第6話「一年一組の新しい席」
第6話、お届けします。
今回はついに、脇出美奈子が一年一組の教室に足を踏み入れる回です。
二ヶ月遅れの登校、特別扱いへの疲れ、そして「ありがとうございます」を言いすぎてしまう申し訳なさ。美奈子というキャラクターを動かす上で、私が一番大事にしたのは「過剰な優しさ」を誰にも言わせないことでした。
十彩獣団の十人は、美奈子を気の毒な子として扱いません。教科書のページを教える。消しゴムを拾う。顔色が悪ければ「座ってていい」と一言だけ言う。それだけです。同情の言葉を一つも使わずに、それでも温度が伝わるように――そこを丁寧に書いたつもりです。
そして最後に、ほんの小さな振動が一つ。
まだ何も始まっていません。でも、何かが、確かに動き始めています。
それでは、第6話「一年一組の新しい席」をどうぞ。
扉が開く前から、教室の中はざわついていた。
朝のホームルームまであと十分という時間帯、一年一組の廊下側の扉は閉まったまま。黒板には「六月十日(月)」と担任の吉崎瑞紀の字で書かれていて、隣に「今日から新しいクラスメイトが来ます」の一文が続いていた。
その一文を読んだ者が何人か、なんとなく扉の方に視線を送り、なんとなく視線を戻す。
ざわつきとも呼べない、小さな宙吊りの時間だった。
慎悟は窓際の席で腕を組み、外の空を見ていた。
曇っている。
昨日の夜から降り続けた雨は明け方に止んでいたが、空気はまだ湿っていた。アスファルトの匂いが教室まで薄く届いている。梅雨というのは本当に正直で、雨が止んでも「まだ終わっていない」とずっと主張し続ける。
「慎悟」
南海が後ろから声をかけた。席は一つ後ろ。ツインテールを軽くほどきながら「また外ばかり見てる」と少し呆れた顔をしている。
「今日来る子のこと、考えてた」
「脇出さんね」
「名前、さっき板書で確認した」
「あなたって、律儀だよね、そういうところ」
南海が微笑む。慎悟はそれに何も返さず、ただ「ちゃんとしてやれるといいな」とだけ言った。
南海は少し考えてから、「ちゃんとって、どういうこと?」と聞いた。
「普通に、ってことだよ。特別扱いじゃなく」
南海は数秒黙った後、「それ、できそうだね、ここのクラスなら」と言った。
慎悟は答えなかった。ただ、腕を解いて、膝の上に置いた。表情が少しだけほぐれた。
廊下に足音がした。
一つ。少し遅れて、もう一つ。吉崎先生のぺたぺたとしたサンダルの音と、それより軽い、緊張した歩き方の足音。
教室がざっと静かになった。
全員が扉を見た。意図したわけではない。ただ、そうなった。
扉が引かれた。
吉崎先生が先に顔を出し、「おはよう」と普通の朝のように言った。
その後ろに、一人の少女が立っていた。
黒髪のショートヘア。梅雨の湿気で毛先が少し跳ねている。色白で細身で、清王学園の制服の上から薄いカーディガンを羽織っていた。胸の前で、鞄のショルダーストラップをそっと両手で持っている。顔は伏せ気味で、教室の全員を一度に見ようとしているのか、あるいは誰とも目を合わせないようにしているのか、判断がつかない目の動きをしていた。
「脇出美奈子さんです」と先生が言った。「体調の関係で今日からの登校になりました。みんな、よろしく」
先生の声は明るくて、さっぱりしていた。「事情がある」とも「大変だった」とも言わない。ただ「よろしく」だけ。それが少し先生らしかった。
美奈子が一歩前に出て、小さく頭を下げた。
「脇出美奈子です。よろしくお願いします」
声は静かだった。でも、消えるような声ではなかった。ちゃんと届く声。ただ、主張しすぎない声。
誰かが「よろしく」と言った。その一言が連鎖した。あちこちから「よろしく」「よろしくー」という声が上がって、教室が少しだけ動いた。
美奈子が、また少し頭を下げた。
その間、彼女の体に緊張の色があった。肩が微かに張り、ストラップを握る指先に力が入っていた。それでも彼女は顔を上げて、前を見ていた。
慎悟はそれを見て、ただ「来た」と思った。
来た。それだけのことだ。それで十分だった。
席は、山室綾実の後ろだった。
