03. 地獄までの片道切符
♢
「山吹だ。初対面の俺と、一体何の話をするって?」
「コーヒーをもう一つ。あ、これは貴方の分ね」
目の前の突然の変貌に蓮司は鼓動の乱れを押し殺し、静かに彼女を見つめ返す。
「私の話は短くない」と言わんばかりの蓮司を気遣った注文。そして言葉の端々に滲む、命じることに慣れきった者の空気。
蓮司は一度カウンターへ歩き、先ほど挽いたコーヒーの残りを注ぐと、麗華の対面へと静かに腰を下ろした。
「何の用だよ。わざわざボディガードつけて、変装までして。お嬢様気取りか」
「手はテーブルの上に。そして話が終わるまで席を立たないこと。いい?」
「誤魔化すな。さっさと吐け」
互いに視線を交わしたまま、一歩も引かない静かな圧力が交錯する。
店内を包むのは、古びた冷蔵庫の低い駆動音と、二人の呼吸音だけ。対する麗華は蓮司の強気な態度に、余裕めいた笑みを深めるだけだった。
「目的……ね。確かにそこから話した方が分かりやすいかしら」
麗華はカップに手を伸ばさず、細い指先で優雅にテーブルを叩いた。
トントン、と規則正しい音が静まり返った店内に微かに響く。その音は、まるで蓮司自身の鼓動を刻んでいるかのように。
「『マジシャンズ・ラグナロク』。貴方、ご存知?」
「……クラスで騒いでたな。VRゲームで、クリアしたら100億。それがどうした」
「あら、意外と物知りね。やっぱりお金は欲しい?」
「…………」
「まぁあれだけのビッグニュースだもの。でもいくらクリアされないからって、お金で釣ろうなんて。我が父ながら低俗な考えに、ほとほと呆れるわ」
「……我が父?」
「えぇ」
現実世界と見紛うほどの広大な世界観、精密なグラフィックと魔法体系。
VRMMOの歴史を塗り替えた一作『マジシャンズ・ラグナロク』。『ゴッド・エンターテインメント』社が世界に誇る神ゲーである。
その制作・運営会社の頂点に君臨する若き代表取締役社長──西園寺統矢。彼の頭の中にはもう一つの世界が入っていると揶揄される天才。
「私は彼の一人娘。って言っても、もう何年もあの人とは会っていないけれどね」
「そんな社長令嬢さんが、なんでウチみたいな学校に転校してきた。金持ちの気まぐれか?」
「優秀な人材集め兼──反抗期ってところかしら」
あっけらんと告げる麗華。
「私もあのゲームをクリアしたいのよ。一プレイヤーとしてね」
「なんで娘のお前が?」
「……知りたい?」
麗華の瞳の奥に一つの影が落ちる。
一瞬にして空気の温度が数度下がったかのような錯覚。
目の前で放たれたその過剰な圧に、蓮司はわずかに身体を引いた。しかし、決して視線だけは逸らさなかった。
「いらないのよ。私より上に、人間なんて」
西園寺統矢を潰したい。──そう語る彼女の微笑には、深くドロドロとした執念が渦巻いていた。
「あの人が人生を賭けて作り出した傑作を、娘の私が完膚なきまでに攻略する。そうすることで私はあの人を越えられる。世界中の人間を上から見下ろし、この世の全てを手に入れるのが、私の夢なの」
語られた麗華の目的。
それを聞いた蓮司は、どうしようもない苛立ちに心を支配されていた。
「どこまでも我儘な女だな。少しは我慢を覚えたらどうだ?」
「私は欲しい物のためなら何だってする。そして今欲しいものは、貴方なの」
「俺?」
「十数人の不良相手に大立ち回り、見事だったわ。あの格闘技術は何処で覚えたの?」
数日前の路地裏での出来事。
人通りの少ない場所だからと半ば安心していたが、見られていたと知り蓮司は思わず歯噛みした。
「教える義理はねぇな。それがどうした」
「率直に言うわ。貴方とならあのゲームをクリアできる。──私に、協力して頂戴」
突然の提案に、しばしの間沈黙が走る。
そして少し経った頃、蓮司は自嘲気味に鼻で笑った。
「へぇ。ただの喧嘩自慢が攻略できるとは、随分程度の低いゲームじゃねぇの。神ゲーもたかが知れるな」
「ただの喧嘩自慢──本当にそう?」
麗華は取り出したスマートフォンを操作し、滑らせるようにテーブルの中央へ置いた。自然と蓮司の視線も画面に向く。
「──っ、これは」
画面に映し出されていたのは1枚の写真だった。
眩しい笑顔を浮かべる、どこか蓮司に似た面影を持つ青年の姿。
「VRゲーム格闘部門・日本最多トロフィー受賞者。かつて、日本一のプロゲーマーと呼ばれた男──山吹宗一郎。これ、貴方のお兄さんでしょ?」
「……どこで調べた」
「フフ。教える義理はないわね」
写真の奥で笑う、この前夢に出てきたばかりの兄の顔。
蓮司にとって兄は誰よりも尊敬する身近なヒーローだった。
才能に恵まれ、巧みな技術で世界中のプレイヤーを激しく沸かせていた。
ゲームに対する興味も知識もさほど無い蓮司だったが、画面の向こうで兄が生み出すその熱狂を見るたびに、胸がざわつき、心が震えた。
