04. よろしく異世界
♢
──悪魔との契約が済んだ、翌日の放課後。
夕真昼の橙色の光が斜めに射し込む教室で、蓮司は机に突っ伏したまま瞼を持ち上げた。
周りの生徒たちは部活動や下校の準備で荷物をまとめている。
そんな喧騒を割るように、すぐ目の前に静かな影が落ちた。
「貴方っていつも寝てるのね。そんなに眠い?」
昨日と同じく、気弱で存在感の薄い転校生の仮面を被っている麗華。だが、その声の低音に忍ばされた冷徹な響きを、蓮司は見落とさなかった。
「……何の用だよ」
「時間ある? 渡したいものがあるの」
「一時間後にはバイトだ」
「十分よ。ついていらっしゃい」
拒否権など最初から与えていないと言わんばかりに、麗華は踵を返して教室内を横切っていく。
蓮司は彼女の細い背中を追って廊下へと踏み出した。
──校門を抜け、夕暮れ時の街へと歩みを進める。
まばらな街灯が灯り始めた歩道を二人の影が長く伸びていく。前を行く麗華の足取りには迷いがないが、目的地のあてがあるようには見えなかった。
「ねぇ。何処か落ち着いて話せる場所はある?」
振り返りもせず、風に黒髪をなびかせながら麗華が尋ねる。
「行き先ねーなら前歩くんじゃねーよ。この我儘女」
「生憎人の後ろを歩くのには慣れていないの。貴方が合わせて頂戴」
底知れない高飛車さに、腹の底で苛立ちがじわじわと燃え上がる。
だが、自宅のアパートに彼女を近づけるわけにはいかなかった。家族のいる聖域に、この女の影を落とすことなど不本意そのものだ。
蓮司は頭の中で手近な場所を思考し──仕込みのバイト先である喫茶店が、開店前は数日間誰もいないことを思い出した。
「ついてこい」
蓮司が追い抜き、角を曲がって裏通りの静かなカフェへと二人を導いていく。
からんと控えめなドアベルの音が響き、静まり返った店内に足を踏み入れる。
焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いと、古びた木製家具の深い匂いが漂う空間。麗華は細い指先でカウンターの表面をなで、店内をゆっくりと見渡した。
「昨日も思ったけどいい店ね。落ち着くっていうか……趣があるわ」
「俺も思ってたぜ。お前が昨日貸し切るまではな」
吐き捨てるように言い放ち、蓮司はカウンターの奥へと向かう。
「コーヒーを二つ。長居はしないから安心して?」
麗華は手慣れた動作で一番奥──通りから視線が届かない、ボックス席へと腰を下ろした。
蓮司は無言で豆を挽き、湯を落とす。注がれる黒い液体の湯気が立ち上り、カウンター越しに静かな時間が流れる。
二つのカップを盆に乗せ、蓮司は麗華の対面へ静かに腰を下ろした。
「早速だけど渡したいものってのは、これよ」
麗華は足元に置いていた艶消しの黒いアタッシュケースを持ち上げ、テーブルの上に重々しく置いた。ラッチを外す金属音が静寂に固く響く。
蓋が開かれると、衝撃吸収のスポンジに埋め込まれていたのは──黒く光る、流線型の重厚なVRヘッドセット。そしてケースに収められた『マジシャンズ・ラグナロク』の起動ディスクだった。
「これが今時のゲーム機器か。随分と重いな」
蓮司は無造作に手を伸ばし、それを持ち上げた。ずっしりとした金属と高分子素材の冷たい重量感が、指先から手のひらへと伝わってくる。
「『ゴッド・エンターテインメント』でも一部の関係者しか手に入れられない、特別仕様の非売品VRセットよ。没入感も操作性も市販品とは比べ物にならない。これなら現実と寸分違わない身体感覚でゲームができるわ」
アタッシュケースの縁に肘をつき、麗華カップに手を伸ばす。蓮司はその不気味なほどの高性能機器を見つめ、低く呟いた。
「……いくらしたんだ、これ」
「このカフェのコーヒー一年分ってところね」
「そんなこったろうと思ったよ」
蓮司は鼻で笑い、ずっしりとしたデバイスをケースへと戻した。
ちょうどその時──店の外の路地を通りがかった人たちの話し声が、窓越しに漏れ聞こえてきた。
『……おい、聞いたか? 三年の羽場さんたち、全員退学だって』
『マジかよ。昨日まで普通に学校にいたのに』
『どうせ裏でエグいことやってて警察にバレたんだろ。まあ、俺もカツアゲされたことあったしスーッとしたよ』
「! …………」
蓮司の手が、ぴたりと止まった。
窓の外に視線を向けるまでもない。数日前裏路地で自分に群がり、そして麗華のスマホにその醜態を撮影されていた不良グループのことだろう。
昨日の今日で、揉み消す間もなく退学。