廊下側から三列目、前から四番目。教室のど真ん中より少し後ろ、窓からも廊下からも遠すぎない。吉崎先生の割り振りは妙に気が利いている、と慎悟はぼんやり思った。
美奈子が席へ向かう短い道に、何人かの生徒がいた。誰かが少し体を引いて通路を作り、プリントを引っ込めて机の上を片付けた。大した親切ではないが、そういうことの積み重ねが教室だ。
美奈子は「ありがとうございます」と一人一人に小さく言いながら通った。
椅子を引く音がした。
腰を下ろす前に、前の席の綾実がゆっくり振り返った。
綾実の視線は静かで、急かさなかった。美奈子が完全に座ってから、落ち着いた声で言った。
「山室綾実。前の席だから、分からないことがあったら聞いて」
短かった。情報量も少なかった。でも、余計なことが一つもなかった。
「……ありがとう。脇出美奈子です」
「うん」
綾実は前を向いた。それだけだった。「大変だったね」も「ゆっくりでいいよ」もなかった。
可哀想だと言わなかった。遠慮しなくていいとも言わなかった。ただ受け取った、という顔をして、前を向いた。
美奈子はその「うん」の後、自分でも気づかないくらいの速さで、息を一つ吐いた。何か重いものを一枚、静かに下ろしたときの感触があった。
一限目は現代文だった。
吉崎先生が教壇に立ち、出席を取り、「先週の続きです」と教科書のページを言った。美奈子が慌てて鞄から教科書を取り出す。どのページか分からず、一瞬手が止まった。
「87ページ」
右隣の席から、静かな声がした。波松伊織だった。
こちらを見ていたわけでもなく、教科書のページを指で押さえたまま言っただけ。助けてあげてる、という顔をしていなかった。ただ情報を提供した、という顔をしていた。
「……ありがとう」
「どうぞ」
それで終わった。伊織はもう自分の教科書に目を戻していた。
美奈子はページを開いた。文字が目に入る。先生の声が流れ始める。隣の伊織はノートに何かを書いている。前の綾実は教科書に赤線を引いている。
教室の空気は、どこにでもある一限目の空気で、美奈子の初日だからといって特別な色をしていなかった。
美奈子はそのことに、少しほっとした。
同時に、少しだけ意外だった。
特別扱いを、ずっとされてきた。病院でも、家でも、親戚の前でも。「大変だったね」「無理しなくていいよ」「あなたは特別な子だよ」。その言葉たちはみんな本当のことで、優しさから来ていた。でも、その優しさの重さに、美奈子はとっくに疲れていた。
ここは違う。
ただの一限目だった。それだけで、美奈子は少し楽になれた。
◇
休み時間になった。
「脇出さんって呼んでいい?」
机の横から声がした。振り向くと富津歩美が立っていた。ショートボブで、屈託のない顔をしている。ニコニコしているが、過剰な笑顔ではなかった。友達に話しかけるときの、普通の笑顔だった。
「はい、もちろん」
「じゃあ私も歩美って呼んでいいよ。富津でもいいけど」
「……富津さん」
「うん、どっちでも」
歩美が隣に座った。「前の席の教科書は何を使ってる?」という質問から入ったのが美奈子には少し意外だった。体調の話でも事情の話でもなく、教科書の話。
「みんな、同じです」
「じゃあノートは? 数学とか先生によって形式が違うから、後で見せてあげる。授業の進み方も、ちょっと把握しておいた方がいいよ」
「……ありがとうございます」
「ありがとうございますって言うの、もう三回目だよ」と歩美が笑った。嫌みではなく、照れるな、というような笑い方だった。
「ごめん、なさい」
「それも合わせると四回目」
美奈子は答えに詰まった。しばらくしてから、「……ありが……あ」と言いかけて止まった。
歩美が「やば、ループした」と笑った。美奈子も、つられて小さく笑った。本当に小さく、ほんの少し、口元が動いただけの笑いだったが、それは作った笑顔ではなかった。
南海がそれを少し遠くから見ていて、「よかった」と口だけ動かした。
◇
昼休み前の四限目が終わる直前、美奈子はノートのまとめが追いつかなくなった。板書の文字は読めた。意味も分かった。でも手が遅かった。
