02. 悪夢は現実となり、悪魔を呼ぶ
♢
(あぁ…………今日も、これか)
蓮司は月に一度か二度、夢を見る。
それは現実ではもう二度と会うことのできない──大好きな兄の夢。
夢の中で幸せそうに笑う兄の顔を見ていると、胸の奥が温かくなり、懐かしい愛おしさに心が満たされていく。
それは忙しい日々を過ごす蓮司の数少ない楽しみでもあった。
「──なぁ蓮。聞いてんのか?」
目の前で不敵に笑う兄、宗一郎。
家、学校、川、海、山。色々な場所で兄と会ってきたが、今日出会ったのは幼い頃に兄妹四人仲よく遊んだ、家の近くの小さな公園だった。
しかし、この場にいるのは宗一郎と蓮司の二人だけ。
「いいか蓮。お前は頭もいいし運動も出来るし、何より馬鹿みたいに優しい。喧嘩とゲームくらいしか能のねぇ俺とは大違いだ」
「……まあその通りだな」
「否定するとこだぞ」
腕を組み、しみじみと頷きながら告げてくる宗一郎。
蓮司はどこか照れくささを隠すように淡々と返した。
「いくらプロゲーマーでも、兄貴からゲームとったら残るのはただの我儘野郎だ。大人なんだから少しは自重しろ」
「ほんっと、可愛くねぇ弟だなお前はよぉ。瀬奈や舜を少しは見習え!」
自身の軽口に対し、呆れたように肩をすくめる兄の姿がたまらなく愛おしい。
夢だと分かっていても、この時間がずっと続けばいいのにと願ってしまう。
「まぁとにかく! 俺の弟だからって無理にこの世界に来ることはねぇ。お前は自由に生きたらいいんだ」
「……おう」
「それと──」
宗一郎は一瞬だけ表情を引き締めると、心底誇らしげに笑ってみせた。
「困ってる奴がいたら、遠慮なく助けてやれ。お前の好きなヒーローみたいにな」
誇らしげに背中を叩いてくれた兄の笑顔。
──その瞬間、視界に激しいノイズが走った。
(? ……なんだ、これ)
視界が歪み、幸せな公園の風景がドス黒く塗りつぶされていく。
次に目に映ったのは──。
夢だというのに鼻を突く、やけにリアルな焦げ臭い火の匂い。
視界を染める不吉な赤黒い炎。先ほどまで自在に動いていた身体が、突如金縛りにあったかのように硬直する。
「あに、き?」
その傍らで、自身を庇うように抱きしめる兄の姿。
割れたガラスを一心に受け止め、刺さった破片から流れる血。
伸ばされたその手から徐々に温もりが失われ、冷たくなっていく。
頭の中で封印していたはずの光景が、鮮明な網膜の焼き付けとなって目の前に映り──
***
「────あああああああああああああああああ!!!!?」
絶叫とともに跳ね起きる。
そうして視界に飛び込んできたのは血塗られた車内ではなく、見慣れた部屋の天井だった。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ」
荒い息を吐き出す蓮司の肌には嫌な汗がへばりつき、敷布団にはぐっしょりと冷や汗が染み付いていた。
(あの日以来、こんな夢一度だって……なんでだ)
激しい鼓動が胸を叩く。
蘇ったトラウマに頭が割れそうなほどの痛みが走る。
その時──パタパタと静かな足音が聞こえ、部屋の引き戸がそっと開いた。
「──にいちゃん?」
「……ッ!?」
そんな呼びかけに反射的に顔を上げると、そこには部屋の入り口で目をこすりながら立っている、弟の舜の姿が。
まだ小学生の幼い身空で、不安そうに蓮司を見つめている。
「どうした、舜……」
「トイレ行ってたら、にいちゃんの声が聞こえて……。なにか、あった……?」
「……っ」
蓮司は布団から這い出ると膝をつき、そのまま舜の小さな体を静かに抱きしめた。
「わ、どうしたの……?」
抱きしめた腕の中から伝わってくる確かな温もり。
あの日冷たくなっていった家族の中で、唯一残されてくれた命の温かさだった。
「大丈夫だ。なんでもないよ」
