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雨龍覚醒――銀の空を呼ぶ少女  作者: 孔雀丸


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8/12

第8話「空の龍、地を歩く龍」

第8話をお届けします。

今回は戦闘のない、会話だけの一話です。

社会科準備室という狭い空間で、大溝奈緒が語る「脇出家と金津家の信仰の違い」。

空を飛ぶ龍と、地を歩く龍。

この対比が、美奈子と美里、二人の運命をどう繋いでいるのか。

静かな話ですが、第三章の核心に触れる回だと思っています。

どうぞゆっくりお読みください。

 放課後の校舎は、湿った雨の匂いがした。

 梅雨の午後は長い。窓の外では乳白色の雲が低く垂れ込め、遠くの山並みをまるごと飲み込んでいた。雨は一時止んでいた。だが空は、まだ降り足りないとでも言うように、灰色のままどこまでも続いている。

 清王学園(せいおうがくえん)の社会科準備室は、地図と資料集と古い紙の匂いが混じった、教室より二回り狭い部屋だった。放課後に残る生徒はめったにいない。今日は四人がそこにいた。

 大溝奈緒(おおみぞなお)山室綾実(やまむろあやみ)波松伊織(なみまついおり)。そして、脇出美奈子(わきでみなこ)

 前日の放課後、体育館で奈緒が語り始めた脇出家(わきでけ)金津家(かなづけ)の話は、うまく終われていなかった。続きを聞かせてほしいと申し出たのは、綾実と伊織だった。美奈子は何も言わなかったが、二人が来ると聞いた時、自分も行きます、と静かに言った。

「昨日の続き、話せる範囲で話すわ」

 奈緒は窓際に立ち、腕を組んだまま切り出した。業務的ではなかった。教師というより、自分自身の中にある疑問を、声に出しながら整理したいのだという気配があった。綾実はそれに気づいたが、口にしなかった。邪魔するより、待つほうがいい。

 美奈子は、制服の上から薄いカーディガンを重ねていた。六月だというのに、指先が冷えやすい。椅子に浅く座り、両手を膝の上で重ねていた。何かを守るような姿勢だった。本人は気づいていなかった。

「昨日は政治の話に寄りすぎたから」

 奈緒は続けた。

「今日は、もっと前の話。政治の対立より、ずっと昔にある話よ」

「昨日の……『二つの家は信じるものが違った』という話ですか」

 伊織が、感情を混じえない確認の声で言った。

「そう」

 奈緒は少し考えてから言った。

「脇出家は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)よ」

 室内に、小さな沈黙が落ちた。

「弱い者を見捨てない信仰よ。だから脇出家は、江戸時代から飢饉や争いのたびに、住民の側に立ってきた。力のある家が弱い側に立つというのは、信仰がなければなかなかできることじゃない」

 脇出家。

 自分の家の名前だった。

 奈緒がその名前を口にした瞬間、美奈子の指先がほんのわずかだけ冷えた。カーディガンの袖を引き下げたかった。でも手が動かなかった。

 父や祖母が仏壇の前で手を合わせていた姿は、記憶の中にある。何が祀られているのか、子どもの頃には深く考えたことがなかった。祖母の手の形と、線香の匂いと、夕方の光が畳に落ちる角度だけを覚えていた。

 それが今、この狭い準備室で、別の意味を持ちはじめている。

「金津家は」

 綾実が、静かに促した。

 美奈子が少し固まっているのを感じて、話を動かすためだった。

曹洞宗(そうとうしゅう)よ。ただ、問題は宗派より、信仰がどう使われたか、ね」

 奈緒は言葉を選んだ。

「脇出家の信仰は、弱い者の側に立つという方向に動いた。金津家は……言いにくいけれど、弱さそのものを否定する方向に、長い時間をかけて歪んでいった」

「歪んだ、というのは」

 美奈子が、初めて自分から声を出した。

「弱い者は救われるべきだ、ではなく。弱い者は強くなるか、利用されるかしかない。そういう考えがどこへ行き着くかは……」

 奈緒は続けなかった。

 答えは、四人の中にすでにあった。金津美里(かなづみり)が今まさにこの街でやっていることとして。

 美奈子は、膝の上の手を見た。病院で何百回も天井を見た手。点滴の針跡がかつてあった手。その手が、今少しだけ震えていた。弱い者は利用されるか。自分の体のことを思った。利用される側とは、どういうことなのかを、体で知っている気がした。

