第七話「脇出家と金津家」
お待たせしました、第七話です。
今回は戦闘なしの会話回ですが、個人的にはここが第三章のターニングポイントだと思っています。
美奈子ちゃんがやってきたことで、福江市の"古い因縁"が少しずつ動き始めます。
脇出家と金津家。
政治家一族同士の対立、という表向きの話の奥に、もっと根深い何かが眠っている――そんな空気を、大溝奈緒先生の口から語ってもらいました。
奈緒先生、今回かなり良い顔してると思います。怖いけど、生徒から逃げない先生。個人的にお気に入りのキャラです。
そして「寿満寺縁起」という単語が、ついに作中に登場しました。
これ、今後の伏線としてかなり重要なキーワードになりますので、覚えておいていただけると嬉しいです。
それでは、第七話どうぞ。
六月の放課後。清王学園高校の体育館には、まだ熱が残っていた。
シューズの音も、顧問の号令も、もうない。ネットは緩められ、ボールはカゴに収まり、ラインテープの白が蛍光灯の光を静かに反射している。
山室綾実は最後まで、モップを動かしていた。
義務ではなかった。ただ、手を止めると考えてしまうから。
脇出美奈子。
今日、二ヶ月遅れで登校してきたばかりの少女。廊下を歩く足取りに、まだ慎重さが残っていた。歩美に名前を呼ばれて、少し驚いて、それから小さく笑っていた。教科書を両手で抱えたまま、ロッカーの前でほんの一瞬だけ迷っていた。
その名前が、どこか遠い場所で、別の名前と響き合っている気がした。
金津美里。
根拠はない。ただ綾実の目は、見たくないものまで時々見えてしまう。
大溝奈緒が、腕を組んだまま立っていた。
視線はコートに向いているが、目はコートを見ていない。考え込んでいる、という言葉よりも、何かを押さえ込んでいる、という方が近かった。
綾実がモップをしまいに動いたとき、入口に人影が見えた。
波松伊織が、静かに入ってきた。体育館全体を一度だけ見渡し、奈緒の様子を認めた。それだけで伊織の目が、わずかに変わった。
綾実は奈緒のそばへ歩いていった。
「先生、何を考えているのですか?」
奈緒は一度だけ綾実を見た。少し間を置いて、口を開く。
「脇出家と金津家のことよ」
その二つの名前が並んだ瞬間、綾実の背筋に冷たいものが走った。
予感ではなく、確信に近いものだった。
伊織が綾実の隣に並ぶ。
「脇出さんのご家族のことですか?」
「美奈子さん本人は何も悪くない」
奈緒は最初に、それだけをはっきりと言った。
「ただ、あの子の苗字を聞いて、ずっと引っかかっている」
「脇出という苗字が、ですか?」
「福江市では、少し特別な名前なのよ」
奈緒は体育館の窓へ視線を向けた。
「昔、脇出家と金津家の両方から、自由国民党の議員が出ていた。どちらも、福江市周辺では強い影響力を持った名家。ただし、仲は悪かった。昭和から平成初期まで、かなりね」
体育館の奥で、男子部員の笑い声が短く弾けた。
三人の周囲だけが、重かった。
「脇出家は、地域を守ろうとする家だった。住民の生活、土地の調停、古い共同体の維持。そういうものを大事にした」
一度、言葉が止まる。
「金津家は、地域を動かそうとする家だった。開発、権力、改革。福江市を変えていく側に立ちたがった」
「守る家と、動かす家」
綾実が静かに繰り返す。
「表向きはね。政策の違い、後援会の分裂、地元利権の争い。そういう話として記録されている」
奈緒は短く言って、そこで目を閉じた。
「——ただの政治の話なら、あなたたちに言わなかった」
その一言が、体育館の空気を変えた。
綾実は、もう一度だけ美奈子の姿を思い出した。ロッカーの前で一瞬だけ迷っていた、あの静かな背中。この話の中に、あの子が名前ごと入っている。
伊織が、静かに返した。
「その先があるということですね」
奈緒は答えない代わりに、続けた。
