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姑姑  作者: 謝窺憐
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10/14

取引

  職業高校(しょくぎょうこうこう)へ進学して間もなく、張月臻(チャン・ユエジェン)には恋人ができた。

  あれほど人目を引く美貌と、生まれつき悲劇のヒロインのような憂いを帯びた顔立ちをしていれば、何も不思議なことではない。

  だが、あの老いぼれは、まるでそんな日が来ることなど一度も想像していなかったかのように取り乱した。

  そういえば、「ヒステリー」という言葉の語源は「子宮」だっただろうか。子宮もないくせに、あれほど「ヒステリック」になれるなんて。つくづく、あの老いぼれは男らしくない。

  あの男にとって、張家の娘にふさわしい男とは、たとえ自分が手塩(てし)おにかけて育てた相手でなくとも、少なくとも成績優秀、品行方正で、将来は人並み以上の職に就く人間でなければならなかった。職業高校へ通う男子など、彼の価値観では人生の敗者でしかなく、眼中にもなかった。

  長男の張仕忠(チャン・シージョン)は十七歳で子どもをつくり、勘当された。自業自得だと突き放され、そのうえ、思いがけず生まれてきた女の子にかかる費用も、すべて自分で何とかしろと言い渡された。

  「あの張若曦(チャン・ルオシー)が餓死(がし)したって、儂には関係ない。」あの老いぼれは何度も長男をそう脅した。その「張若曦」と呼ばれている私が、もう十分その意味を理解できる年齢だったことなど、気にも留めずに。だから張仕忠は、私が人生で唯一尊敬し、それでいて二番目に憎んでいる男だった。少なくとも、私を餓死させはしなかった。けれど、私をこの世に生まれさせた。

  次男の張仕信(チャン・シーシン)は、長男がゴミ同然に捨てられたあと、その「待遇」をすべて受け継いだ。成績さえ良く、品行方正であれば、望むものは何でも与えられる。もともとの期待値が兄より低かったぶん、「台湾一の高校へ進学しろ」とまでは強要されなかった。だから張仕信が国立大学トップ十校の一つへ合格した時、あの老いぼれは村中で爆竹を鳴らして祝いかねないほど有頂天になっていた。

  末娘に対しては。

  最初から何の期待もしていなかった。

  成績も。従順な性格も。彼にとっては何一つ評価の対象ではなかった。女の子なんだから、それくらい当然だ。それだけだった。

  だからこそ。長年、何でも言うことを聞いてきた張月臻が、十数年積もり積もった怒りを一瞬で爆発させるなど、夢にも思わなかった。

  まして。彼女がずっと前から、この家を出て行く計画を立てていたことなど。


  その夜。彼女は当時付き合っていた恋人と駆け落ちした。


  けれど。

  地獄から逃げ出したからといって、その先が天国とは限らない。

  張月臻にとって、それは深淵から煉獄へ移っただけだった。彼女は今なお、地獄の中にいる。今日に至るまで、地獄の門前で。


※


  「妊娠二か月なら、まだ簡単に下ろせる。」

  Baileyと名乗る男が言った。

  「昔は三か月になる前は妊娠を人に話すなって言われてた。流れる可能性が高いからね。今Jadeをおろすのは、昔Lunaの件を処理した時よりずっと簡単だ。」

  私の表情に一瞬浮かんだ驚きを見逃さず、Baileyは小さく笑った。

  「どうした? Lunaから『あの件』の話、聞いてないのか? 一緒に住んでるんだから、もっと何でも知ってるのかと思ってた。」

  「……誰にだって、話したくない過去くらいあります。」

  「まあ、それもそうか。」

  そう言って煙を吐く。

  私たちはアパート近くの街灯の下で並んで立っていた。夜風は思った以上に冷たい。だからといって、この男を私と彼女の部屋へ招き入れる気にはなれなかった。

  「確かあの時はもう六か月近かった。一歩間違えば命まで危なかった。それで腕のいい産婦人科を探し回ったんだ。クラブのホステスたちがよく世話になってる産婦人科さ。だから俺は、あそこでLunaと知り合った。」

  「……つまり、あなたはJadeに伝えてほしいんですか。自分なら中絶の手配ができるって。」

  それにしても。

  この人はどうして連瑀辰の妊娠を知っているのだろう。

  私だって知ったのは今日なのに。

  「まあ……そうとも言える。でも、それだけじゃない。」

  私は小さくため息をついた。

  「回りくどい話は嫌いなんです。単刀直入に話してもらえますか。」夜風が、本当に寒かった。一刻も早く部屋へ戻りたい。

  Baileyは肩を揺らして笑う。

  「さすが『毒舌(どくぜつ)NANA』って有名なだけあるな……そう呼んでもいいか?」

  「ご自由に。」

  『毒舌NANA』?いつの間に、そんな妙なあだ名まで付いたんだ。

  男は吸い殻を地面へ落とし、靴先で火を揉み消した。

  「龍哥(ロンゴ)が押さえてるあの場所は、本当にいい立地なんだ。人目につきにくいし、広さもちょうどいい。昔から仲間はみんな、ビリヤード場やゲーム機なんかじゃなく、もっと大きくやれって勧めてた。でもあいつはどうしても足を洗うつもりだった。」

