた紙」ではない。指で強引にこすられ、ふにゃりと曲げられ、折られ、あるいは爪でミミズが這ったような跡をつけられただけの、哀れな紙の残骸たちだった。


 そのゴミの山の中心で、健司はあぐらをかいて座り込んでいた。


 顔は完全に死んでいる。


 右手は、人差し指と中指を伸ばしたチョキの形――魔導書が言うところの『手ハサミ』の形を作ったまま固まっていた。


 目の前には、最後の一枚に近い、まだ綺麗なコピー用紙が一枚置かれている。


 健司は、その紙を親の仇のように睨みつけていた。


(切れる……)


(この指はただの指じゃない。鋭利な刃物だ……)


(こんな薄い紙なんて、豆腐みたいに簡単に切れる……)


(これはハサミだ。いや、カッターだ。日本刀だ……!)


 これまで三日間、何千回と繰り返してきた自己暗示。


 健司は深く息を吸い、手ハサミを紙の端に当て、鋭く振り下ろした。


 結果。


 紙は切れない。


 指先の力に負けて、ふにゃりと無様に折れ曲がっただけだった。


 健司はゆっくりと右手を下ろし、深く、ひどく深く息を吐き出した。


 三日間。


 ヤタガラスの初任務を終えたあの夜から、日中の最低限のデイトレードや業務連絡の時間を除き、健司はひたすらにこの同じ動作だけを繰り返してきた。


 だが、成果は完全なるゼロだ。紙の繊維一本すら断ち切れていない。


 最初の夜、「魔法は技術だ。なら泥臭く練習するしかない」と気合を入れ直した。


 リセマラの時のように、繰り返せばいつか感覚を掴めるはずだと思っていた。


 しかし、三日経っても何一つ起きないとなると、さすがに心が削れていく。


 健司は、自分の右手を見つめた。


「……もう無理だろ、これ」


『おい、猿。また溜息か。貴様の吐く息は、二酸化炭素と敗北主義だけで構成されているのか?』


 魔導書が、相変わらずの皮肉で脳内を小突いてくる。


「……うるさい」


 健司は力なく返した。


 いつもなら反発して言い返すところだが、今の彼にはその気力すら残っていなかった。


「三日だぞ。三日間、ずっと同じことやったんだぞ。飯食って寝る以外、ずっとこの手ハサミで紙を切ろうとし続けてきたんだぞ。成果ゼロだぞ。紙一枚切れない。……これ、俺に才能がないんじゃないのか?」


 健司は、床に散らばる無数の失敗作を見渡した。


「予知とか確率操作は、たまたま俺の感覚と相性が良かっただけなんじゃないのか。こういう、物理的に直接干渉するような攻撃系の魔法は、根本的に俺には向いてないんじゃないのかよ」


