01. 山吹蓮司という男
♢
「なぁ。──これ、誰の鞄?」
とある高校、その朝のホームルーム前。
喧噪に包まれる教室で一人の男子生徒が、足元に転がっていた鞄を拾い上げた。
「年季入ってんなー。骨董品屋で買ったのかな」
「ちょっと、失礼でしょ」
使い込まれてあちこちの色がハゲ落ち、手縫いの補修痕が痛々しく残る古めかしいボストンバッグ。
呆れ顔の女子生徒が注意するのも聞かず、男子は物珍しそうに革のタグをひっくり返した。
そこに刻まれた文字を確認する。
『山吹蓮司』
「うぉっ……!?」
その名を目にした時、男子生徒の手から一気に血の気が引いた。
視線を泳がせるとすぐ目と鼻の先の席で当の本人──蓮司が、腕を枕にして机に突っ伏していた。
「…………」
──山吹蓮司。
このクラスどころか、校内全体にその名を轟かせる最悪の不良。
威圧感のある大柄な身体に、死んだ魚のようなその目つき。そして何より右の頬から首にかけて刻まれた、深く痛々しい傷跡。喋らずとも周囲の人間を怯えさせるには十分の風貌だった。
「やベーって、戻しとけ戻しとけっ!」
「失礼いたしましたでござるっと……!」
学校ではいつも寝ていて、放課後は誰もその姿を見ない。噂や外面しか知らないクラスメイトたちにとって彼は『触れてはならない歩く暴力』そのものだった。
「ありゃきっとケンカの為の休息ってやつだぜ。怖いけど、カッケェなぁ……」
「はぁ、ホント男子ってバカよね」
「アホみたいに顔で塗り絵してる女子よりマシだろ」
「殺すぞタコ助」
その時、タイミング良く教室の前ドアが開いた。見慣れた担任の教師が教卓へと歩み寄り、パンパンと出席簿を叩く。
「喧嘩するほど仲が良いってことで、お前ら席につけ。ホームルーム始めるぞ」
教卓の前に立った担任は生徒たちの着席を確認すると、どこか誇らしげに告げた。
「今日は連絡事項の前に──新しくお前たちの仲間になる転校生を紹介する」
「うぇ、マジで!?」
「女子!?」
「女子だ」
「キタコレ!! ついに俺もラブコメの主人公に!?」
「サイッテー」
先生の合図とともに静かにドアが開いた。
担任の後ろからついて登壇する、一人の女子生徒。
「今日からこのクラスに編入することになった、西園寺麗華さんだ」
「……はじめまして。よろしくお願いします」
ボソリと遠慮がちに紡がれた短い自己紹介。
長い黒髪を一つにまとめ、顔の半分を覆うような大きな眼鏡の奥で視線を伏せている。制服の着こなしもどこかぎこちなく、ごく平凡な少女。
期待に胸を膨らませていたクラスメイトたちの空気も、一瞬で微妙なものへと変わっていく。
(…………ねみぃ)
そんな教室の騒がしさに一瞬だけ耳をぴくりと動かしたものの。
蓮司は少しも顔を起こすことなく、そのまま深い眠りへと落ちていった。
***
──放課後。
「んん……」
一日中机に突っ伏して寝続けていた蓮司は、ようやく重い瞼を持ち上げた。
すでに教室には数人の男子生徒しか残っていない。蓮司が鞄を抱え、教室を抜け出そうとした──その時。
「だからみんなでやろうって! クリアしたら報酬は山分けってことで!」
そんな熱量のこもった大声が教室内に響き渡る。
「落ち着けって。早口すぎて何言ってっかわかんねーよ」
「落ち着いてられるかよ! 発表された公式アナウンス、お前らも見たろぉ!?」
興奮した様子のクラスメイトが、手つきも怪しくタブレットの画面を突きつけていた。蓮司の視界にも自然とそのディスプレイの文字が飛び込んでくる。