  男は鼻で笑った。

  「前の嫁と子どもに帰ってきてほしかったからさ。でも現実は思い通りにはいかなかった。龍哥が更生しても、嫁も子どもも戻ってこなかった。」

  話の流れからすると、「龍哥」とはビリヤード場の店長のことらしい。

  そんな呼び名は初めて聞いた。なんだか、ずいぶん中二病っぽい。

  「それでも龍哥は小さな商売を続けながら、Jadeを義理の娘として引き取った。俺たちはみんな、龍哥がJadeをどういう目で見てるか分かってた。俺も昔は龍哥の下で何年か働いてたからな。当時のあいつは本当に"龍(りゅう)"だった。でも今じゃ昔の子分なんて見向きもしない。……まあ、それはいい。」

  彼は煙草の箱を指先で弄びながら続けた。

  「もし本当にJadeを妊娠させたなら、クラブは一番の売れっ子を失うことになる。でも運のいいことに、Jadeは龍哥へ、自分の代わりになれる子を見つけてきた。」

  「……私のことですか?」

  男は頷いた。

  ああ。そういうことか。

  つまり。

  連瑀辰が妊娠した理由まで、「私のせい」になるわけだ。

  私は将来有望だった一人の男も。名の知れた一家も。そして今度は、一人の女の子まで壊せるらしい。


  ――主よ。私をこの世へ送り出してくださったこと、本当にありがとうございます。


  「俺の知る龍哥なら、こう考えるはずだ。Jadeが妊娠して子どもを育てる間、お前に店の看板を引き継がせる。たぶん明日か明後日には、Jadeからお前へ電話が来る。店を手伝ってほしいってな。」

  「私が引き受ければ、Jadeは安心して子どもを産める。そういうことですか。」

  「いや。」

  Baileyは首を横に振った。

  「お前が引き受ければ、龍哥はJadeに子どもを産ませる。そういうことだ。」

  男という生き物は。目的のためなら、どんな手段でも選ばない。

  「でも、私が断ったところで、Jadeが妊娠している事実は変わりませんよね。」

  「その通り。そして、それじゃ俺には何の得もない。」

  「だから結局、何を私と相談したいんですか。」

  Baileyは二本目の煙草に火をつけた。

  「龍哥の時代は終わった。昔世話していた議員も、この前の選挙で落選した。政治生命もそこで終わりだろう。そこまで持っていくのに、俺も相当骨を折った。それに、Jadeを妊娠させたことで、唯一の看板ホステスとの信頼関係まで壊した。」

  煙をゆっくり吐き出す。

  「単刀直入に言おう。龍哥が最後に持ってるシマは、俺がいただく。そのためには二つ条件がある。一つ目は、龍哥がJadeの代わりになる看板ホステスを見つけられないこと。Jadeが無事出産しようが、中絶しようが、龍哥との関係はそこで終わる。子どもを産めば家で育児をする。中絶したとしても、もう龍哥の店には戻れない。」

  彼は私へ向き直った。

  「だから、Jadeがお前に代わりに店へ出てくれと頼んできても、断れ。」

  一拍置いて、さらに言う。

  「それと同時に、Jadeを俺のところへ連れて来い。子どもは、俺が下ろしてやる。」

  これでJadeの妊娠の件は片がつく。

  「Jadeには事故で流産したように見せる。晩年になっても結局跡継ぎを残せなかった龍哥は間違いなく打撃を受けるだろうし、お前とJadeが二人ともビリヤード場を辞めれば、あとは俺が妥当な値段を提示すればいい。あの場所は俺のものになる。幸い、この前の選挙では賭けに勝ったからな。少なくとも今の市長と市議会議員の任期中は、あそこで商売をしても余計な横槍はあまり入らない。」

  男は勝利を確信したような表情を浮かべていた。どうして男という生き物は、いつもあれほど自信満々なのだろう。

  「……それで、私には何の得があるんですか? 正直、Jadeのことは気の毒だとは思います。でも、あなたたち『大人の世界』の事情には、あまり首を突っ込みたくありません。」

  伝言を一つ預かるだけなら構わない。JadeとBaileyを繋ぐだけなら、それくらいはできる。けれど、目の前の男の野心は、そんな程度では済まないことくらい分かっていた。