対面座る麗華は、外の会話など耳に入っていないかのようにコーヒーを口に運ぶ。
その横顔には、眉ひとつ動かす素振りすらない。
「人を蹴落として飲むコーヒーは美味いか? 社長令嬢さんよ」
「えぇ、この店のは中々にお気に入りよ。貧乏ゲーマー君」
麗華はカップを置き、薄い唇に嘲笑を浮かべて蓮司を見つめ返した。
(昨日の選択は、やっぱり正解だったみてぇだな)
「とりあえず今日、バイトが終わったら少しでもいいからログインすること。基本的な操作感と世界観をその身体に叩き込んでおきなさい」
「言われなくてもやるよ。俺も退学させられたら敵わねぇ」
「それからその上で──1つだけ守って欲しいルールがあるの」
麗華は細い人差し指をすっと顔の前に立て、眼鏡の奥の眼光を氷のように鋭く光らせた。
「『他プレイヤーを殺さないこと』。貴方、放っておくと何やらかすか分からないから。いい?」
「……こちとら仕組みもルールも何一つわからねぇんだ。わざわざ自分から喧嘩売るような真似しねぇよ」
「よろしい」
麗華は満足げに小さく頷くと残りのコーヒーを飲み干し、立ち上がった。既に代金は置かれていた。
「それじゃ。初めてのゲーム世界、存分に楽しんで」
黒く染めた変装のかつらを揺らし、制服の裾を翻して彼女は店を後にしていった。
からん、とドアベルが鳴り、静寂が再び店内に満ちる。
テーブルの上に残された、重厚な黒のアタッシュケース。蓮司はその冷たい表面に手を置き、静かに目を閉じた。
「楽しめ、ねぇ」
***
『マジシャンズ・ラグナロク』。
自分自身となるアバターを操作してモンスターと戦い、果てのない広大な世界を冒険するファンタジーMMORPG。
用意された職業は武力を司る戦闘職に限らず、アイテムを産み出す生産職、文明を支える技術職、世界の理を解き明かす研究職など、その数に限りはない。この世界をどのように生き、どのように楽しむかはプレイヤー自身の手に委ねられている。
故にクリアの条件すらもプレイヤーの進む道によって変化し、サービス開始から五年が経過した現在に至るまで、解明され切っていなかった。
多種多様、数えきれないほどのVRゲームが世に溢れる現代において、このタイトルが『世界最高のゲーム』としてその評価が揺らがない所以はそこだった。
何にも縛られることなく、自由に生きる。
現実世界では決して叶わないはずの不可能な夢が、この世界では現実となるのだ。
「……本当に、夢みたいな話だな」
蓮司がバイトを終え、我が家へ辿り着いたのは夜の十時を回った頃。
古びた引き戸を静かに開けて室内に入ると、小さな四畳半の部屋で、二人の影が布団にくるまり、規則正しい静かな寝息を立てていた。
中学生の妹の瀬奈と、小学生の弟、舜。
蓮司は二人を起こさないよう、足音を忍ばせて慎重に奥の部屋へと向かった。
押し入れから取り出した使い古しの毛布を二人にそっと掛け直し、その小さな頭を一度だけ撫でる。
(ごめんな。にいちゃん──ちょっと出かけてくる)
心の中で小さく語りかけ、蓮司は一人、壁の薄い自分の部屋へと入った。
机の上に置かれた重厚なアタッシュケースを開く。漆黒のヘッドセットを取り出し、重みのある本体を頭部に装着した。冷たいクッションが皮膚に密着する。
ソフトを端末へ差し込み、サイドの電源スイッチを押し込んだ。同時に自室の布団に寝そべる。
──その刹那。視界が急速に沈黙し、世界が暗転した。
耳の奥で澄んだ低い電子音が重低音となって鼓膜を揺らす。
『新規ユーザー認証完了。これより、新規キャラクター作成を開始します』
まぶたの裏で眩い光が爆発し、次に開けた視界に広がっていたのは──四方八方が幾何学的な光の升目で構成された、広大な白銀の仮想空間。
(キャラメイクか。懐かしいな)
目の前に半透明の立体グラフィックが浮遊し、外見の設定項目が無数に並ぶ。
髪型、目元、骨格、肌の質感に至るまで、果てしない調整が可能となる本作。
「見た目か。まぁ、どうでもいい」
元より外見にこだわる気など毛頭ない。蓮司はスクロールの手を止め、『現実の体型・骨格を基に自動生成』という項目を迷わず選択した。
光の粒子が集まり、一分と経たぬうちに蓮司の目の前に一人の青年像が立ち現れる。
そこにいたのは、自分と瓜二つの姿だった。
だが、右頬から首へかけて深く刻まれていたあの惨痛な事故の傷痕は綺麗に消え去り、過酷なバイト生活で落ちくぼんでいた目元の隈もなくなっている。
現実の自分よりもほんの少しだけ生きやすそうな、清々しい顔立ちだった。