『世界初! フルダイブ型VRMMO『マジシャンズ・ラグナロク』──ワールドクリア達成者に、賞金総額【100億円】を授与!』
「クリア者に100億……それだけじゃねぇ、ゲーム内レアアイテムの現実換金権に、プロゲーマーとしての終身雇用契約までついてくんだぞ⁉︎ やべーよ、現実かよこれ!」
「いや無理だろ。現実みろ、俺たちゃプロゲーマーでもなんでもねぇんだ」
「夢でもかまわねー!100億だぞ100億! 人生一発逆転だ!!」
「…………」
熱弁を振るう声を背に、蓮司は静かに校舎をあとにした。
だが夕暮れ時の街を歩きながらも、その言葉は頭から離れなかった。
100億円。頭の中でその桁外れの数字が何度も重く響く。
(それだけの金があれば、あいつらに何でも買ってやれるな)
そうしてふと自分の手に視線を落とす。指先は荒れ、体は常に鉛のように重い。
それでも止まるわけにはいかない。そんな夢のような話には期待しても仕方ないのだから。
甘い考えを捨て、帰り道の裏路地に差し掛かろうとした、その時だった。
「おい止まれ。山吹ぃ」
後ろから急にかかる声。
威圧感を隠そうともしない不躾な響きを無視して、蓮司は足を速めようとする。
「聞こえねぇのか? 気持ち悪りぃツラした、そこのお前だよ」
その一言に、ピタリと足が止まった。
ゆっくりと振り返ると、そこには同じ校章を胸につけた大柄な男。その後ろには、十数名の生徒たちが薄暗い路地を塞ぐように群がっていた。
「ウチの高校で番張ってる羽場だ。話があんだ、ツラ貸せ」
「時間がねぇ。また今度な」
「おいおい待てよ。俺が誘ってんだ」
返事すら待たずに横を通り過ぎようとする蓮司に対し、羽場は小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「大体何をそんな急いでんだ? 二年が言うには、学校の外でお前を見かけることはほとんどねぇらしいじゃねぇか」
「……バイトだよ」
「ぶはっ! マジで言ってんのか!? 最悪の不良さんが何してんだよ!」
「いいから退け。急いでるって言ってんだろ」
「いーや。そういうことなら尚更どかねぇな。要は金が欲しいんだろ? ならお前にやってもらいてェことがある」
「あ?」
蓮司の眼光がわずかに鋭さを増す。
「簡単だよ、喧嘩ビジネスってやつだ。近々隣町の暴走族と揉める予定があっから、お前も俺たちに混じって喧嘩しろ。報酬はそいつらから巻き上げた金とバイクの半分でどうだ? ちまちま働くよか何倍も楽に──」
「断る」
提案の途中で言葉を叩き斬る。
下卑た口調、考え、それら全てを見下すような冷ややかな一言。
「ケツ持ちが欲しいなら、最初から頭下げろよ負け犬。まぁ、土下座されたって断るがな」
「……あァ!?」
そんな挑発的な一言に空気が一変する。
周囲の不良たちも一斉に血の気を立て、羽場は怒りに顔を歪める。
「負け犬はどっちだ! 鞄買う金もねーような貧乏人がよ!」
強烈な力で手を伸ばし、蓮司が抱えていた古いボストンバッグを力任せに引っつかもうとした。
──その瞬間。
蓮司の踏み込みが一瞬で沈み込み、蹴りが鋭く空を切り裂く。
爪先が羽場のこめかみを寸分の狂いもなく正確に撃ち抜き、そのまま地面へと叩き落とした。
「がぺっ?」
何が起きたかも理解できないまま、羽場の大躯は駒のように回転し、コンクリートの地面へと衝突。
そのまま白目を剥き、ぴくぴくと地面で痙攣する羽場。
殺気立った不良達を静かにさせるのは、十分なインパクトだった。
