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雨龍覚醒――銀の空を呼ぶ少女  作者: 孔雀丸


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5/12

第5話「二ヶ月遅れの初登校」

第5話です。

今回からいよいよ新ヒロイン・脇出美奈子の物語が始まります。

入学式から二ヶ月遅れての初登校。

誰にも「大丈夫?」と聞かれない朝食、坂道で笑いそうになる膝、下駄箱の前で固まる足。

大きな事件は何も起きません。けれど、彼女にとっては「正門をくぐる」というだけの行為が、すでに一つの戦いです。

そして登校初日、彼女を待っていたのは、誰よりも厳しく、誰よりも誠実な大人でした。

美奈子の物語が、ここから動き出します。

 六月の朝は、湿気から始まる。

 空気が重く、肌にまとわりつく。梅雨の時季の福江市は、晴れでも曇りでも、遠慮がちに濡れている。

 脇出美奈子(わきでみなこ)は、洗面台の前に立っていた。

 歯を磨き終えても、足が動かなかった。

 鏡の中には、白いブラウスに紺のプリーツスカートを着た少女がいた。制服は祖母がクリーニングに出してくれたもので、しわひとつない。昨夜シャンプーしたのに、梅雨の湿気で毛先がもう跳ねていた。美奈子は片手で押さえた。無駄だった。

「私の髪、たぶん独立国家です」

 呟いてから、誰にも聞かれていないのに少し恥ずかしくなった。

 洗面台の端に、薄水色のカーディガンが畳んで置いてある。昨夜、母が出してくれたものだ。六月でも冷房で体が冷えるから、と言って。腕を通すと、袖がわずかに余った。細くなった腕が、そのまま布の奥に隠れた。

 鞄の中身は昨夜のうちに確認してある。

 教科書、ノート、筆箱。ハンカチが二枚。薬用ポーチ。予備のマスク。室内用の上履き。そして、言われてもいないのに入れた薄手のストール。

 準備は、できている。

 だから、なぜ足が動かないのかが、自分でもよくわからなかった。

「美奈子、ご飯。食べられそう?」

 台所から母の声がした。

「食べる」

 答えながら、美奈子は鏡から目を逸らした。

 朝食は白米と味噌汁と卵焼きだった。祖母が作る卵焼きは甘めで、子どもの頃から変わらない味がした。祖父は新聞を読み、父は資料を確認し、母は食器を洗いながら時々美奈子の様子を窺っていた。

 誰も「大丈夫?」とは聞かなかった。

 それが、かえって優しかった。

「行ってきます」

 玄関で靴を履きながら、美奈子は鞄の肩紐を握り直した。

「行ってらっしゃい」

 祖母の声が、廊下の奥から聞こえた。

 扉を開ける。湿った六月の空気が、顔に当たった。

 通学路は二十分ほどで、急な坂はない。

 それでも、住宅街を抜けた先の緩やかな上り坂で、息が思いのほか早くなっていた。急いでいるわけでもない。それなのに、足が妙に重かった。坂の中ほどで、美奈子は立ち止まった。

 膝がわずかに笑っていた。

 笑っていた、というより、笑いそうになっていた。それに気づいて、少し驚いた。緩やかな坂で、そうなるとは思っていなかった。

 鞄の肩紐を握り直し、片手を太ももに当てて、一度だけ深く息を吸った。

 ゆっくりで構わない。倒れなければ、ゆっくりで構わない。

 前から制服の女子が二人、肩を並べて笑いながら歩いてきた。言葉が弾んでいた。足取りが軽かった。美奈子はすれ違いざまに小さく会釈した。二人は話を続けながら通り過ぎた。

 当然だ。面識がないのだから。

 でも、美奈子はしばらく足を止めたまま、その背中を見ていた。

 あの二人には四月から積み上げてきた時間がある。教室があり、席があり、昼休みの居場所がある。そういうものが、もう形になっている。

 自分は今日から、そこへ入っていく。

 途中からページを開く読者のように。

 ——それでも、開くと決めたのは自分だ。

 美奈子は鞄を持ち直し、歩き始めた。

 梅雨の空は、降るか降らないか迷っているような色をしていた。

 清王学園(せいおうがくえん)高校の正門が見えた。

 自転車置き場に生徒が列をなし、正門前では女子が三人、何かの話で笑い合っていた。いつもの朝の光景なのだと思う。

 美奈子には、初めての光景だった。

 足が、止まった。

 たった一歩、正門をくぐるだけだ。

 電車に乗って、坂道を歩いて、膝を宥めながら、ここまで来た。

 美奈子は小さく息を吸い、正門をくぐった。

 その瞬間、霧雨が止んだ。

 一秒か、二秒か。降り続けていた霧雨が、空が息を止めたように消えた。誰も気づかなかった。美奈子自身も、それが雨だったのか、自分の気のせいだったのかわからなかった。ただ、頬に当たっていた細かい粒が、急に消えた気がした。