自慢の兄だった。大好きだった。
それなのに──。
「事故のニュースが報道された時は落胆したものよ。彼は間違いなくこれからの日本のゲーム業界を席巻する男だったもの」
「あ?」
「でも今は貴方がいる。あの男の血を継ぐ貴方なら、どんな廃人プレイヤーにもプロゲーマーにだって──」
その瞬間。蓮司は激しい力でテーブルを乗り出した。
机上のコーヒーが溢れるのもお構いなしに、麗華の服の胸ぐらを乱雑に掴み上げる。
「それ以上そのにやけ面で兄貴を語ってみろ。二度とパパに会えねぇ顔にしてやるからよ」
「手はテーブルの上と言ったはずだけど?」
対する麗華の瞳には、恐怖の色などひとかけらも浮かんでいなかった。
ただ冷ややかに、獲物を観察するような瞳があるのみ。
麗華が指を鳴らしたその時。扉が重々しく開かれ、外に待機していた黒服の巨漢たちが雪崩れ込んでくる。
無言で蓮司を取り囲み、逃げ場を完全に潰すように圧力を突きつけてくる。
「我慢を覚えるのは貴方の方よ。お兄ちゃんはもういないんだから」
「そんな昔話で俺を追い詰めたつもりか。てめぇらごとき……」
「焦らないの。材料は、まだ残ってるもの」
胸ぐらを掴まれた姿勢のまま、麗華は指先でスマホの画面を滑らせた。
次に映し出された写真。そこには路地裏で蓮司が不良を打ちのめした瞬間の姿が、言い逃れの不可能な角度から鮮明に記録されていた。
これを警察や学校に持ち込まれれば、日常の崩壊は免れない。
退学、アルバイトの解雇、そして——。
「大層立派なお兄ちゃんが二人もいて、妹ちゃんと弟君も幸せね」
「っ! …………」
息が止まった。
冷たい汗が背筋を伝い落ちる。
すでに全てを調べ上げられていたのだ、自分の一番触れられたくない領域まで。
「あいつらには手を出すな」
「それは貴方の態度次第。今、誰の何を掴んでいるの?」
「……チッ」
蓮司は深く重い息を吐き出すと、ゆっくりと胸ぐらから手を離した。
爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、自分の席へ戻ると、苛立たしげに冷めかけたコーヒーを口に含む。
舌の上に残る刺すような苦味が、乾ききった喉を焼いた。
「もう一度言うわ。私のゲーム攻略に協力しなさい。貴方の武力を腐らせておくのは、私が許さない」
この数十分のやり取りで蓮司は確信した──目の前にいる女は常人の倫理観で動いていない。
自分を駒として使うためなら、その毒爪を迷いなく幼い妹弟へと伸ばすだろう。
「クリアした際の報酬は全て貴方のもの。なんならその後もウチでプロゲーマーとして雇ってあげてもいい。それも全て、日本一の後継に相応しい貴方だからこその提案なのよ」
「……本気かよ」
「ゲームに本気になるのはおかしい?」
「俺は兄貴とは違う。ゲームなんてガキの頃以来してねぇ」
「十分よ。手取り足取り教えてあげる」
「今日会ったばかりの俺に?」
「情が湧かない、いいパートナーになれそうね」
「ハッ。……いい奴隷の間違いだろ」
選択肢など最初から存在しなかった。
この悪魔が差し出した毒手を取る以外、家族の日常を守る術はない。
「──分かった。その提案を受ける」
不快だ。胃がひっくり返るほどの胸くそ悪さだった。
だがその不快感の底で、ずっと死んでいたはずの血が、ドクリと熱く脈打ち始めているのを蓮司は感じていた。
目の前の女が本気かなど、あの目を見れば一目で分かる。
自身の理想を見据え、その目的の為ならどんな手段も厭わない。
そんな彼女の瞳を見ている内に、何故か胸が──かつて、兄の背中を見ていた時のように疼く。
「ただし。俺の最優先はあくまで家族だ。そのためのバイトも続けるから、長時間のプレイは厳しいぞ」
「いいわよ。それが今の貴方の生きがいなんだから」
麗華の顔に勝利を誇る色はない。
ただ取引が完了したことを確かめるような、冷ややかな静けさがあるだけだった。
彼女は残ったコーヒーを最後の一口まで飲み干すと静かに立ち上がり、
「でもね。断言してあげる」
ドアへと向かいながら、彼女は振り返ることなく淡々と告げる。
「──熱に浮かされる時、人は人でなくなる。その熱を支配するか、支配されるか。運命の分かれ道はその岐路にある」
突然の不気味な忠告に蓮司は眉をひそめるものの、その言葉はやけに胸の深い奥底へと突き刺さった。
「まぁ詳しいことはまた後日。今日のところはもう帰るわ。せいぜいバイト、頑張ってね」
麗華は返事も待たず、テーブルにコーヒー代を置くと店を出ていった。
黒服たちもその後を追い、静かに扉が閉まる。
「…………後継、か」
静寂を取り戻した店内で、蓮司はポツリと呟いた。そして実感した。
──事故以来失っていたはずのあの胸のざわめき。
それが蓮司の胸の奥で、静かに、そして確実に熱く脈打ち始めていたことを。