次に流れてきたのは『職業選択』の項目。
一覧を開くと、目眩がするほどの数、数百種類を超える職業が網の目のように並んでいた。
剣士、魔法使い、盗賊、槍術士、鍛冶師、調合師、学者──。
前衛の戦闘特化から、後方を支える生産職まで多岐に渡って分岐している。
「キリがねぇな。……逆算すっか」
西園寺麗華が自分を脅迫してまでこの世界に引きずり込んだ以上、このゲームの『ワールドクリア』には圧倒的な実戦の戦闘力が不可欠なのだろう。
ならばいかなる局面、いかなるモンスターやプレイヤーが相手であっても対応できる柔軟性が必要だ。
特定の武器や魔法に偏りすぎず、素手格闘も含めて状況に応じた立ち回りができるもの。
そうして画面を精査し、辿り着いたのは初期前衛職の一つ──『傭兵』だった。
半透明のパネルに刻まれた説明文を読み上げる。
『あらゆる近接武器および格闘術に平均以上の適性を持つ汎用前衛職。突出した専門性はないが、戦況に応じて自在に戦闘スタイルを変化させることができる』
迷うことなく『傭兵』を選択。
最後に目の前に浮かび上がったのは『名前の入力欄』だった。
流石に現実の本名を打ち込む気はないが、アバターの見た目同様名前にも執着はない。
最近の出来事を思い出し、直感的に浮かんだ文字列を仮想キーボードで手早く打ち込んだ。
『キャラクター作成完了。『マジシャンズ・ラグナロク』へようこそ』
「これで終わりか。最近のゲームがどんなもんかと思ってはいたが、ここら辺の手続きは大差ねぇな──」
機械的なシステム音声が脳内に直接響いた、その瞬間。
目の前の白銀の世界が、ガラスのように砕け散った。
まず、布団に横たわっていた背中の感触が消失する。
次いで、自分の体重という概念そのものが空間へと溶け出していった。
地球の重力が一瞬で引き抜かれたかのように体がふわりと浮き上がり、やがてそれすらも遠ざかっていった。
次に訪れたのは、完全なる『無』。上下も、前後も、時間の感覚すら存在しない。
ただ己の意識だけが、底知れぬ暗い温水の中に静かに沈んでいくような、奇妙な浮遊感。
──そして。
唐突に、眩い光が視界を撃ち抜いた。まぶたが強制的に押し開かれる。
冷ややかな夜風が頬を撫で、鼻腔へと乾いた石畳と澄んだ草木の香りが流れ込んできた。肺がリアルな空気を吸い込んで大きく膨らみ、胸の奥で心臓が確かに脈打つ鼓動を感じる。
「……まじかよ」
そうして顔を上げると、そこには息を呑むような夜の街並みが広がっていた。
重厚な石造りの建物の合間、魔法灯がぼんやりとした温かな橙色の光を落ちて、濡れた石畳の大通りを美しく照らし出している。
立ち並ぶ館の窓からは人々の生活の明かりが漏れ、遠くの酒場からは弦楽器の繊細な音色と、人々の楽しげな歓声が風に乗って運ばれてきた。
(本当に、ゲームの中だな。あの女の言ってた通りだ)
ゆっくりと指を握り、開く。足を一歩、石畳踏み出す。
現実の肉体と何一つ変わらない、タイムラグゼロの完璧な追従性。幼い頃に触れた古いVR端末の、あのどこか不快な違和感は微塵も存在しなかった。
「あの頃はたまにシステムがバグって、脈絡もなく現実に戻されたりしてたっけな……」
そんな考えが頭をよぎり、ふと兄が生きていた頃の懐かしい記憶が脳裏を掠める。しかし彼は即座に頭を振ってそれを振り払った。
センチメンタルに浸りに来たわけではない。やるべきことは、この世界のシステムと自身の動作確認だ。
視線を巡らせると、視界の隅に半透明のシステムウィンドウが静かに表示された。
ーーーーーーーーーーーー
【★ステータス★】
【PN】ヤブキ
【LV】 1
【職業】傭兵
【HP】体力値 50
【MP】魔力値 5
【STR】筋力値 10
【STM】スタミナ値 10
【VIT】耐久値 10
【AGI】敏捷性 10
【LUC】幸運値 1
・所持スキルポイント 残り0
【★装備★】
【右手】傭兵の長剣
【左手】なし
【頭装備】なし
【胴装備】傭兵の胸当て
【腰装備】傭兵の腰布
【足装備】傭兵の靴
【アクセサリー】なし
ーーーーーーーーーーーー
街路の建物のガラス窓に、己の全身を映し出す。
そこに立っていたのは、くたびれた現身の自分ではなく、質素ながらも身を引き締めた装備を纏い、生気に満ちあふれた一人の『傭兵』の姿だった。
そして、その頭上に淡く浮かび上がる【ヤブキ】の青い文字。
傷のない自分の顔を見つめ、蓮司──ヤブキは、ガラスに映る自分に向けて静かに言葉を紡いだ。
「よろしく頼む。……『ヤブキ』」