 雨は、すぐに戻った。

 美奈子は一歩、正門の内側へ踏み込んだ。

 一階の玄関は、靴音でにぎやかだった。みんな当たり前の顔でローファーを脱ぎ、室内用の靴に履き替えて、友達に声をかけながら廊下の奥へ消えていく。

 美奈子はその流れに、上手く乗れなかった。

 列の端に立って、下駄箱を探した。苗字の行ごとに並んでいるはずだが、初めてで場所がよくわからない。周囲の生徒に声をかければよかった。それができなかった。

 鞄を下ろし、室内用の上履きを取り出した。

 しゃがんで靴を脱ごうとした時、自分の手が震えていることに気づいた。

 緊張ではない、と思いたかった。でも、緊張なのかもしれなかった。

 ゆっくり、丁寧に、ローファーを脱いで上履きに替えた。

 周囲からちらりと視線を感じた。悪意ではない。ただの「誰?」という視線だ。それは美奈子にもわかっていた。

 ローファーを下駄箱にしまい、鞄を持ち直した。

「そこの生徒。少し待ちなさい」

 鋭い声が飛んで、美奈子の肩が跳ねた。

 振り返ると、一人の女性教師が立っていた。

 紺のパンツスーツに、黒髪を後ろで一つに束ねている。装飾がない。切れ長の目が美奈子をとらえた瞬間、逃げ場がなくなった気がした。

「名前は」

 質問ではなく、確認だった。

「脇出美奈子です」

「学年とクラス」

「一年一組です」

「見ない顔ね」

 美奈子は何も言えなかった。

「生徒手帳、持っている?」

「はい」

 慌てて鞄を開け、両手で差し出した。

 女性教師はそれを受け取り、表紙を開いた。

「脇出美奈子。一年一組、出席番号三十七番」

 短い沈黙があった。

「そう。あなたが脇出さん」

「はい」

「入学式にいなかったわね」

「病気で……入学式を、欠席していました。体調が安定しなくて、今日から登校することになりました」

 自分で言いながら、美奈子は肩紐を両手で強く握った。「今日から」という言葉には、常に「二ヶ月遅れた」という事実がついてくる。二つはきれいに切り離せない。

 女性教師は美奈子の顔を見ていた。

 叱る顔ではなかった。でも優しい顔でもなかった。

大溝奈緒(おおみぞなお)。社会科の教員、二年四組の担任」

「よろしくお願いします」

 美奈子は深く頭を下げた。

「登校初日だからといって、特別扱いされると思わないこと」

「はい」

「清王学園は、あなた一人のために時間を止めていたわけではありません。二ヶ月分の遅れはあります。そこはごまかせません」

「わかっています」

「わかっているなら、一つ聞くわ」

 奈緒は一歩、美奈子に近づいた。生徒の往来の中で、二人だけの狭い空間ができた。

「今日、無理をしてここへ来ていないですか」

 美奈子は一瞬、答えが出なかった。

「……大丈夫です。今日からは、ちゃんと来ます」

 奈緒の視線が、揺るがなかった。

「その『ちゃんと』が、あなたを潰すこともあります」

 美奈子は口を開いた。言葉が出なかった。

 反論しようとして、できなかった。否定しようとして、喉が動かなかった。

 奈緒は続けた。

「嘘をつく必要はありません。少なくとも、教師の前では」

 玄関ホールの音が遠くなった気がした。自転車のベルが鳴り、誰かが笑い、後ろで先生の声がした。でもその音がすべて、遠い。

 美奈子は小さく息を吸った。

「……私、ここにいてもいいんでしょうか」

 声が、思ったより細く出た。

 奈緒は少しの間、美奈子を見ていた。

「それを決めるために、あなたは今日ここへ来たんでしょう」

 美奈子は下を向いた。目の奥が、じわりとした。泣くつもりはなかった。泣きたいわけでもなかった。ただ、体が少し正直だった。

 奈緒は抱きしめたりしなかった。背中を叩きもしなかった。そのまま、そこに立っていた。

「無理はしなくていい。でも、限界だと思ったら、自分で声を上げなさい。あなたのことは、あなた以外には分からないから」

「……はい」

「逃げろと言っているわけでもありません」

