マニキュア
バスルームから出ると、ちょうど帰ってきた彼女と鉢合わせになった。目が合う。
普段なら、私はこんな時間まで帰宅が遅くなることはない。だから今になってようやく風呂を上がったところだった。一方の彼女も、いつもの退勤時間より少なくとも三、四時間は早い。
お互い、「どうしてこんな時間に?」と尋ねたそうな顔をしていた。けれど、その話題を切り出した者はいない。
ほんの数秒の気まずい沈黙を破ったのは、音ではなく、匂いだった。彼女から、またあの煙草の臭いがした。接客を終えたばかりなのだから、客の煙草の臭いが服に染みついていること自体は、何も不思議ではない。
それでも、あの匂いだけは違った。
以前、この部屋にいつまでも残っていた、少し辛くて鼻を刺す、あの煙草の臭い。それが、何度も私の嗅覚を刺激する。
同時に、全身は洗い流したものの、私はまだ歯も磨いていなければ口もゆすいでいない。彼女に教わった通り、ドライヤーで髪に残った煙草の臭いを飛ばしてもいなかった。ボディソープでは隠しきれない煙草と酒の臭いが、自分の身体から漂っていることくらい、私にも分かっている。
……大学生なんだから、自分なりの遊びくらいあって当然でしょう。
別に後ろめたいことなんてしてない。
心の中でそう叫びながら、怯えを表情にも目にも悟らせまいと、必死に感情を押し殺す。
その代わりに浮かんだのは、少しばかりの敵意だった。
あの、説明のつかない匂いへ向けた敵意。
男の匂い。ただ「客」の匂いではない。
彼女もまた、一瞬の驚きからすぐに無表情へと切り替わった。いや、正確には口元がほんの少しだけ上がっている。親しげで、優しげな微笑み。けれど、それはただの「営業モード」。仮面のようなその笑顔からは、本心など誰にも読み取れない。
「まだすぐ寝るわけじゃないでしょ?」
唐突に、彼女がそう尋ねた。
「え……あ、う、うん……」
ドライヤーは机の横に置いてある。
本当は服を着替えて、煙草の臭いを飛ばして、それから歯を磨いて寝るつもりだった。私がしどろもどろに答えている間にも、彼女の視線は素早く私の全身をなぞる。あまりに突然のことだったせいで、肩に掛けていただけのバスタオルを、まだ身体に巻いてもいなかった。
──風呂上がりに平気で裸のままタオルを取りに出てくる彼女とは違い、私は自分の裸を彼女に見られた記憶がほとんどない。もちろん、他の誰にも。「母親にさえ見られたことがない」。本当に、その通りだった。
「ちょっと化粧だけ落としてくる。」
彼女は半歩下がり、私に先にバスルームを出るよう促した。
私の化粧品なんて机の引き出しの半分も場所を取っていないのに、バスルームの棚には彼女の化粧品やスキンケア用品、香水、それから私には何が違うのかよく分からない、似たような瓶がずらりと並んでいる。
しかも、それは実際に封を開けて使っているものだけ。
ベッド脇の小さな棚とクローゼットの間には、一度も開封されていない贈り物がまだいくつも積まれていた。たいてい時間が経つと、彼女はまとめて処分してしまう。
知り合いに頼んでネットで売っているらしい。私は彼女の人間関係を何一つ知らない。聞いてもいつも、「大人の世界のことだから」とはぐらかされる。きっと彼女にも、友達や同僚、それとも……
髪の先についた水気と煙草と酒の臭いを、ドライヤーでようやく吹き飛ばし終えた頃。化粧を落とした彼女がバスルームから出てきた。仕事用の小さなドレスもまだ着替えないまま、ベッドの縁へどさりと腰を下ろし、隣をぽんぽんと叩く。
「こっち来て。」
きっと、どうしてこんなに遅く帰ってきたのか問い詰められるのだろう。心の中で小さくため息をつきながら、私は彼女の隣へ腰を下ろした。どう言い訳すれば許してもらえるだろう。頭の中で必死に言葉濁す準備をしていると、不意に彼女が一本のマニキュアを取り出した。
「今日、お店からもらってきたの。