 健司は本気で心が折れかけていた。


 今までの失敗は、どこかギャグのような笑いがあった。


 だが、三日間、寝食を忘れて没頭しても「一切の成果がない」という事実は、彼を焦燥の沼に沈めていく。


 予知には、未来のビジョンという明確なフィードバックがあった。


 ガチャならSSRという結果が出る。


 競馬なら当たり外れが分かるし、株なら口座の数字が増える。


 しかし、斬撃魔法は違う。


 紙が切れない。


 ただそれだけだ。


「できない」という冷徹な事実だけが、目の前に山のように積み上がり、健司の心をヤスリのように削り続けていた。


『才能だと?』


 魔導書の声が、冷ややかな色を帯びた。


 健司は黙った。


『魔法の世界において、“才能”などという便利な言い訳は存在しない。あるのは、“やるか”、“やらんか”。ただそれだけだ』


「やったよ! 三日間、頭がおかしくなるくらいずっとやっただろうが!」


 健司がたまらず声を荒らげた。


『ならば聞こう』


 魔導書は、その反発を静かに受け流し、問いの角度を変えた。


『貴様は、この三日間、右手でチョキを作りながら、頭の中で何を考えていた?』


「何をって……切れろ、って。俺の指は鋭い刃物だって。この手ハサミが本物のハサミになって、紙を切り裂くんだって……そういうイメージを、ずっと頭の中で……」


 魔導書は少し間を置いて、ひどく冷たく言い放った。


『それだけか?』


 健司はカチンときた。


「何が悪いんだよ。最初に『手ハサミで紙を切れ』って言ったのはお前だろ!」


『俺は、手でハサミの形を作れとは言った。だが、己の肉体の“手をハサミに変えろ”とは一言も言っていない』


 健司は固まった。


 そこが、彼にとって最初の強烈な違和感だった。


 健司はこの三日間、ずっと自分の「手」を「ハサミという道具」に変化させようとしていた。


 だが魔導書は、そのアプローチ自体がそもそも浅はかだと言っている。


「……は?」


 健司は意味が分からず、間抜けな声を出した。


『貴様は、自分の“手”を“ハサミ”に変異させようとしている。そのアプローチが、そもそも根本的に間違っているとしたらどうだ?』


「俺に手ハサミを作って紙を切れって言ったのはお前だろ!」


『そうだ』


「じゃあ、手をハサミにするんじゃないのかよ!」


『だから猿なのだ』


「ふざけんな!」


 健司がキレかけたその時、魔導書が唐突に言った。


『少し休憩しろ。茶でも淹れて飲め』


 健司は完全に拍子抜けした。


 いつもの魔導書なら「つべこべ言わずに続けろ」と罵倒してくるはずなのに、急に休めと言い出したのだ。


「……お前が急に休憩しろって言うの、逆に不気味で怖いんだけど」


『煮詰まった猿の脳みそをこれ以上乱暴にかき回しても、濁った泥水しか出ん。一旦、視点を切り替えろ』


 健司は文句を言いながらも、床から立ち上がった。


 狭いキッチンへ行き、電気ケトルに水を注いでスイッチを入れる。


 湯が沸くまでの数分間。


 健司は、キッチンの入り口からリビングの惨状をぼんやりと眺めていた。


 床一面の紙のゴミ。


 ローテーブルの上に無造作に置かれている本物の事務用ハサミ。


 しわくちゃのコピー用紙。


 健司の視線が、その『本物のハサミ』に引き寄せられた。


(そういえば……)


 一番最初、魔導書に「切断の感覚を覚えろ」と言われた時、自分はあのハサミで普通に紙を切った。


 あの時は、当たり前のようにできたのだ。


 ジョキリという乾いた音。


 金属の刃が紙の繊維に入り込む感触。


 紙の僅かな抵抗。


 そして、切断が完了した瞬間にスッと抜けるような軽さ。


 あれは簡単にできた。


 なぜなら、自分が『ハサミという道具』を使ったからだ。


 ここで、健司の思考が引っかかった。


(……ハサミを、使った?)


 あの時、自分の手がハサミになったわけではない。


 自分はただ、ハサミという完成された道具を手に『持っていた』。


 ハサミのグリップを握り、ハサミの刃を使って紙を切ったのだ。


 切ったのは自分の手ではない。


 自分が持っていた『ハサミ』だ。


 健司の脳内で、バラバラだったパズルのピースが急速に繋がり始めた。


(『手をハサミに変える』んじゃない。……『ハサミを持つ』んだ)


 だが、今は本物のハサミは使えない。


 なら、自分は何を持つべきなのか?


(……概念としてのハサミ、か)