二か月のブランクは確実に残っていた。入院している間、ペンを持つ機会はほとんどなかった。点滴のチューブが邪魔で、腕が思うように動かなくて、それでも病室で問題集を開こうとした日があった。でも三行読んで眠くなって、気がついたら本は床に落ちていた。あの日々の記憶は、努力の証ではなく、ただ「生きていた」という事実の残骸に似ていた。
消しゴムを一つ、床に落とした。
拾おうと前屈みになったとき、大きな手がそれを先に取っていた。
顔を上げると、熊坂健太が立っていた。鋭い目つきで、体が大きくて、一瞬だけ「怖い」と思った。健太はそんな美奈子の顔を見て、特に何も言わず消しゴムを机に置いた。
「……ありが」
「べつに」
それだけ言って健太は席に戻った。
美奈子は机に置かれた消しゴムを見た。健太の大きな手のひらと比べると、随分小さく見えた。
なんだか少し、笑えた。
「あいつ、怖そうだろ」と後ろから声がした。柿原翔一だった。「でも実際は怖くないから」
「そう、なんですか」
「むしろ草刈り鎌で草を刈りながら泣いてたりする」
「……それは怖い絵ですね」
「でしょ。でもそれが健太なんだよ。分かったら怖くない」
翔一は「まあよろしく」と言って、特に何もせずに自分の席に戻っていった。大したことは何もなかった。ただ、その何でもなさが、美奈子の肩の力を少し抜かせた。
廊下へ出ようとしたとき、細呂木蓮が隣に並んだ。声をかけてきたわけではなく、歩きながら一秒だけ横を向いた。
「顔色が悪い。座ってていい」
それだけだった。眉一つ動かさず、そのまま前を向いて廊下を歩いていった。
美奈子は少しだけ返事が遅れた。
「……ありがとう、ございます」
蓮は振り返らなかった。
でも、あの一言は親切じゃなかった、と美奈子は思った。親切にしてあげよう、という顔をしていなかった。ただ見えたことを言っただけだ。「心配している」とも「気を遣っている」とも違う。見えたことを、そのまま言葉にした。
それだけなのに、胸の芯のあたりが少し軽くなった。
見てもらっている、という感覚は、「守られている」とは別の何かだった。
◇
昼休みに、翼が来た。
瓜生翼は席の横に立ち、「一年一組の体育で使うグラウンドの割り当てについて知っておいた方がいい」と話し始めた。美奈子は最初、これが何の会話なのか少し分からなかった。
「あと学食の混み方のピーク時間帯と、図書室の予約システムの使い方、体育倉庫の鍵の場所、職員室の入り方のマナー、校則の中で実態と乖離している条文が三項目あって——」
「翼、その説明、入学説明会より長いぞ」
蓮の声がした。近くの机に肘をついて立っていた。翼が「正確性は重要だろう」と返す。
「重要だけど、今やると脇出さんの高校生活が初日で満腹になる」
翼が少し黙った。「……確かに、優先順位を間違えた」と認めた。
「あなた的には優先順位が高いのは分かるよ」と南海がフォローした。「でも今日は、名前を覚えるだけでいいと思う」
翼は「そうか」と言って、美奈子に向き直った。「瓜生翼です。細かい話は後日改めます」
美奈子は少し笑っていた。さっきより少しだけ、口元が動いた。
「楽しみにしてます」
「……楽しみに?」
「情報が多いのは、親切な証拠ですよね」
翼は「そういう解釈もできる」とだけ言った。耳が少し赤かった。
◇
友紀が来たのは午後の最初の休み時間だった。
「脇出さん、部活ってどこか考えてる?」
勢いよく来るな、と思ったが、それが北潟友紀という人間の雰囲気だと、美奈子はなんとなくもう理解していた。
「……体力が、まだ戻ってなくて」
「あ、そっか。見学だけでもできるところあるけど、無理しなくていいよ」
美奈子は少し待った。また「無理しなくていいよ」か、と思ったから。でも友紀の言い方は、今まで美奈子が聞いてきた「無理しなくていいよ」と少し違った。諦めさせる言葉ではなく、ただ事実を言ってる感じがした。
「元気になってから考えようよ」と友紀が続けた。「女子テニスは人手いるし、その頃まだ空いてたら声かける」
「……いつまでも空いてるとは限りませんよね」
「まあそうだけど、その時はまた一緒に考えよう」
美奈子は答えに詰まった。
一緒に考えよう。その「一緒に」というのが、想定外だった。友紀はもう他の話に移っていたが、美奈子の中でその言葉だけが残った。
一緒に、か。
その言葉の使い方が、あまりにも自然すぎた。だから逆に、しばらく意味が取れなかった。