「脇出家の議員が、殺された」
窓の外で、雨粒がガラスを叩く音が一瞬だけ強くなった。
それから、また静かになった。
男子部員の笑い声も、いつの間にかなくなっていた。天井灯だけが、低く唸るような音を立てている。
「——殺された、と言いましたか」
伊織の声が、わずかに揺れた。いつもの平静とは違った。
「ええ」
奈緒は続ける。
「事故ではなく、殺人。だが真相は曖昧なまま処理された。少なくとも、当時の記録を読む限りではね」
「それ以降、脇出家から政治家は出なくなったのですね」
伊織が確かめる声は、一段低かった。
「そう。金津家は形を変えて影響力を残した。でも脇出家は、政治の表舞台から消えた」
綾実はまた、美奈子の顔を思い出した。廊下を歩いてきた、少し控えめな足取り。ロッカーの前で一瞬だけ迷った背中。
政治家。殺害事件。そういった言葉とはまったく結びつかない、あの静かな少女が。
この話の中に、名前ごと、入っている。
「……先生は、脇出さんが狙われると思っているのですか?」
奈緒はすぐには答えなかった。
「証拠はない。だから教師として断言はしない」
一度、言葉を切った。
「でも、大人としては警戒する」
綾実はその言葉に、奈緒という人間の輪郭を改めて感じた。怖いが、逃げない大人。甘いことは言わない。だが、生徒を見捨てない。
「——表向きの話が、ここで終わらないとしたら」
伊織が静かに言った。感情を荒立てない、いつもの声だった。だが、問いの重さが違った。
「私が気になるのは、その殺害事件が、なぜ曖昧なまま処理されたか、です。力がある家の人間が殺されて、真相が消えた。それには、相応の理由があったはずです」
奈緒は、静かに伊織を見た。
「そうね。そしてその理由が、政治だけで説明できなかったから、記録が濁った可能性がある」
奈緒はしばらく黙った。
窓の外に目をやり、それから静かに二人へ視線を戻した。言うべきかどうか、決めあぐねているような一瞬だった。
「政治の記録とは別に、寺に残った古い文書がある」
声が、わずかに低くなった。
「福江市の外れに、寿満寺という古い寺がある。表向きは平凡な寺よ。ただ、そこには通常の歴史書には記録されていない名前がいくつか残されている。脇出家と金津家は、その文書とも繋がっている」
「寿満寺縁起、ですか」
伊織が言った。
奈緒が少し眉を上げた。
「知っているの?」
「名前だけは。福江市の郷土史に、一行だけ出てきます。『寿満寺所蔵の古文書に、市内の由緒ある記録あり』と。ただ、それ以上の記述はどこにもない」
「そうね。普通の郷土史には出てこない」
奈緒は短く言って、少し間を置いた。
「その文書に何が書かれているか、私もまだすべては確かめていない。ただ一つだけ言える。脇出家と金津家には、どちらにも龍の話が残っている」
綾実と伊織が、顔を上げた。
「ただし、同じ龍じゃない」
「——どういう意味ですか」
奈緒は短く答えた。
「片方は、空を見ていた。もう片方は、地面を見ていた」
その言葉が、体育館の空気の中に落ちた。
音もなく、静かに。
空の龍と、地の龍。守る家と、動かす家。そして今この福江市に、脇出美奈子と金津美里という名前が、同時に揃いつつある。
偶然ではない。
絶対に、偶然ではない。
「山室、波松」
奈緒は二人の名前を呼んだ。ぶっきらぼうで低い、いつもの声だった。
「脇出さんの様子を、少し気にしてあげて。監視じゃない。ただそばにいてあげてほしい。あの子はまだ、自分の家のことを何も知らないはずだから」
「美奈子さんには、この話を伝えないのですね」
伊織が確かめる。奈緒は首を横に振った。
「今は言わない。あの子は今日、ようやく学校に来たばかりよ。いきなり家の因縁なんて背負わせる必要はない」
「でも、危険があるなら」
「山室」
奈緒が、静かに遮った。