 この世界に、物理的な刃物は存在しない。


 しかし、自分の頭の中の『認識』の世界には、確かにハサミという概念が存在している。


 物理的な実体はない透明なハサミ。


 それを、自分の右手に重なるように『持っている』と、強く、絶対的に認識すればいいのではないか。


『……ほう?』


 この思考が生まれた瞬間、魔導書が脳内で低く反応した。


 健司の肩がビクッと跳ねる。


『猿の泥水みたいな脳みそにも、ようやく一本の火が灯ったか』


 健司は、まだ言葉として明確には言語化できていない。


 だが、間違いなく何かの『本質』を掴みかけていた。


 カチッ。


 電気ケトルのスイッチが切れ、湯が沸いた音がした。


 しかし健司は、茶を淹れるのも忘れ、そのまま無言でリビングへと戻った。


 健司は再び、床に散らばる紙の真ん中に座り込んだ。


 目の前の、最後の一枚に近い綺麗なコピー用紙と向き合う。


 右手で、ゆっくりとチョキの形を作る。


 だが、頭の中の意識の向け方は、これまでと全く違っていた。


 今までは、


『俺の手がハサミになる』


『俺の指が刃になる』


『この肉体を鋭利な刃物に変える』


 という、肉体変化への無茶な自己暗示だった。


 だが今回は違う。


『俺の手は、ハサミになる必要なんて全くない』


『俺は今、ハサミを手に持っている』


『物理的には目に見えないが、俺の認識の中には、間違いなくある』


『自分の右手の動きに重なるように、“概念としてのハサミ”がここに存在している』


 健司は静かに目を閉じた。


 一番最初に使った、あの黒いプラスチックグリップの事務用ハサミを、脳裏に極限まで鮮明に思い描く。


 指をグリップに通した時の、プラスチックの硬い感触。


 二枚の金属の刃が重なり合う冷たさ。


 全体の重み。


 刃と刃が交差する構造。


 紙を間に挟んだ時の、微かな抵抗。


 そして、切る時の『ジョキリ』という確かな感触。


 それらの情報の全てを、自分の右手にピタリと重ね合わせる。


 右手のチョキは、ただのチョキだ。


 だが、その指の先には、透明なハサミがある。


 見えないが、確実にあるのだ。


 健司は、自分自身に強く言い聞かせた。


(俺が今持っているのは、手ハサミじゃない。ハサミそのものだ。だから、当然のように切れる)


 健司は、自分の肉体を無理やり変えようとするのを完全にやめた。


 自分の強固な『認識』の中で、道具の概念を外付けする。


 これは、確率操作の時に使っていた「ジンクス」や「ルーティン」の考え方にも通じるものだった。


 自分の中で絶対に揺るがないルールを作り上げ、その「俺は今ハサミを持っている」という認識を、強引に世界へ押しつけるのだ。


 健司が、ゆっくりと目を開いた。


 呼吸は深く、静かだった。


 指先には、もう無駄な力は全く入っていない。


 紙の端に、指を当てる。


 これまでのように、肉の指で紙を押し切ろうとはしない。


 右手に重ね合わせた『概念のハサミ』の刃を閉じるような、そんなイメージの感覚だけで、紙の上をスッと滑らせる。


 スッ。


 小さな音。


 いや、音というよりは、指先に伝わる極めて微細な感覚だった。


 紙の抵抗が、フッと消える。


 まるで、最初からそこに切れ目が入っていたかのように、紙が何の抵抗もなく、綺麗に二つに分かれていく。


 健司の指は空を切り、動きを止めた。


 彼は数秒間、目の前で起きた現象を理解できなかった。


 切れた。


 本当に、切れている。


 手元にあった一枚の紙が、完全に二つに分断されている。


 切断面は、今までのように指や爪で強引に引き裂いたギザギザの跡ではない。


 本物のハサミを入れたように、真っ直ぐで滑らかな切断面だった。


 健司は、切れ端を両手に持ち、間抜けな顔でそれを見比べた。


「…………うーん」


 思考が、現実に追いつかない。


「…………おっ」


 数秒遅れて、ようやく理解の波が押し寄せてきた。


「…………切れた……!」


 健司の声は、歓喜の叫びというよりは、完全に呆然とした呟きだった。


 三日間、何千回やっても全くできなかったことが、認識を切り替えただけで、今、あっさりとできてしまったのだ。


『――猿!』


 脳内で、魔導書が弾かれたように声を上げた。


 少しの間。


『早いな!』


 魔導書が、珍しく――いや、初めてと言っていいほど、本気で驚愕している声だった。


 今まで健司を煽り、猿と罵倒し、常に遥か上から目線で導いてきた魔導書。


 その声に、純粋な驚きの色が混じっている。


 健司はその反応に、逆に少し驚いた。


「……早いのか?」


 魔導書はしばらく沈黙してから、真剣なトーンで答えた。


『早い。たった三日で、魔法における“認識の切り替え”という本質に自力で辿り着いた。猿にしては、異常なほどに早い』


 健司は少しだけ照れくさくなったが、調子に乗りすぎないように努めた。


「……自分の手をハサミにするのは、いくらやっても無理だったからさ。だから、俺の手がハサミになるんじゃなくて、俺自身が『見えないハサミを持っている』ってことにしたんだ。目には見えないけど、俺の中では、確かにハサミを握ってる。だから切れたんだと思う」