 窓の外で、鳥が一羽、低く飛んだ。

「つまり」

 伊織が、間を置いてから言った。

「金津美里の考えは、その歪みの先にある、ということになりますね」

 奈緒は否定しなかった。

「私の見立てでは。ただし、これは宗教の話じゃない。もっと古い話よ」

 もっと古い。

 その言葉が出た瞬間、奈緒の声にわずかな躊躇いが混じった。一線を越えようとしている気配を、綾実は感じた。確認できていない何かの側へ、踏み込もうとしている。

 奈緒は棚から、薄い紙の束を取り出した。コピーされた古い文書が何枚も重なり、手書きの地図も混じっていた。表紙の端には、奈緒の手書きで「寿満寺(じゅまんじ)・資料」と書かれた黄色い付箋が貼ってある。

「脇出家と金津家には、宗派の違いよりずっと昔から、共通する信仰があった」

 綾実は、無意識に背筋を伸ばした。

「龍神信仰よ」

 その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が少しだけ変わった。音はしなかった。ただ、肌の表面がほんの少し変わった気がした。綾実は自分の指先を、一度だけ確認した。

「福江市の周辺には、水と雨と大地に関わる龍神を信じる習慣が古くからあった。脇出家も金津家も、村の肝煎として、その信仰を管理してきた。ただし」

 奈緒は、そこで言葉を切った。

「二つの家が信じた龍の姿は、まったく違っていた」

 雨雲が、また動き始めていた。

 窓の外では、遠くの山の輪郭が雲に沈んでいく。地面はまだ乾いているのに、空はすでに次の雨を準備していた。

「脇出家の龍は、空を飛ぶ龍だったと伝わっている」

 奈緒の声が、少し変わった。確信ではなく、もっと慎重な何か。教師が語るのではなく、長い記録を読み上げる人間の声だった。

「雲をまとい、空を渡り、雨を恵みに変える存在。天と地をつなぎ、光と水をもたらす龍。脇出家は、その龍を祈ることで、村に豊穣を呼ぼうとしていた」

 美奈子は、窓を見た。

 低い雲の間から、細い光が一本だけ差し込んでいた。ほんの一瞬のことで、すぐに雲が閉じた。

「金津家の龍は、違った」

 奈緒は、コピーの束の中から一枚を取り出した。

「これが、残っている写しよ」

 奈緒はそれを机の上に置いた。差し出すのではなく、ただ置いた。

 美奈子は、気づけばそれを覗き込んでいた。

 古い絵を写したものだった。紙は真っ白でも、写し取られたものの年齢がにじんでいた。

 四本の脚で地面を踏みしめ、分厚い頭部を持ち、尾が岩を圧するように描かれた生き物だった。首が太く、翼がない。跳ぶためではなく、踏み潰すために生まれたような体だった。その足元には、小さな、人間らしいものが描かれていた。踏まれているのか、食われているのか、よく分からなかった。描いた者は、正確に描こうとしていた。だからこそ、気持ち悪かった。

 美奈子は、無意識に左手を胸元に当てていた。

 自分でも気づかなかった。

 部屋が、静かになった。

 誰も最初の一言を出せなかった。

「…………恐竜」

 伊織が、静かにそう言った。

 その一言が、準備室に落ちた。

 誰も動かなかった。雨音だけが続いていた。

 奈緒が、ゆっくりと頷いた。

「そう見える。金津家にとって龍とは、空から恵みをもたらす存在ではなかった。大地を踏み、世界を従わせ、弱い者を圧する存在だった。力の象徴。支配の象徴。原始の王」

 綾実は、指先が少し冷えるのを感じた。カードの縁を探す癖が、膝の上でひそかに動いた。

「脇出家の龍は、空へ向かう」

 奈緒は続けた。

「金津家の龍は、地を這う」

 誰も何も言わなかった。

 空と大地。恵みと支配。解放と圧制。同じ「龍神」と呼ばれながら、二つの家が見ていたものは、まったく別のものだった。

「先生」

 綾実が、静かな声で言った。

「美奈子の家が空の龍を信じていたなら、美里が従えているものは——地を歩く龍、ということになりますね」

 奈緒は答えなかった。しかし、その沈黙が答えだった。

 しばらく誰も喋らなかった。

 窓の外では、雨がまた降り始めていた。細い雨だった。激しくはなく、しとしとと地面に染み込んでいくような、梅雨特有の雨だった。地面が、水を飲んでいる。吸い込んでいる。

 美奈子は、気づけば窓の外を見つめていた。

「先生」

 美奈子は、言った。

「私と美里は——最初から、向き合うように生まれてきたんですか」

 奈緒は少し間を置いて、美奈子を見た。

 厳しくなかった。ただ、正直だった。

「偶然かどうかは言えない。でも……あなたの名前は、この話の中にある。それだけは確かよ」

 美奈子は、膝の上の手を見た。

 細い指だった。点滴の針跡がかつてあった手だった。病院のベッドで天井を見続けた日が、何百日もある手だった。ただの病弱な少女ではないかもしれないという考えが、前からも後ろからも同時に押してきた。どこへも逃げられない重さだった。希望でも恐怖でもなく、ただ重かった。