「知ったからといって、すべてを本人に伝えることが正義とは限らない」
綾実は口を閉じた。
奈緒は少し間を置いてから、低い声で続けた。
「お前は見えたものを全部、自分一人で背負おうとする。それは優しさじゃなくて、傲慢になることもある」
綾実は視線を落とした。
「……先生も、背負っているように見えます」
奈緒が一瞬だけ、言葉に詰まった。
伊織がその横顔を、静かに見つめる。
体育館の外で、雨脚が強くなった。ばらばらと屋根を叩く音が、体育館の中へ染み込んでくる。
奈緒は窓の外を見た。
「教師はね、生徒より先に怖がってはいけないのよ」
「怖くないのですか?」
伊織が問うた。
「怖いわよ」
奈緒はまっすぐ窓の外を見たまま続けた。
「怖いに決まってる。でも、怖いから見ないふりをする大人にはなりたくない。それだけよ」
夕方の光が窓の外で灰色へ変わり、床に伸びていた影が消えた。
「先生も、少し休んでください」
伊織が静かに言った。
奈緒は少しだけ口元を緩める。
「生徒に心配されるようになったら教師も終わりね」
「いいえ。心配される先生の方が、信用できます」
奈緒はため息をついた。だがそのため息には、嫌味はなかった。
奈緒は最後に、低く言った。
「脇出美奈子さんは、ただ病気で遅れてきた生徒じゃないのかもしれない。そして金津美里も、ただの危険人物じゃない。この街の古い何かが、二人を向かい合わせようとしている」
雨音が、強くなった。
「龍が、龍を呼んでいる」
三人は、雨の音だけを聞いていた。
綾実は窓の外を見た。濡れていく校庭。灰色の空。どこかでまだ何も知らない脇出美奈子が、今日の授業の余韻を胸に、帰り支度をしているはずだった。
「……可能性は、低くないわ」
気づけば、口から漏れていた。
奈緒はそれを聞いて、何も言わなかった。
否定しない、ということが、肯定と同じだった。
雨は、まだ強くなっていた。
◇
翌朝、綾実が校舎の廊下を歩いていると、奈緒が職員室の前に立っていた。
何かの資料を手にしている。表紙は見えない。
ただ、それを持つ奈緒の指先が、わずかに白くなっていた。
力が入っている、と綾実は思った。
そして次の瞬間、もっと正確な言葉を見つけた。
先生は、もう動いている。
奈緒は綾実に気づかず、職員室へ消えた。
綾実は廊下に一人残り、昨日の雨の匂いがまだ残る朝の空気を吸い込んだ。
寿満寺縁起。
普通の郷土史には一行しか出てこない、古い文書。
先生が昨夜から読んでいたとすれば、その文書には何が書かれていたのか。
空の龍。地の龍。
片方は、空を見ていた。もう片方は、地面を見ていた。
綾実は視線を廊下の窓へ向けた。まだ雨は続いている。空は低く、光を溜め込んだまま放さない。
「——空の龍は、一体何を見ていたの」
呟きは誰にも届かず、廊下に消えた。
朝のホームルームまで、あと十分だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
奈緒先生が口にした「空の龍」と「地の龍」。
脇出家と金津家、それぞれが見ていた龍の姿が違う――この対比、次話でもう少し掘っていきます。
次回タイトルは「空の龍、地を歩く龍」。
美奈子ちゃんの霊護獣の正体と、金津美里側の"恐竜の鬼"の正体、その両方に関わる重要な回になりますので、ぜひ楽しみにしていてください。
綾実の「視える」体質や、伊織の冷静な観察力も、今後さらに意味を持ってきます。二人の今後の動きにも注目していただけると嬉しいです。
ブックマーク、評価、感想、いつも本当にありがたく読んでいます。
「ここ好きだった」「奈緒先生いいキャラしてる」など、一言でも構いませんので、感想いただけると次回以降の執筆の励みになります。
次話もできるだけ早く投稿予定です。よろしければそちらもお付き合いください。




