36 プロジェクト馬車
またしても大物が自分の部下になるという人事に、戸惑いを隠せなかった。
確かに、この頃は帰参を許されてまだ日が浅いこともあり、家中での立場も微妙ではあったが、彼の戦場での働きぶりは誰もが認めるところである。
前田さんとは天ぷらパーティーの時チラッとお見かけしたくらいで、ほとんど話したこともないのだが、何でまた急にこっちに振ってきたんだろう。
信長さんは、「暫くそこに控えておれ」と言って、森さんと一緒に部屋を出ていった。
前田さんを呼びに言ったのかしらん?
話が早いのが信長さんの良いところではあるが、早すぎてこっちの頭の整理が追いつかないわ。
突然言われる方もたまったもんじゃないよな。
柴田さんは平気だったようだけど。
それから30分ほどして、本当に前田さんを連れて信長さんは戻ってきた。
まだ20台前半のやんちゃっぽさが抜け切れてない感じの若武者である。
「これが又左衛門じゃ」
「大谷吉子にございます」
「前田又左衛門利家にござる。これより三月の間、身辺警護を仰せつかりました」
「前田様ほどの方に付いて頂けるとは、望外な喜びにございます。以後よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします」
例によって武将スペックチェック〜!
前田又左衛門利家
1539年生まれ
年齢24
織田家:武将
所持金:1860
総合レベル:13
思想:革新
宗教:神道
名声:85
使用武器:天侠一文字(槍+刀)
領地:なし
能力値:
統率80、武力84、知略72、政治80
体力90、腕力86、技量62、乗馬7、砲術2、走力8
常駐スキル:傾奇者
製造スキル:なし
戦場スキル:先駆け
「又左本人に加え、此奴の側衆10人も一緒に付いてくる故、それなりの構えを用意しておけ」
「はっ!柴田様の使っておりました屋敷が空いておりますので、そちらにお移りいただくことになると思いますが、よろしいですか?」
「おおっ、柴田殿が使っていた屋敷であるなら、なおのこと有り難い!」
「フッ、此奴は権六を師と仰いでおってな、奴の残した垢まで舐めるから気をつけよ」
「えぇ〜?」
「いや、そこまではさすがに…」
さすがに…と言いながも、まんざらでもない感じの目の輝きを見たぞ。
まあ、この件には立ち入らないようにしよう。
「すぐにお移りになれるよう、準備しておきます」
「かたづけな……いや、かたじけない」
「ん?」
今何か言ったような…。
余計なことは考えないことにして、前田さんの受け入れ体勢と新たな領地開発計画策定のため、早々に清洲を出て、領地に戻る。
いつものように町子ちゃん…ではなく、千恵蔵君に受け入れ体勢の準備を進めるように指示を出す。
そろそろ仕事を覚えてもらわないとな。
早速、頂いた領地を見回りに行くとするか。
と、その前に、目録って何くれたんだろう?
すかさず待ち構えていたように新九郎が箱を差し出す。
どれどれ。
最初にもらった箱は、これから見回りに行く新しい領地についてであった。
なので、これはこれで良しと。
後からもらった方は、新しい武器だな。
鉄扇のバージョンアップ版かな?
これは武器屋まで取りに行かなくちゃいけないんだな。
今度で良いかな。
小一郎がいないからな、とりあえず、又右衛門と錦之輔を連れて行くか。
あ、もちろん新九郎も連れて行きますよ、はいはい。
ずっと千葉県と東京都の境目辺りが生活圏だったため、濃尾平野の地理的特徴や歴史的背景に疎い俺は、木曽川周辺の治水事情が全く分かっていなかった。
昔、中学の地理の時間に「輪中」という言葉を聞いた憶えがあるくらいで、木曽三川による水害に対する人々の戦いの歴史を全く知らない。
この時代に輪中と呼ばれる物が、どこにどれだけ作られたか確固たる資料は無いようだが、少なくとも下流域では何らかの水害対策がなされていたはずで、集落全体ではなくても河川に面した方向には堤防が作られていたようだ。
ともかく、木曽三川が大雨の度に氾濫しなくて済むようになるには、明治期に行われた三川分流工事を待たねばならなかった。
そのような大事業は江戸時代でも出来なかったのだ。
ましてや戦国期に出来るはずも無く、集落の周囲を堤防で囲う輪中という形にならざるをえなかったのだ。
今、城が建っている地域はわずかだが高地であり、水害の心配はないのだが、新しく頂いた領地はいわゆる後背湿地と呼ばれる地形で、川に対して城の周辺が自然堤防となっており、この地域は水はけの悪い粘土質の土壌となっている。
実際、小さな沼や池が数多く点在し、耕作地として使うのであれば、大規模な干拓工事を必要とするだろう。