プレゼントを家まで持って帰りたくない子が、そのままお店に置いていくことがあるのよ。安物ばっかりだけど、誰でも自由にもらっていいから。
この色、結構いいなって思って。きっと、あなたに似合うから。」
その話が本当かどうかは分からない。たぶん、私のためにわざわざ選んできたことを隠すための口実なのだろう。ちょうど私が、帰宅が遅くなったことや煙草と酒の臭いをごまかそうとしていたように。
私たちが似ているのは、同じ遺伝子を持っているからというより。
あんな家庭で育ったからこそ、自然と同じ癖が身についてしまっただけなのだと思う。
彼女は私の片手を取った。細い指が私の指の間へ滑り込み、指先、指の腹、関節へと静かに触れながら、やがて爪先へ辿り着く。
「まず一本だけ塗ってみようか。」そう言った。
私の爪は彼女によく似ていた。アーモンドのように細長く、それでいて先端だけが、人より少し鋭い。
──だから、愛する人を強く握り締めると、傷つけてしまうの。
昔、彼女はそんなふうに自嘲していた。一番傷ついていたのは、本当は彼女の方だったはずなのに。
人工の色が、生まれつきの淡い爪の色を覆い隠していく。凝固した血のような、深い棗色。自分なら絶対に選ばない色だった。彼女の指先でさえ見たことのない色。本当に私に似合うのだろうか。それとも。彼女が、「似合うはず」と思っているだけなのだろうか。
「悪くないでしょ?」少し得意そうに彼女が笑う。
「……うん。」
私が認めたと思ったのか、彼女は軽く私の胸を押した。
「もう少し後ろに座って。足、上げて。」
「え?」
戸惑いながらも言われるまま身体をずらし、タオルを押さえながら片脚をベッドへ乗せる。
その瞬間。
彼女は私の足首をつかんだ。急にバランスを崩した私は半ばベッドへ倒れ込む。けれど彼女は見向きもしない。というより、完全に私へ背を向けたまま、私の脚をそのまま自分の胸元まで引き寄せた。指で私の足指を一本ずつ開きながら、慣れた手つきで棗色のマニキュアを塗っていく。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
何も言わず。
ただ黙って。
私の足を、自分が持ってきた色で染めていく。彼女が望む、その色に。刷毛が何度も爪をなぞるたび、私の鼓動も少しずつ速くなる。赤く染まっていくのは爪だけではない。
彼女の丁寧で甘やかな仕草に染められて、頬まで熱くなっている気がした。
「今日、バイト入ってなかったよね。」
もう片方の足を抱え上げながら、彼女が尋ねる。
「うん。」「どこへ行ってたの?」
私の返事を遮るように、間髪入れず問いが重なった。
私は、すぐには答えなかった。
「今日は早く仕事終わったの?」
「早く『仕事が終わった』だけ。私の質問にはまだ答えてない。」
足の中指の腹に、小さな痛みが走る。たぶん、彼女の長い爪が少し引っ掛かったのだろう。わざとなのか、偶然なのかは分からない。
怒っている?でも、本当に怒っているなら、この程度の力では済まない気がした。私の行動が気に入らないというより。自分が私を繋ぎ止められなかったことへの──嫉妬のようだった。
「……『団契』に行ってた。ほら、うちってカトリックの大学だし──」
「そんな下手な嘘、つかなくていい。」
今度は、さっきよりはっきりと痛んだ。
「どこの宗教が、集まりで煙草を吸ってお酒を飲むの?そんなものを『団契』なんて呼んで、天罰が下るとは思わないの?」
もちろん、思わない。私が生まれたこと自体が、周りの人たちにとっては天罰みたいなものだったのだから。
「友達と遊んでただけ。」
彼女が小さくため息をつくのが聞こえた。
「一昨日も?その前も?」
私なりにうまく隠していたつもりだった。それでも、やっぱり気づかれていたらしい。
たった六坪の部屋で、互いの暮らしを隠し通せるはずがなかった。
「男を連れ込んだ?」
予想もしていなかった問いだったのか。彼女の手が、刷毛を持ったまま宙で止まる。
「……それは大人の世界のこと。あなたは気にしなくていい。」