  男は煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

  「新しい店には、新しい人手が要る。お前とJadeが来てくれれば、俺も一から探す手間が省ける。」

  「だから、それが私にとって何の得になるんですか? 私は別に、そこで働かなきゃいけない理由なんてありません。」

  「三百七十五万。」

  Baileyは唐突に、その金額を口にした。

  「Lunaの借金だ。」

  「……子どもを下ろすのに、そんなにお金がかかるんですか?」

  男は吹き出すように笑った。

  「そんなわけない。」


  張月臻が恋人と一緒に台北へ出てきた時、二人には頼れる相手も、学歴も、これといった技能もなく、その日暮らしのアルバイトを掛け持ちして生活するしかなかった。

  張月臻は市場で呼び込みをしたり、檳榔西施(ビンロウシースー)をしたり、一時はスーパーのレジ係のような安定した仕事にも就いていた。そして恋人の方は――Baileyの話では。


  「何をやっても、稼いだ金は全部ギャンブルで溶かした。最後は女まで置いて逃げた。闇金が取り立てられる相手なんて、命拾いしたばかりで、中絶のあと診療所で静養していたLunaしかいなかった。だから俺があいつの彼氏――いや、元彼か――が高利貸しから借りてた三百五十万を立て替えた。手数料は二十五万。この業界じゃ、かなり良心的な方だ。」

  一割にも満たない。その業界の相場なんて私には分からない。そういうものなのだと受け取るしかなかった。それに、彼の言う通り張月臻があの状況に追い込まれていたのだとしたら、彼女には選択肢など最初からなかったのだろう。

  「Lunaは仕事で必要なもの以外、俺が売ってる共同購入のブランド品や高級化粧品なんてほとんど買わなかった。おかげで全然儲からなくてさ。」

  男は苦笑する。

  「家の躾(しつけ)が良かったんだろうな。」

  その「しつけ」を知っている私は、冷笑することしかできなかった。

  「最近は返済にもずいぶん必死でさ。普段なら受けない『大S(ほんばん)』までやるようになった。どうしてそこまでしてるのか、お前の方がよく知ってるんじゃないか。」

  いや。私は知らない。『大S』が何なのかさえ知らなかった。

  「まあ……『あの件』の後遺症ってやつかな。少なくとも二回相手にしてみたけど、大Sは向いてないと思った。『小S(スマタ)』くらいなら、まだ何とかなる。」

  ――あの件。

  してみた。

  S。

  私と彼女の部屋に何度も残されていた、この男の臭い。

  その瞬間だった。突然、息が詰まった。内臓という内臓が一気にひっくり返るような感覚。。激しい吐き気が込み上げ、胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうになる。

  男。

  彼女の身体には、この男の一部が入り込んでいた。


  「もしお前も少し手伝ってくれれば、Lunaだってずいぶん楽になると思う。それに、お前はLunaと少し顔立ちも似てる。心配しなくても、俺がうまく売り出せば、すぐLunaみたいな看板になれるさ。もちろん、『S』は一切やらないって条件でも――」

  そこで男は、不意に言葉を切った。

  「……どうした?」

  一筋の冷や汗が、こめかみを伝って流れ落ちる。

  「いえ……ちょっと、お腹の調子が悪くて。できれば家のお手洗いに戻りたいんです。」震えそうになる声を、必死で押さえ込んだ。

  「それは悪かったな。まあ、とにかく何かあれば名刺の番号に連絡してくれ。LINEでも構わない。」

  男はそれだけ言うと、話を切り上げ、そのまま闇の中へ消えていった。

  私は三歩を二歩に縮める勢いでアパートへ駆け戻り、部屋へ飛び込むと、そのまま浴室へ駆け込み、便器に向かって激しくえずいた。

  彼女が恋人と駆け落ちしたことは知っている。あの頃には、私ももうすぐ中学生になる年だった。

  男と女の間で何が起こるのかも知っている。あの老教授の言葉を借りるなら、「情欲の交流」。

  なのに、どうして。この激しい不快感も。吐き気も。生きていることそのものへの嫌悪も。次から次へと食道を逆流するように込み上げてくるのだろう。

  ――まるで、自分の子宮も、膣も、一緒に吐き出してしまいたいほどに。


  顔を上げる。洗面台の鏡に映っていたのは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった私の顔だった。涙で滲む輪郭(りんかく)は、それでも彼女によく似ている。同じ遺伝子を、一部受け継いでいるのだから。

  とりわけ、生母に唯一似ていると言われたこの目元が涙で霞むと、鏡の中にいる私は、まるで彼女そのものだった。ただ一つ違うのは。彼女ほど過酷な運命を背負ってはいないということだけ。

  私は線香もあげない。祈りもしない。神も信じないし、仏も信じない。

  もし、この世界に全知全能の神と、大慈大悲の仏が本当にいるのなら。どうして、こんな出来事が彼女たちに。私たちに。降りかかるのだろう。


  私たちは皆、誰かによって築かれた地獄の中を生きている。


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