また、こういった低湿地を土砂で埋め立てると、これまでこの湿地が受け入れていた氾水が、他の地域に流れ込むことになる。
そうすると、それまで水害の無い地域であったところに、突如として洪水が襲い、水害への備えの無い集落は甚大な損害を被るといったこともおこる。
信長さんが何を期待して俺にこの土地を任せたのかは想像の域を出ないが、突如として近代の土木技術が舞い降りるはずも無く、俺には手に余る事業としか思えない。
また、尾張側の河岸だけ堤防を作れば、後の御囲堤のように、美濃側にこれまで以上に水害が多発することになる。
そもそも木曽三川は、ワンパッケージで纏めて管理しなければならないものであり、川の西側東側で分ける意味が無い。
濃尾平野全体で治水対策を施さないかぎり、根本的解決は不可能なのだ。
要するに何が言いたいかというと、途方に暮れたというのが、今の正直な気持ちである。
それでも、構想段階で計画にあった環状4号線は通すことにしよう。
それが恐らく簡易の堤防のような役割になる。
それに伴って放射道路の延伸を進め、少しずつ開発していくほかは無いな。
小牧山城の建設に仮に秀吉が加わることになれば、小一郎も連れて行かれる可能性が高い。
墨俣の城下町の復旧もおおよそ目処が立ったと言うし、今が馬車を作れる最後のチャンスだ。
と言うことで、道路工事は又右衛門を奉行として進めることにしよう。
そのことを、一緒に見回りをしていた又右衛門に告げると、またしても泣き出すかと思いきや、「そうですか、いいでしょう、やってやりますとも!」と、なんか怒ったように言っている。
なんか気に障ること言ったかな?
すると錦之輔が「吉子様が途方に暮れている以上に、又右衛門殿は呆然としておりました故、やけっぱちになったのでは」そっと教えてくれた。
この時代、奉行を任された以上失敗は許されない。
失敗すれば、悪くすれば切腹などと言う事態もあり得るのだ。
まあ、そこまで負担を掛けるつもりは無いと、フォローしておいたが本人は既に覚悟を決めているようだ。
ザッと見回りを終え、城に戻ると、早速土地の縄張りを決める。
環状4号線の計画に基づき、道路を敷設するのだが、沼地の部分では大きく盛り土をして、5mくらいの土手を作り、その上に道路を作る。
ただし、完全に囲ってしまうのではなく、部分的に切り欠きを設けそこに水門を設置し、中に水が溜まらないようにする。
洪水が起きた時は門を閉め、水の侵入を防ぐ。
問題は水門の構造と材質だ。
この時代なので石と木で作る以外無いのだが、洪水の水圧に耐えられるような水門は、そうそう容易くは作れないだろう。
何処かで事例は無いですかね、神様?
※残念ながら洪水に耐えられるような、大規模かつ堅牢な水門となると、延宝年間に岡山藩で設置された吉井水門が最古とされているようですが、もっと小規模なものであれば有るには有ったようです。
小規模な物の例として、樋管と呼ばれる物は、堤防に埋め込み式の水管を通して、トンネルの出口に内側からしか開かない扉を付ける方式もあります。
これだと構造も小さくて済む利点はありますが、中からの排水量が少ないと門の蓋に障害物が溜まりやすく、洪水の際に役に立たないことがあったりして、門など作るより、堰そのものを切って排水する方が速いと言う説もあります。
なるほど〜。
なかなか難しいようだね。
※一応、吉井水門の資料です。
ん?あ〜どうも。
なーるほど石垣で囲って、そのすき間に落とし戸方式で作ったわけか。
※いずれにしても、門そのものの構造よりは、門に至るまでの水の管理、排水路や遊水池の設置などが重要になってきますね。
わっかりました。
ありがとうございます。
地下水の水脈なども調査しないとならないようだし、かなり綿密な計画を立てないといけないようだな。
どちらにせよ2〜3ヶ月でどうにかなるような話ではない。
縄張りは後回しにして又右衛門には、現地の水の流れを詳細に調査してくるように命じ、その間にこちらは馬車の製作の準備に掛かろう。
荷物を運ぶだけなら荷車を馬で引かせるだけでも構わないのだが、乗合馬車となるとそうはいかない。
ある程度乗り心地や安全性も確保しなくてはならない。
日本で馬車が普及しなかった理由としては、劣悪な道路事情と起伏の激しい地形、雨が多く道がぬかるみやすいこと、小形の馬しかいなかったことなど色々とあるようだが、やはり長距離を早く移動、または輸送することが必要ではなかったのだろう。
あるいはその必要性に気付かなかったか。
大量に荷物を運ぶ場合、船にはかなわないし、狭く曲がりくねった道を馬で走るのは危険なので、荷車は速度の遅い人か牛が運ぶことが適当となる。
やはり、街道が細く険しいというのが車と名の付く物の発達を妨げた要因だろう。