『いいぞ、猿』


 魔導書が、静かに、だが確かな評価を下した。


『見事な発想の転換だ。それこそが、魔法というものの本質に極めて近い』


『物理的な現実を、自らの強固な認識の下に捻じ曲げ、上書きする。貴様は今、無意識のうちにその一端を掴み取ったのだ』


 魔導書が、ちゃんと健司を褒めた。


 普段は罵倒しかしない魔導書が、ここで一切の皮肉を交えずに素直に評価したことで、健司の中でこの小さな成功の重みが一気に増した。


『一度でも切れたということは、お前の脳は“魔法で切断した”という成功体験を、確かに記録したということだ』


 魔導書はすぐにいつもの教師モードに戻り、解説を続ける。


『これが途方もなく大きい。今までは、貴様の脳内に“魔法で切る”というテンプレートが全く存在しなかった。だが、今はある』


『このたった一回の成功体験で、お前の中に斬撃魔法を構築するための絶対的な足場ができたのだ』


 健司は、手に持った紙の切れ端を見つめた。


 三日前から、ずっとずっと求め続けていたもの。


「魔法で切れた」という、たったそれだけの結果。


 それが、今、確かに自分の手の中にある。


『では、次だ』


 魔導書が、容赦なく次の指示を出す。


 健司は固まった。


「え、もう次に行くの?」


『当然だ』


「少しは余韻に浸らせろよ。三日ぶりの成功なんだぞ」


『余韻に浸っている暇などない。余韻で魔法は上達せん』


 魔導書は冷酷に切り捨てる。


『その“ハサミ”のイメージを、完全に捨てろ』


 健司は驚いて声を上げた。


「は?」


『ハサミのイメージを捨てて、ただ貴様の指先で紙に触れろ』


『そして、“切れろ”とだけ念じろ。触れるだけで、切れ』


 健司は困惑した。


 せっかく掴んだばかりの「概念のハサミ」という感覚を、今すぐ捨てろと言われているのだ。


 だが、魔導書の意図はこうだった。


 ハサミのイメージは、健司が斬撃という概念を理解するための、ただの最初の補助輪に過ぎない。


 いつまでもハサミのイメージに依存していては、永遠に「ハサミで切れる程度の物」しか切断できない。


 健司が本当に覚えるべきなのは、ハサミという道具の再現ではなく、「切断」という結果の発生そのものなのだ。


 だから今度は、道具という概念のクッションを外し、「触れたものが切れる」という結果そのものをダイレクトに現実に発生させる。


「……鬼かよ」


 健司は嫌そうな顔をしながらも、魔導書の指示に従った。


 健司は、さっき切れた紙の片割れを手に取った。


 その紙の端に、人差し指の先端をそっと触れさせる。


 今度はチョキではない。


 人差し指一本だけだ。


 健司は目を閉じた。


 さっきの成功の感覚を思い出す。


 概念のハサミが紙を切った時の感覚。


 抵抗がフッと消え、紙が二つに分かれた時の、あの絶対的な確信。


 その結果の感覚だけを抽出して、指先に集める。


 今度は、ハサミの形や金属の冷たさは想像しない。


 ただ、現象の結果だけを見る。


(切れる)


(俺の指が触れた場所から、紙の連続性が断たれる)


(一枚だった紙が、二つになる)


 健司が、鋭く念じた。


(――切れろ)