「汚ねぇ手でこれに触んなよ。おっさん」
冷ややかに言い放ち、蓮司は静かに鞄の埃を払った。
「んだ……テメェ‼︎」
「ぶっ殺せ‼︎」
不良達は持っていた鞄を放り投げ、囲むように蓮司へと迫っていく。
右頬から首にかけて刻まれた痛々しい大傷。それが運動による急激な体温の上昇とともに、古傷の痛みとなって疼き出す。
──この傷を負ったあの日。
その日から山吹蓮司が生き続ける理由は、一つしかない。
***
雨音だけが不気味に響く、葬儀場の暗がり。
線香の煙が煙る祭壇に置かれているのは、蓮司が誰よりも尊敬していた自慢の兄の遺影。
両親は蓮司が幼い頃に離婚。
しばらくは母親の元で育つものの、過労により急逝。それからは七つ上の兄が親代わりとなり、蓮司と下の弟妹二人を一人で育てていた。
そんなある日、兄と出かけた矢先に起きた事故。
トラックの居眠り運転により、正面から車同士が衝突。運転席にいた兄は即死だった。
奇跡的に一命を取り留めた蓮司の右頬には、破損したフロントガラスの破片によって消えることのない裂傷が深く刻み込まれていた。
「………… 」
だが、肉体の痛みなどどうでもよかった。
激痛に耐えながら車椅子で参列した葬式。蓮司の目の前にいたのは、死の意味すら理解できず、泣きじゃくる幼い妹と弟の姿。
『可哀想にねぇ。でもうちは自分の子供だけで手一杯だからね』
『三人まとめて預かるなんて無理だよ。施設に入れるしかないんじゃないか?』
『まあ、それが一番穏当な解決策だろうね。離れ離れにはなってしまうが……』
焼香を終えた親戚たちが式場の隅で交わす、無慈悲な算盤の音。誰も残された幼子たちの未来を、一歩踏み出して背負おうとはしなかった。
(……ふざけんなよ)
車椅子から立ち上がり、足をもつれさせながら啜り泣く弟妹のもとへ歩み寄る。
幼い二人を強く引き寄せ、蓮司は心の中で強く誓った。
(俺が守るんだ。誰になんと言われようと俺が、兄貴みたいに──)
施設に渡して二人の仲を引き裂かせたりなんてことはしない。
寝不足も荒れた手も。
それらは全て、幼い家族の笑顔を守り抜くための、悲壮なまでの覚悟の証だった。
***
「……ハァ」
蓮司はふと我に返った時。
足元には先ほどまで息巻いていた十数人の不良たちが無残に転がり、痛みに身をよじらせて呻いていた。
一斉に襲いかかってきた十数人を等しく返り討ちにするのには、五分とかからなかった。
「何が喧嘩ビジネスだ。真っ当に働くのが一番だっつーの」
「……んの、バケモンめ……!」
鞄を持ち直した蓮司に、這いずりながら見上げる不良の一人。
悔しさに顔を歪めて絞り出すような声を張り上げる。
「なんなんだよテメェは! テメェだって不良なんだろ!? 暴力使って、好き勝手やってんだろ!?」
「……好き勝手ねぇ」
蓮司は足を止め、振り返ることもなく静かに呟いた。
「そんな人生だったら、幾分楽だったかもな」
そんな一言を残し、蓮司は夕闇が包み込む路地を足早に去っていった。
静まり返った路地。
転がる不良たちの呻き声だけが虚しく響く。
──その電柱の陰から、静かに姿を現す影があった。
「…………」
黒髪をひとつにまとめ、顔の半分を覆うような大きな眼鏡をかけた少女──西園寺麗華。
彼女は蓮司が去っていった路地の先を静かに見つめていた。
その眼鏡の奥に秘められた瞳に宿るは、獲物を見つけた肉食獣の如き怪しき瞳。
「……欲しい」
少女の呟きは誰にも届くことなく、夕暮れの雑踏へと溶けていった。