それでも馬車を普及させようと思ったら、色々と克服しなければならない技術的な課題がある。
速度がだいたい時速15km/hぐらいだとしても、乗合馬車となればサスペンションが必須となる。
また、泥道などでぬかるみにはまらないようにする工夫も必要である。
2頭立て4頭立てなど、複数の馬で引く場合の馬具の製造なども、ノウハウが無いうちは手探りではじめなければならない。
さらに橋なども、馬車が通るようには出来ていないので、川は基本的に渡れないという問題もある。
渡そうとすれば、渡し船の方も新しい船が必要となるだろう。
馬車ごと船に乗せる、言わばフェリーみたいな物である。
そこまでは行かなくても、何らかのシステムの変更が必要になるだろう。
ともかく、人が4〜5人乗れて、荷物も300kgぐらい積める、人荷兼用の馬車を10台ぐらい作りたい。
そのくらいであれば一頭立てでいけるだろうし、馬車も小型で済む。
構造の簡単な幌馬車方式が良さそうに思うが、まずは作ってみないことには分からないことだらけだ。
幌馬車は小船をベースに作られたと聞いたことがある。
実際に車輪を外して船として川を渡ることが出来たかは不明だが、可能ならそれも渡河の1つの手段である。
船をベースにした利点として、坂などで馬車が傾いても床が平らでなく、前後左右の縁が反り上がっているので荷物が滑り落ちないという。
ということで、上部構造には船を使うとしよう。
やはり最大の問題はサスペンションである。
考えられる手段として木材で作る板バネである。
広い意味で言えば弓も木製の板バネと言えなくも無い。
なので、その技術の延長で何とかなるんじゃないかと思う。
ただ、それが継続的に長時間衝撃に耐えられるのか、雨などで性質が変わらないか、摩擦で変質したりしないか、といった長期的な検証が必要となりそうだ。
次に問題なのが車輪だ。
この時代にベアリングなど無いのはもちろん、金属のネジも存在しない。
牛車という物が平安時代から使われているが、車軸に直接車輪が引っ付いた構造で、耐久性とメンテナンスに問題がある。
丈夫にしようと思うと重量が増して、実用性に問題が出る。
ただ、車輪の幅がある程度無いと、ぬかるんだ路面で車輪が泥に潜ってしまい使い物にならない。
昔の馬車の写真など見ると、結構細い車輪で自転車みたいな車輪が着いているのを見かけるが、あれは舗装が行き届いていることが前提になっているからだ。
石畳は到底無理なので、せいぜい砂利を撒くぐらいだ。
なので幅は7〜8cmは欲しいところだ。
さらに、木のままでは耐久性に問題があるため、可能なら薄い鋼鉄のベルトで包めれば良いのだがな。
そして最後に馬具である。
馬車と馬を繋ぐ道具であるが、これが全く日本に類似する物が無い。
ザックリと馬の首から胸にかけて革のベルトを掛けて、そこに馬車から生えてる棒を繋げて引っ張ってもらうぐらいの認識しかない。
この辺の細かい知識は、やっぱり宣教師がいないとダメかなぁ。
まあいい、とりあえず馬車を作っちゃえば何とかなるだろう。
と言う、かなり見切り発車な状態であるが、ザックリとした設計図を作り上げた。
例によって硯プロッターで馬車を図面に描き起こす。
そして要点を拡大して描き出して、構造を詳しく説明したものを用意して、秀吉の元へと向かった。
それを見た秀吉は、一言。
「ワシには無理じゃ」
「ええっ?木工は得意なんじゃないの」
「得意と言えば得意じゃが、それはあくまで家具とか、せいぜい小屋を建てる程度のもんじゃ」
「これを作るには、船大工と宮大工と鍛冶職人が要るじゃろう」
「そうかぁやっぱり大変か」
「まあ、尾張には掃いて捨てるほど居るがな」
「なんだよ」
「問題は、職人ちゅうもんはこれまで作ったことも無いものは苦手じゃちゅうこっちゃ」
「あ〜、応用が利かないのか」
「だから、完成した物が吉子の求める物になるかどうかは正直分からんな」
う〜ん、とりあえず清洲の町まで行ってみて、知っている職人に当たってみるしか無さそうだ。
神様も無責任なこと言うよな。
秀吉なら一日で出来るとか。
明日清洲に、武器を取りに行くついでに職人捜しをするから一緒に来るかと誘ったら、二つ返事でOKしてくれて、さらに小一郎も来るという。
その道すがら、小牧山築城の話もしておくとするか。
そう思いつつ我々は秀吉達を連れて吉又城へと戻っていった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
しばらくは内政になる予定です。
恐らく美濃攻めは来年の夏ぐらいですかね。
まだだいぶありますね(^_^;)
ひきつづきよろしくお願いします。