力強く、誓うように腕に力を込める。
「舜も瀬奈も……俺が絶対、守ってやるからなぁ」
家族さえいれば他には何もいらない。命を賭してでも守り、育て切ってみせる。
決意を今一度固め、震える声を押し殺しながら、蓮司は弟の頭を何度も優しく撫で続けていた。
***
あの日の夢から数日が過ぎた頃。
当然ながら生活の周期は何一つ変わりはしない。早朝から深夜まで、学校の合間に体を削るようにバイトを詰め込むだけの日常だ。
(コーヒーの在庫は十分。後は菓子用の小麦粉と……)
知人のコネで紹介してもらったこの喫茶店は、蓮司にとっても心安らぐ空間だった。
昔ながらの木造建築。広くはない店内には木と珈琲豆の匂いが深く染み込んでおり、隠れ家のような落ち着きがある。普段は歳の近い店長と二人で回しているが、今日からの数日感は店長が不在のため、蓮司一人で店を任されていた。
エプロンを締め、カウンターの準備を終えたまさにその時だった。
ドアの上の小さな鈴が乾いた音を鳴らす。
「いらっしゃいませ。空いてる席へお座りくだ──」
顔を上げ、視線が交差する。
足音もなく入ってきたのは、大きなフレームの眼鏡をかけた一人の女性。
(ん。あの制服……うちの学校か)
「ホットコーヒーを一つ。お願いします」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
奥のテーブル席へと案内する。
手慣れた手つきでコーヒー豆を挽き、ドリッパーからお湯を静かに落としていく。数分と経たずに、深いコクの香りを纏った湯気立つカップを差し出した。
「ありがとうございます。……あの、山吹君ですよね?」
「ん?」
「私、この前転校してきた、西園寺麗華って言います。同じクラスの」
(……そういえば、そんなことホームルームで言っていたような)
蓮司は湯気を立てるカップ越しに彼女の表情を観察する。
彼女の顔は俯き気味ではあったものの、眼鏡の奥から覗く瞳では蓮司同様、相手の動きを静かに追っている。
「転校したてで恐縮ですが、良かったら少しお話ししてくれませんか? 貴方に興味があるんです」
「あー……」
今日は一人で店を回さなければならないため、長居させるわけにもいかなかった。
「気持ちは嬉しいんだが、他のお客さんの迷惑になるしな。また機会があれば……」
「迷惑にはなりませんよ。──今日はもう、お客さんは来ませんから」
あまりに自然に、そして当然のように放たれた言葉。
「あ?」
「あれ、見てください」
穏やかだった店内の空気が一瞬で凍りついた。
蓮司が言葉の意味を噛み砕く間もなく、麗華はそっと窓の外へ指をさす。
視線を滑らせると、木造の重厚なドアの向こう側では、黒いスーツを身に纏った数人の巨漢が立ち塞がり、外の通行人を遠ざけるように並んでいた。カフェに近づこうとする人間を見つける度、無言の圧を飛ばす。
「……営業妨害が目的なら、警察を呼ぶが?」
「フフ、流石ね。──こんな状況でその冷静さ。……ますます欲しいわ」
次の瞬間。
麗華は静かに右手を上げ、自身の頭部へと触れた。
細い指先が束ねられた長い黒髪を掴み、躊躇なく上へと引き上げる。
黒髪のウィッグが外れ、その下から鮮烈な『赤髪』がまるで炎のようにこぼれ落ちた。
肩にかかるほどの鮮やかな髪色は、店の温かい照明の下、毒々しいまでの異彩を放っている。
続けて彼女は大きな眼鏡を外し、木目のテーブルの上へと置いた。
あらわになったのは──息をのむほど整った輪郭と、澄み切った切れ長の瞳。
「改めて話を聞いてもらいたいのだけど。えっと……矢吹君、だったかしら?」
人を見下すような薄い笑み。高圧的で艶を帯びた声。
そこには先ほどまでの地味で影の薄い転校生の姿など、微塵も残っていなかった。