「もし、空の龍が脇出家と繋がっているなら」

 美奈子は、ゆっくりと続けた。

「地を歩く龍が金津家と繋がっているなら。それは、今でも、続いているんですか」

 奈緒は腕を組んだまま、少し間を置いた。

「続いていると思う。ただし形が変わって」

「どういう意味ですか」

「江戸時代は、村の統治という形だった。昭和から平成は、選挙と政治という形だった。そして今は——」

 奈緒は言葉を止めた。

 止めた理由は、分からないからではなかった。まだ確認できていない部分があるからだった。綾実は、奈緒のその止め方を見て、少し安心した。この教師は正直だ、と思った。

「先生」

 伊織が言った。声に、普段より少し重さがあった。

「以前、鬼の名前を聞いて思い出した文書がある、と言っていました。資料の付箋に書いてある……寿満寺、というのがそれですか」

 奈緒の手が、コピーの束の上に無意識に置かれた。押さえるような仕草だった。一度そうしてから、自分でそれに気づいたように、ゆっくりと手を離した。

「……寿満寺縁起(じゅまんじえんぎ)

 その名前を口にした瞬間、奈緒の声がわずかに低くなった。

「そこに、もう少し詳しいことが書かれているかもしれない。ただ……全部を信じていいものか、私にも分からない。そういう種類の文書よ。できれば、明日、現物を確認してからにしたい」

 現物。

 その一言が、伊織の視線をわずかに動かした。文書がまだ存在している。どこかに。

 その名前を美奈子が耳にした瞬間のことを、後から誰かに説明できたとすれば、おそらくこう言っただろう。

 何かが、鳴った、と。

 ちりん。

 鈴の音に似た何かが、美奈子の胸の奥で一度だけ響いた。実際に音がしたわけではなかった。耳ではなく、もっと内側の、どこか深いところで聞こえた気がしただけだった。

 美奈子は、思わず窓に目を向けた。

 雨雲の切れ間が、ほんのわずかだけ開いていた。そこから差し込む光は、地面ではなく、空の奥から来ていた。地を照らすのではなく、空へ向かう光だった。

 一瞬だった。すぐに雲は閉じた。また雨が、静かに降り続けた。

「寿満寺縁起」と、美奈子は小さく繰り返した。

 誰も、彼女の表情の変化に気づかなかった。

 綾実だけが、少し目を細めた。美奈子の横顔が、ほんのわずかだけ変わったように見えた。何なのか、まだ綾実にも分からなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 美奈子の手が、膝の上でそっと握られていた。さっきまで開いていた手が、今は小さく拳になっていた。

 その拳を、綾実は見た。

 自分の予感というものを、綾実はあまり信用しない。空気が変わる感覚も、肌が立つ感覚も、何度か外れてきた。

 でも、この拳だけは、はっきりと分かった。

 この子は、まだ自分が何者か知らない。でも、もうすでに、何かを守ろうとしている。

 雨音は続いていた。

 地面に染み込みながら地下へ向かう雨と、空の奥から差す細い光だけが、準備室の窓に重なっていた。

 美奈子は、まだ自分の手を見ていた。握った理由が、自分でも分からなかった。

 ◇

 翌日、奈緒は一人で放課後を過ごした。

 帰り際に社会科準備室へ寄り、棚の奥から一冊の古いファイルを取り出した。表紙には何も書いていない。中のコピーは色が変わっていた。ずいぶん長い間、誰にも見せていなかったものだった。

 奈緒はそれを鞄に入れた。明日、持ってこようと思った。準備室の電気を消し、廊下に出た。窓の外では、雨がまだ続いていた。


第8話、ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回は、奈緒先生の語りを通して、脇出家と金津家の根底にある違いを描きました。

「空を飛ぶ龍」と「地を歩く龍」。

同じ龍神信仰でありながら、片方は恵みを、片方は支配を象徴する。

この対比は、美奈子と美里という二人の少女の対比そのものでもあります。

美奈子が無意識に左手を胸に当てる仕草、鈴の音、雲の切れ間から差す光。

これらはすべて、これから先の展開に繋がる伏線です。

特に綾実が見た「美奈子の拳」は、彼女自身もまだ気づいていない、覚醒への小さな第一歩です。

次話は、いよいよ『寿満寺縁起』そのものに踏み込みます。

如珠聖人が見た曼荼羅には、何が描かれていたのか。

福江市という土地に眠る宿命が、ここで一気に動き出します。

どうぞ次回もお楽しみに。


※本作の執筆にはAIを活用していますが、構成・設定・著作権・編集方針はすべて作者が管理しています。


何か調整したい点(語尾、固有名詞の見せ方、文字数の伸縮など)があれば教えてください。

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