 スッ。


 紙が、裂けた。


 音はほとんどしなかった。


 健司の人差し指が触れたその一点から、紙が静かに、そして滑らかに二つに分かれた。


 健司は再び固まった。


「…………うん」


「…………おっ」


「……切れた……」


 間抜けなリアクションが、全く同じトーンで繰り返される。


『よしよし!』


 魔導書が、心底満足げに声を上げた。


『触れたものが“切れる”という結果を、純粋な認識として発生させることには成功したな』


『この第一ステップは、文句なしの合格だ』


 その言葉を聞いた瞬間、健司の全身からドッと力が抜けた。


 三日間溜まりに溜まっていた精神的な疲労が、一気に押し寄せてくる。


 だが、その疲労感は信じられないほど心地よかった。


 ずっとできなかったことが、ついにできた。


 しかも偶然の一回ではない。


 二度、違うアプローチで意図的に切った。


 これは、彼の中で完全に「成功体験」として定着したのだ。


『よく聞け、猿!』


 魔導書が、急に声のトーンを強くした。


『貴様は今、ただ紙っ切れを切っただけではない』


『お前は今夜、“攻撃魔法という概念そのもの”を覚えたのだ』


 健司は目を丸くして聞き返した。


「……攻撃魔法?」


『そうだ』


 魔導書が力強く説明する。


『予知は、未来を視るだけの魔法だ。確率操作は、有利な結果を寄せる魔法。身体強化は、己の肉体を変質させる魔法』


『だが、斬撃魔法は違う。対象に対して、強制的に変化を押しつける魔法だ。“切れる”という破壊の結果を、対象に直接発生させる。つまり、完全なる外部への攻撃だ』


『今、貴様は人生で初めて、この世界に対して能動的な“破壊”の事象を発生させたのだ』


 これは、ただ斬撃が使えるようになったというだけの話ではない。


 健司は今、「何かを攻撃する」「対象を破壊する」という意志の引き金を引く感覚を覚えたのだ。


 このトリガーの感覚こそが、今後のあらゆる攻撃魔法の基礎となる。


 炎をぶつける。


 氷の槍で刺す。


 雷を落とす。


 見えない圧力で潰す。


 どれも本質的には、対象へ「変化」や「損傷」という結果を押しつける魔法だ。


 斬撃魔法は、その広大で物騒な領域への、最初の入り口だったのだ。


 健司は、自分の人差し指を見つめた。


 何の変哲もない、ただの元フリーターの指だ。


 だが、この指で、物理法則を無視して紙を切った。


 自分の意志だけで、外部の物体に傷をつけたのだ。


 その事実に、健司の胸が少しだけざわついた。


 それは恐怖ではない。


 自分が、確実に強くなれるという、熱を帯びた実感だった。


 健司はしばらく指先を見つめた後、ふと、極めて現実的で素朴な疑問を口にした。


「……で、これ、今の段階で一体何に使えるの?」


 紙一枚しか切れない、触れないと切れない魔法。


 魔導書は、満面の笑みを浮かべているような気配で、高らかに答えた。


『ハサミの代わりになるッ!!!』


 健司は沈黙した。


「…………」


 次の瞬間、健司は渾身の力で叫んだ。


「じゃあ本物のハサミ使えば良いじゃんッ!!!!」


 当然すぎる大ツッコミだった。


 三日間、寝食を忘れて地獄のような苦労をして覚えた魔法の、現時点での実用的な用途が「ハサミ代わり」。


 健司の虚しさと怒りが爆発する。


『愚か者めが、猿ッ!』


 魔導書がすかさず叱り飛ばす。


『魔法とは、既存の道具で簡単に代替可能なことを、あえて己の魔力に置き換えて実行する訓練も極めて重要なのだ!』


『その一見無駄で不毛に見える反復作業こそが、魔力の精密な操作、認識の強度、出力の制御、そして魔力総量そのものを着実に増大させるのだ!』


『つまり、ハサミの代わりになることは偉大な第一歩なのだ!』


 健司は完全に脱力した。


「へーへー、分かったよ。よく分かりましたよ。つまり俺は、三日かけてようやく『ハサミになった男』ってことね」


『ハサミになったのではない。ハサミを概念として握ったのだ。何度言わせる』


「どっちでも虚しいわ!」


 健司はため息をつきながら、話を前に進めることにした。


「で、斬撃魔法の第一歩とやらは覚えたんだろ。次は何するんだよ」


 魔導書が、待ってましたとばかりに満足げに言う。


『よくぞ聞いた。次は、一気に難易度が上がるぞ』


 健司は嫌な顔をした。


「……だろうな」


『遠距離から、斬撃を飛ばす』


 魔導書が告げる。


 健司は聞き返した。


「飛ばす?」


『そうだ』


 魔導書が説明する。


 今の健司の斬撃は、指先で直接触れて切るものだ。


 つまり、射程距離は完全に「ゼロ」。


 これでは、実戦では使い物にならない。


 対象に接近し、触れなければならない上に出力はハサミ程度。


 紙は切れても、怪異や悪意ある能力者相手には全く話にならない。


 だから次に必要なのは、「威力」の向上と、「射程」の延長だ。


『まずは威力の向上だ。いつまでもハサミのイメージでは駄目だ。カッター、包丁、ナイフ、日本刀、工業用カッター、レーザーカッター。そうやって“切断”のイメージをより強く、鋭く、硬くアップデートしていく』