少し離れたところで、北潟慎悟が蓮と立ち話をしていた。
慎悟が一度だけこちらを見た。目が合った。慎悟は特に何も言わず、ただ小さく頷いた。
了解でも激励でもない、もっと静かな何かだった。
美奈子は、その頷きの意味を正確には取れなかった。でも「ここにいていい」とだけ言われたような、不思議な感触が胸に残った。あの人は、何かを強制しない。選ぶのは自分だ、という空気だけをそっと置いていった。
◇
放課後になる前の、六限目の終わり頃。
美奈子はぼんやりと教室を見ていた。
前の席の綾実の背中。横で歩美が伊織に向かって何かを話している。翼が一人でノートを閉じている。翔一が翔一にしかできないような速さで帰り支度をしている。健太がゆっくり机の引き出しを閉めている。蓮が窓の外を見ている。慎悟が友紀に呼ばれて「何だよ」と言っている。南海がそれを見て笑っている。
何でもない景色だった。
どこの教室にもある、六限目の終わりの何でもない景色。
でも美奈子には、それが全部見えた。
美奈子はぼんやりと鞄のファスナーを指先で撫でた。
今日一日、何度「ありがとうございます」と言っただろう。消しゴムを拾ってもらって、教科書のページを教えてもらって、翼の情報量に笑ってもらって、歩美にループを笑われた。
誰も見返りを求めていないのは分かる。
でも、それが少し怖かった。
借りが増えていく。なのに自分は、今のところ何一つ返せていない。
病気だから仕方ない。体力がないから仕方ない。遅れてきたのだから仕方ない。
そういう「仕方ない」に、美奈子はもう慣れすぎていた。
慣れていることが、一番怖かった。
慣れてしまえば、どこまでも「仕方ない」で生きていける。「仕方ない」は正しい。「仕方ない」は本当のことだ。でも、それを受け入れ続けることと、それを「選ぶ」ことは、たぶん全然違う。
いつか、その境界を越えたいと思った。
「仕方ない」ではなく、「選んだ」と言える日が、きっとある気がした。それがいつなのか、まだ分からなかった。でもその予感だけは、今日生まれていた。
美奈子はずっと、「遅れてきた生徒」だと思っていた。みんなはもう物語の中にいて、自分だけがページの外にいると思っていた。
でも今日一日、この教室は普通だった。普通のことを普通に話してきた。
そこに、美奈子の席があった。
美奈子が鞄を膝の上に乗せたとき、胸の奥で何かが鳴った。
音というより、振動だった。鎖骨の裏側から肋骨を通って、一瞬だけ体の芯を走った感触。鈴の音に似た、細くて透明な余韻。
美奈子はとっさに、左手を胸に当てた。
心臓の鼓動とは違う。もっと高くて、冷たくて、清潔な響きだった。
窓を見た。
分厚い雨雲の切れ目から、薄い光が一筋だけ差し込んでいた。
次の雲にすぐ覆われた。でも確かに、そこにあった。
その光が消えた後も、美奈子の左手は胸に当たったままだった。余韻は消えなかった。それはまるで、鍵穴に鍵が触れたときのような、かすかな確信だった。
何かが、始まろうとしている。
二か月遅れの高校生活は、今日この席から始まった。
そしてそれとは別の何かも、今日この瞬間に、静かに目を覚ましていた。
第6話、読んでいただきありがとうございました。
美奈子が「ありがとうございますって言うの、もう三回目だよ」と歩美に笑われる場面、書いていて私自身が一番救われた気がしています。借りを返せない怖さ、優しさに慣れることの怖さ――これは美奈子だけの感情ではなく、誰にでも一度は覚えのあるものだと思います。
「仕方ない」で生きていくことと、「選んだ」と言えること。この章を通して、美奈子がその境界をどう越えていくのか、ゆっくり見ていただけたら嬉しいです。
そして最後の、左手を胸に当てるあの一瞬。
今はまだ、何も説明しません。
ただ、覚えておいてもらえたら。
次回、第7話では、大溝奈緒が脇出家と金津家の古い因縁について語り始めます。
表向きは政治家を輩出した名家同士の対立。
ですが、その奥にはもっと深い、もっと古い何かが眠っています。
美奈子と美里、二人の少女を繋ぐ糸が、ここから少しずつ見えてきます。
それでは、次話もよろしくお願いします。




