39.兄と妹
急ぎの使者から手紙を受け取ったカーは、職務を抜け出し女学院へ向かった。
規律の厳しい近衛騎士団に所属するカーだが、実は今配置されている部署と肩書は見せかけの物である。だからカーが机を離れ、騎士団を不在にする事に見せかけの上司の許可は必要ない。
実際の所属は、公言される事の無いアーベル王太子直属の師団であり、カーに指示を与え処罰する事ができる上司は―――アーベル王太子その人のみとなっている。そして従兄のカーに関して王太子は特に大きな権限を預けており、時には王太子その人の許可を得ずに動く事も……許されているのだ。
しかし今回はあくまで私用だ。一応王太子に行先を知らせる通達を送り付けてから簡易な制服のまま女学院へと馬を走らせた。
ちなみに勤務中に私用を熟しても、カーが咎められることはない。何故なら現実にカーには休暇と言う物が与えられていないからだ。いつでも王太子の命があれば馳せ参じ、職務に従事する義務が課せられている。つまり公務が無い時を見計らって私用に当てるしか無い為、休息時間というものが無いに等しいのだ。
と言ってもバランス感覚の優れている彼の事、適当に息抜きはタイミングを計って行っている。……かと思えば、息抜きに見える遊興に興じる時間も、実質秘密裡の会議や根回しに当たっていたり、女性との逢瀬でさえも―――怪しい動きをしている貴族達の情報収集や彼等の取り締まりへの布石である場合も多い。端的に言うと、公私混同甚だしいと言うだけのことかもしれないが。
「おや?……随分顔色の良い病人がいるものだ」
女学院の待合室のソファに座っていたクラリッサを目に留めたカーは、馬を駆って来た疲れを微塵も見せずに嫣然と微笑んだ。
待合室に控えていた侍女はその妖艶な笑顔を見て頬を染めたが、クラリッサには勿論全く響かない。冷たい視線をただカーに向けるだけだった。お茶を配膳した侍女を下がらせて早速、クラリッサは優雅にカップを口に運ぶカーに向かって切り出した。
「ご存知なのでしょう?マックスが今日発つって事を。何故黙っていたの、お兄様。―――いいえ、その説明は後で結構よ。それよりマックスはいつ王都を離れるの?彼に会いたいの、お願い。お兄様なら何とかできるのでしょう……!」
クラリッサは一気にそう捲し立てると、正面に座るカーに縋る様な視線を向けた。
カーはその様子を、足を組みソファに背を持たせかけ長い手指を組み合わせて、悠然と眺めていた。その落ち着いた様子に、クラリッサは微かに苛立ちを覚えたが、口には出さずカーの出方を待った。
「ふふっ―――珍しいね。我儘なんて」
「……」
「それに仮病でしょ?いいの?自治会長が自ら。―――どう見ても頭痛や腹痛に苦しんでいるようには見えないよね、急を要する病にはとても……」
「ねえ、焦らさないでお兄様―――マックスは遠くへ行くんでしょう?」
カーはカップを優雅にテーブルに戻し、軽く組合わせた手を太腿の上に置いて身を乗り出し、意味深に微笑んだ。
「ああ」
「何処なの?期間は?」
「―――」
「お兄様……お願い」
クラリッサは立ち上がり、カーの手を取って屈み込んだ。
カーは彼女の真剣な瞳を見上げ、苦笑を零した。
「ヴァルドール」
「え?」
「ヴァルドール領へ向かう派遣団の一員として、マクシミリアンは派遣される」
「ヴァルドール……そんな遠くに?」
ヴァルドールと言えば、王都から一番遠い海岸沿いの領地だ。それに聞き覚えのあるその領地に……クラリッサは眉を顰めた。
「危険は……無いのでしょう?彼は未だ見習い騎士の筈よ」
カーは薄く笑った。
「危険は無いよ。その派遣任務自体にはね。けれども自由時間のマックスに―――危険が無いとは言えないけれど」
「え……?」
クラリッサは兄の言葉に、耳を疑った。
思わず銀色の薄い瞳の中を覗き込む。カーの冷酷な台詞に一瞬理解が追い付かなかったのだ。
「俺がマックスをヴァルドール領に派遣するよう手を回した。見習い騎士が一人だと怪しまれるから、カモフラージュにもう一人お友達を派遣団に加えてね」
「それが……ウーラント様ね?」
クラリッサの指摘に、カーは目を細めた。
「マックスには色々と調べて貰わなきゃならない事があるからね」
「お兄様……一体何を?」
歌うように弾む声は、この場に似つかわしくない。
クラリッサは一番年の近いこの兄を、初めて恐ろしいと思った。
「内緒」
「え?」
「これは『お仕事』だよ、クラリッサ……一介の女学院生が知って良い事じゃない」
「お兄様……!」
ここまで話しておいて……!とクラリッサは眉を顰めた。
本能で分かった。カーはクラリッサを揶揄って遊んでいるのだろうと。
「じゃあ、こう思っていればいいよ。そうだなぁ、例えば―――妹可愛さに彼女への求婚者の素性を調べたいと思った愚かな兄が……普段から親しくしている学院の後輩が偶々その土地に派遣されたから―――私的な事を調べるように頼み込んだって」
「お兄様?……もしかしてそんな戯言でマックスを危ない事に巻き込んだっておっしゃるの?」
「彼は『是非に』と二つ返事で頷いてくれたよ―――大好きな……友人の為なら、と言ってね」
「まさか!お兄様の事だからどうせ無理強いしたんでしょう?そんな理由で危険な仕事を引き受ける訳無いわ」
苦々し気にクラリッサが呟くと、フフッと意味深に彼女の兄は笑った。
ほとんど肯定したも同意だと、クラリッサは思った。しかし今はアレコレ詮索したり、追及したりする時間は無い。
クラリッサはパッとカーの手を離し姿勢を正すと、兄を見下ろしこう言い放った。
「もうどっちだっていい。正式な辞令ならヴァルドール行きは止められないのでしょう?なら、兎に角彼が出立する前に、マックスに会わせて……!」
不遜にカーを見下ろす美しい妹を上目遣いに見上げて―――クスリとカーは笑った。
そしてスッとソファから立ち上がると、口角をゆっくりと上げてこう言った。
「ではご案内しましょう。アドラー家の至宝、我が愛しの妹、クラリッサ様のご用命とあらば」
そう言って慇懃に腰を折り、彼は優雅な貴族の礼を彼女に示した。その流れるような仕草を見れば、貴族女性達は目を奪われ熱い吐息を吐き出した事だろう。
けれどもクラリッサは芝居がかった兄の御ふざけに呆れたように溜息を吐いただけだった。お道化て慇懃に腰を折るカーを憤懣やるかたない顔で眺め、声を押し殺してこう言い放ったのだ。
「御託はいいから連れてって……!」
カーは妹の苛立ちを面白そうに眺め、笑い出した。
「了解。俺の馬に乗せてやる。飛ばすから舌を噛まないように気を付けろよ」
早馬に乗った経験などないクラリッサは一瞬蒼くなり―――しかし、覚悟を込めた神妙な表情でコクリと頷いたのだった。