『だが、段階を踏め。紙、厚紙、段ボール、布、ペットボトル、薄い木片、プラスチック。……最終的には分厚い金属を両断する。一気に硬いものを切ろうとすれば、脳への負荷で貴様がショートする』


 健司はそれを聞いてドン引きした。


「いや、最終的に金属を切るとか、普通に物騒すぎないか?」


『攻撃魔法だと言っただろうが』


『そして、第二段階が“射程”だ。斬撃を飛ばす』


 魔導書が続ける。


『切断という概念を、手元から離す。空間に乗せ、目標まで飛ばす。目標に到達したその瞬間に、そこに“切れる”という結果を発生させるのだ』


『正直に言えば、斬撃を飛ばすというのは、射出系魔法の中でもトップクラスに難易度が高い。炎を飛ばす、石を飛ばす、水を飛ばす。そういう物理現象の延長にある魔法の方が、猿の脳には遥かに分かりやすい』


『だから、どうしても斬撃を飛ばすのが無理なら、先に別の分かりやすい属性の魔法を覚えた方が、戦力化は早いかもしれんな』


 魔導書が、珍しく「難しい」「無理なら別を」と妥協案を提示してきた。


 だが、その言葉が、逆に健司の心に火をつけた。


「……やってやるよ」


 健司が、低く言った。


『ほう?』


 魔導書が反応する。


 健司は、さっき紙を切った自分の指先を見つめた。


「斬撃を飛ばすってやつをな。絶対習得してやる」


『言うじゃないか、猿。さっきまで泣き言を喚いていたくせに』


 健司は悪態をついた。


「お前に『難しい』って言われたら、逆にやってみたくなっただけだ」


 三日前なら、間違いなく「そんなの無理だろ」と諦めていただろう。


 だが今の健司は、確かな成功体験を一つ得た。


 たかが紙一枚を切っただけ。


 だが、「絶対にできない」と思っていたことができたのだ。


 だから、次の難題にも、彼は逃げずに前を向くことができた。


『まあいい。今日のところはここまでだ』


 魔導書が満足そうに締めくくる。


『切断魔法の第一歩は習得した。これは、極めて大きな一歩前進だぞ、猿』


 健司は、床の紙の山を見た。


 三日間の格闘の残骸。


 しわくちゃの紙。


 そして、その中心にある、綺麗に二つに切れた数枚の紙。


 その真っ直ぐな切断面は、小さな小さな成果だが、今の健司にとっては途方もなく大きなトロフィーだった。


『今夜はもう休め』


 魔導書が言う。


 健司は少し不安になった。


「……お前が素直に休めって言うと、逆に怖いんだけど」


『明日から、また新しい地獄の訓練が始まるからな。たっぷりと休んでおけ』


 健司は深いため息をついた。


「……だと思ったよ」


 魔導書はそれきり沈黙した。


 健司は一人、静かになった部屋に取り残された。


 彼は改めて、自分の指先を見つめた。


 何も変わっていない。


 ただの元フリーターの指だ。


 だが、その指先で、物理法則を無視して紙を切った。


 自分は今夜、初めて「攻撃魔法」を覚えたのだ。


 まだハサミの代わりになる程度。


 まだ触れないと切れない。


 だが、確かに一歩、前に進んだ。


 健司は、床に散らばった紙の残骸を片付け始めた。


 ぐしゃぐしゃの紙。


 折れた紙。


 爪で傷ついた紙。


 そして、綺麗に切断された紙。


 その明確な差が、自分の三日間の苦闘の結果だった。


 健司は少しだけ、自嘲気味に笑った。


 疲労は鉛のように重い。


 でも、気分は悪くなかった。


 その指先には、まだ鋭い刃など見えない。


 だが佐藤健司は知っていた。


 自分は今夜、確かに世界を切り裂いたのだと。


 そして、その鮮烈な感覚が、これから彼をさらに厄介で、さらに物騒な魔法の深い領域へと引きずり込んでいくことを。


 彼の長く、そして果てしない魔法使いとしての道は、今、また確かな新たな一歩を踏み出したのだった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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