前兆2
「あ、ヴァンさんズルい!?」
私が気づいた時点で、ヴァンさんは既に駆け出しこの場を脱してしまっていた。異常なまでの加速力で飛び出した彼の姿はどんどん小さくなっていってしまう。
「あ、こら待てっ!!」
釣られてモニカ王女も走り出したヴァンさんを目で追う。
行くなら今がチャンス――!!
「ごめん、シェリルちゃん、後はよろしく!!」
「え、ちょ、ちょっと、アリスさん!!」
シェリルの声が聞こえてくるけど、今だけはスルー。反応していたらモニカ王女に捕まってしまう。
「今度はアリスまで!!」
「すみません、ちょっと農家の方々のお手伝いに行ってきます!!」
一瞬獣の姿になってしまおうかとも思ったけど、今なれば村の人たちに正体がバレてしまう。とにかく今は持てる全ての力を出してこの場を脱する。脚力を遺憾なく発揮し爆発的な速度で駆け抜ける。
「はぁ、はぁ……んくっ、はぁ、もう、来てない、かな?」
後ろを振り返ると既にさっきまでいた場所が見えないところまで来ていたようだった。何とかなったようだ。
「シェリルちゃん、大丈夫かな……」
放ってきてしまった少女を思い浮かべ、あの場をなんとか凌げていることを切に願う。
「おや、アリスちゃん。こんなところでどうしたの?」
「あ、おばさん!! 村の手料理をまた学びたいなと思いまして!!」
「あらそうだったの? じゃあよければ家に来る? 今からちょうど晩御飯の支度をしようと思っていたところなの」
「はい、喜んでっ!!」
催しの時、村の料理についてよく教えてくれたおばさんは、歳なんて微塵も感じさせないピンと伸びた背で先導してくれた。途中、畑の方を見るとヴァンさんが見えた。無事仕事を見つけて逃げ切ったみたいだ。
しばらく歩くとおばさんの家に着いた。その家には部屋は一つしかなく、開放感ある大きな部屋が一つだけだ。そこに台所や居間等がある。料理道具の種類は決して豊富とは言えず、稀に王国へ赴いた際にできるだけ安い物を買うのだという。
「材料なんかを出しちゃうからちょっと待っててね」
おばさんの言葉に二つ返事で応答し、台所の前に立ってエプロンを身につける。自慢でもありちょっとだけ悩みの種でもあるこの髪は、料理を作る上では非常に厄介な存在であるためまとめて布で覆う。そうしてあっという間にこの村での料理スタイルに着替え終わったとき、既に幾らかの食材が並び始めていた。
「おばさん、もっと良い調理器具が欲しいと思ったりしないんですか?」
「そりゃあするけどねぇ。王国の製品はどれも高価で手が届かないから」
それに、と。
おばさんは食材を出し終えて自身も着替え始め、
「食材の味を引き出すのは人の腕だからね。器具はあくまでやりやすさが変わるだけ。私はそう考えることにしているよ」
「うわぁ、すっごくかっこいいです!!」
「そんなことはないよ。さぁ、じゃあ早速取り掛かろうかね」
「はい!!」
■
「下準備も奥が深いんですね」
「下準備っていうのは料理の味における根幹に当たる部分だからね。ここはどれだけ時間がかかって妥協はできないのよね」
サラサラとその言葉を書き留め、さらに自分で気づいた留意点を書き足していく。そうして埋まっていく自分のメモ帳に何だかちょっとした優越感を覚え、気づいたときには頬が緩んでいた。
「あらあら、なんだか嬉しそうだね」
「え、どうして分かったんですか!?」
「そりゃあ私にだって若い頃はあったもの、青春している女の子くらいすぐ見分けがつくわよ」
その言葉を聞いて、初めて自分の表情が果てしなくだらしない事になっていのに気付く。とは言っても、いまさらどうすることもできないので手で顔を隠したり背を向けたりしてどうにかこの辱しめからの解放を試みるのだが、おばさんは、かわいいわね、なんて言って小笑いするのでますます頬は熱を帯びていくのだった。
「さて、これで夕食には間に合うかな。ありがとうね、アリスちゃん」
「いえいえ、こちらこそ貴重な体験させてもらってとても感謝しています!! すぐにでもモノにしてみせますよっ」
「長年の積みかさねで生まれた至高の味、そう簡単に習得できるかしら?」
二人して微笑み、完成した料理を眺める。自分がやったことと言えば、野菜を切ったり、分量を測ったりと誰にでも出来るようなことばかりではあったものの、
その完璧なフォルムの完成品を目にすれば、その料理に自分が携われただけで光栄に思えてしまう。そして、真っ先にこの料理を味わってほしい人を思い浮かべる。
「(ヴァンさん、多分この味大好きだろうな……)」
今もまだ農作業を手伝っているのであろう勇者を思い、メモ帳を握る手が自然と胸に吸い寄せられる。自分の鼓動は自分でも驚く程に急加速していて、一種の病気なんじゃないかと思うほど。脱いだエプロンを畳んでいるおばさんは、そんな私の様子を見てまたニンマリと笑みを浮かべている。
「あ、え、えっと、ちょっと外に出てきますねっ」
「ふふっ、ごゆっくり」
完全に見透かされた笑顔で手を振られ、私は家を出た。尚も異常な脈動は治まらず、何度か深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻す。
くしゃくしゃになってしまったメモ帳を見て、後で新しい紙に書き写さなきゃなと、そんなことを思いながらふと遠い彼方へ目を向けると、そこには哀愁漂う橙の空が滲んで浮かんでいた。その景色は、まだ人間になれるとは夢にも思っていなかった頃、幾度となく見てきた景色。だけど、今見るその光景は以前とは比べ物にならないほどの変化があった。
「空が……近い――」
自分がいる地上から、空までの距離。実際にはコボルトの時と大差ないその距離だが、言葉や数字だけでは表せないどこか感覚的な世界、そんな曖昧な領域で私は空に近づけた気がした。
――それはもう、手を伸ばせば淡い橙のキャンバスに届くかのような。
もう少し。
あとちょっと。
いつの間にか腕を伸ばすだけでは足らず、半ばつられるようにして足まで動き始めていた。
丘を下り、遠くの彼方に見える景色に手を伸ばす。
どんどん下り、次第に視界には空だけでなく村の情景も入ってくる。
そこで気がついた。
自然な風景、村の営み、夕刻の空。
そのどれにも属さず、似つかない異端。
普段決して見る事のない、況してや村で会うなんて思いもしなかったイレギュラーな存在。
橙の空のコントラストを打ち破るようなインパクトで押し寄せてきたその群衆は、圧倒的な場違い感と威圧感を迸らせながら村への侵攻を推し進めているようで――。
「どうして……?」
それはどう考えても、吉兆ではないのだと、そう確信した。