 美奈子は顔を上げた。

「あなたが今日ここに来たことは、もう十分に意味があります」

 息を、止めた。

「他の誰かと同じ速さで歩く必要はありません。けれど、自分の足で歩くことだけは、やめないでください」

 美奈子は生徒手帳を、両手で握りしめた。

 奈緒は付け加えた。

「『大丈夫です』を便利な言葉にしないこと。本当に大丈夫な時だけ、大丈夫と言いなさい。言ってくれなければ、こちらには分からない」

「……気をつけます」

 奈緒は一歩引いて、廊下の先を指した。

「一年一組はこの廊下をまっすぐ行って右。今日一日、無事に終わらせてから礼を言いなさい。それが最初の宿題よ」

 怖いとは思った。

 でも、信用できると思った。

 それだけわかれば、今は十分だった。

 美奈子は廊下を歩き出した。

 上履きが床を踏む音。静かで、確かな音。

 廊下の先から教室の気配が聞こえてきた。誰かが笑う声。椅子を引く音。黒板消しがケースに当たる音。

 当たり前の音だった。普通の音だった。

 一年一組の扉が見えた。

 木製の引き戸。すりガラスが入っている。その向こうに、ざわめきがある。シルエットが複数動いている。知らない顔が、知らない声が、知らない日常が、あの扉の向こうにある。

 美奈子は立ち止まった。

 今はまだ、誰かの力になんかなれない。体だって、こんな坂道一本で膝が揺れる。声もうまく出せない。自己紹介だって、どうすればいいかわからない。

 それでも。

 病気で奪われた二ヶ月は戻らない。でも、今日ここへ来ることは、自分で選んだ。

「行ってきます」

 呟いたのは、自分でも気づかないくらい小さな声だった。

 扉の取っ手に、手をかけた。

 *

 玄関ホールに戻った大溝奈緒は、一年一組の方を一度だけ見た。

 薄水色のカーディガンの後ろ姿が、廊下の角を曲がって消えたところだった。

 奈緒は小さく息を吐いた。

「遅れてきた子ほど、最初の一歩が重いのよ」

 職員室へ向かいながら、奈緒は廊下の端からもう一度、扉の閉まった一年一組を見た。

 なぜか、胸の奥に引っかかりがあった。

 説明できない、小さな。

 美奈子が立っていた場所に、何か見えないものが残っているような気がした。錯覚だとは思った。でも、消えなかった。

 あの子は何かを持っている。根拠はない。ただ、そう思った。

「脇出美奈子」

 廊下に人が増え、喧騒が戻っていく。

 奈緒はもう一度だけ、その名前を心の中で繰り返した。どこかで聞いたことのある家の名前のような気がしたが、今は思い出せなかった。

 玄関には、いつもの朝の喧騒が戻っていく。

 脇出美奈子の高校生活が、二ヶ月遅れで、ようやく始まった。

 ただ奈緒はその後ずっと、今朝の霧雨が一瞬止んだことを、なぜか思い出せずにいた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

今回は新ヒロイン・脇出美奈子の初登校回でした。

大溝奈緒というキャラクターを書く時、私はいつも「優しさと厳しさを分けない」ことを意識しています。

「無理しなくていい」と言いながら甘やかさない。「大丈夫です」を簡単に許さない。

そういう大人を、美奈子の最初の一歩に立たせたいと思いました。

そして最後、誰も気づかなかった一瞬の出来事。

あれは、本当にただの「気のせい」だったのでしょうか。

次回、美奈子はついに一年一組の教室に入ります。

山室綾実、波松伊織、富津歩美、坪江南海――そして十彩獣団の面々と、彼女はどんな顔で出会うのか。

楽しみにしていただけたら嬉しいです。

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※本作はキャラクターデザイン・世界観・物語構想・最終編集判断を作者が行い、一部工程でAIを活用しています。

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