「私ももう大人だよ。」私は身体を起こした。「とっくに十八歳になってる。」
「あなたはまだ学生。」
最後の足の爪を塗り終えると、彼女は刷毛を瓶へ戻し、蓋を閉めた。
「学生の本分は勉強。たまに友達と遊んだり、息抜きしたりするくらいなら分かる。でも、どこへ行ってたの?しかも何日も続けて。」
実際には、私は今回だって一日空けただけだった。
普段はあんなに頻繁にビリヤード場へ通っているわけじゃない。
「……今の言い方、おじいちゃんみたい。」
私がわざとあの人を持ち出した理由に、彼女が気づかないはずはない。
背中しか見えない。それでも私は、その表情が歪んだ気がした。いや。もう「プロ」である彼女は、そんな感情を顔に出したりはしない。
胸の奥へ押し込めるだけだ。
「……だって、私はあなたの姑姑だから。」あの老いぼれの娘だから。
「私は、あなたを姑姑だなんて思いたくない。」私と彼女の間に、あの老いぼれの影なんてあってほしくない。──今みたいに。
「じゃあ、あなたは私を何だと思ってるの?」
私は、小さなドレスから露わになった彼女の背中を見つめたまま、言葉を失った。
……歳の近い、お姉ちゃん?
違う。
お姉ちゃんじゃ駄目だ。
それでは結局、あの老いぼれの存在から逃れられない。
かといって、私が一度も知らなかった「母親の愛」の代わりでもないし、なれるはずもない。
……友達?それも違う。私は彼女に、「友達」以上の何かを求めている。
答えられなかった。
「……遊びに行ってたわけじゃないの。あれは……もう一つのアルバイトで。そのお金があれば、も少しは分担する、や──」
「どんなアルバイトなの!?」
家賃を。そう続けるはずだった私の言葉を、彼女の怒鳴り声が遮った。
振り返ったその顔には、ずっと昔、一度だけ見たことのある怒りが浮かんでいた。
「だから最初から、アルバイトなんかしないで勉強に専念しろって言ったでしょう! コンビニならまだしも、一体どこへ行ってるの?」
彼女が最後にこんなふうに怒ったのは、実家で彼女を見た最後の日だった。とうとうあの老いぼれと真正面からぶつかり、大喧嘩の末、自分の部屋から小さなボストンバッグを掴み、そのまま家を飛び出して行った。
それ以来、何の音沙汰もなかった。
私は祖父と面と向かって言い争ったことはない。それでも、本当は彼女と同じくらい頑固だった。
私が答えないまま黙っていると、彼女は眉間に深い皺を寄せ、ベッドから立ち上がった。クローゼットを開け、しゃがみ込み、一番下からA4判より少し小さいくらいの黒い箱を引っ張り出す。そして、それを私の方へ放った。
黒い箱はベッドの上で一度跳ねた。重すぎもしないが、軽くもない。
「そんなにお金が必要なら、その中のお金を使いなさい。」
ベッドへ投げられただけなのに、その一言は箱で頬を叩かれたように痛かった。
「私は、お金が欲しくて──!」
「気にしなくていい。」
彼女は私の言葉を遮った。
「それ、元々はあんたのお金よ。私がちょっと早く返してあげてるだけ。……だから、もうあんなとこ行かないで」
何か言い返そうとした時には、彼女はもう仕事用のドレスを脱ぎ、ハンガーへ掛け終えていた。
棚からバスタオルを取り上げ、そのままバスルームへ入っていく。
たぶん。
お風呂から出てきても、彼女はもうこの話の続きをするつもりはない。
私は黒い箱を手に取った。少し重い。たぶん中身ではなく、鉄製だからだろう。中には、それほど多く入ってはいないのかもしれない。けれど私は開けようとは思わなかった。そのまま机の引き出しへしまい込む。
……もし家賃を半分ずつ負担できるようになったら。私たちは、「ルームシェアしている友達」になれるのだろうか。
でも。私がどう思っていようと、私たちの関係は、他人の目にも本当に「友達」と映るのだろうか。
私は、あなたを姑姑だなんて思いたくない。
――じゃあ、あなたは私を何だと思っているの?
張月臻。




