12. 寒暖差
♢
「……昨夜は随分とお楽しみでしたね?」
「殺すぞ」
テーブルの向かいで磁器のカップを弄びながら、くたびれ果てた蓮司を茶化すように見つめる麗華。
徹夜明けの重い身体を引きずり、死に物狂いで身支度を整えて滑り込んだ学校では、案の定いつものように机に顔を伏せて爆睡した。全身にこびりついた疲労と関節の痺れは、あの『マジシャンズ・ラグナロク』での激闘が単なる夢ではないことを、嫌というほど蓮司の神経に訴えかけていた。
「テメェわざとだろ。感覚フル再現なんて余計なことしやがって、おかげで難易度爆上がりだっつーの」
「そうでもしないと貴方本気にならないでしょう? 所詮ゲームなんて思っているかもしれないけれど、そんな甘い世界じゃないの。それは昨日で十分に分かったはずよ」
「……本気、ねぇ」
「なに?」
「いや? なんでもねぇ」
昨夜の死闘が脳裏をよぎる。
あの地獄のようなボス戦の後、フレンド登録だけを交わして別れたクロードの顔。彼は「今日もログインする」と言っていた。
その純粋すぎる情熱と、自分に向けられた真っ直ぐな瞳を思い出し、蓮司はわずかに視線を落とした。
「それにしても初日から暴れてくれたわね。依頼消化どころかA級モンスターまで倒しかけるなんて。掲示板でも貴方達のことでもちきりよ?」
「あ? 掲示板?」
麗華が細い指先でスライドさせ、差し出してきた端末の画面。そこには『マジシャンズ・ラグナロク』公式コミュニティや有志による攻略掲示板のログが、すさまじい勢いで流れ去っていく様が映し出されていた。
【速報】スターティア外郭門前、初心者ふたりがゴブキングを足止めしてた件
【特定班】侍と傭兵の弾丸パ。
【求む情報】クラン勧誘したい為情報求む
「こんなものはただの序章。貴方の熱は確実に世界を動かすわ」
(平原での戦いはプレイヤーに見つかる宿命なのか?)
画面には荒い画質ながらも、巨大なゴブリンキング相手に死線の上で立ち回るヤブキとクロードの姿が鮮明に記録され、閲覧数はすでに数百万を超えていた。
「流石、私の見込んだ男。……それはそうと、もう一人──確か、クロードとかいったかしら?」
「あ?」
麗華の氷のように冷たい瞳が、わずかに細められる。
「彼もなかなか腕の立つプレイヤーみたいね。……ちょっと欲しくなっちゃうかも」
唇の端に獲物を定める爬虫類のような笑みを浮かべる麗華。
「アイツは関係ねぇ。誰かれ構わず手ぇ出すな欲しがり女」
「…………」
静かに、だが明確な拒絶を込めて咎める蓮司。
麗華の笑みが消え、卓上に刺すような沈黙が落ちる。
次の瞬間、麗華は緩やかな動作で手を伸ばすと、蓮司の制服のネクタイを優しく、けれど逃げられない強さでグッと締め上げた。
顔が至近距離まで引き寄せられる。香水の甘い匂いと、ゾッとするほどの絶対的な圧迫感。
「一日会わないだけで立場を忘れたわけじゃないわよね。お兄ちゃん♡」
「…………チッ」
首元に食い込む布地の感覚。
蓮司は奥歯を強く噛み締め、視線だけを睨み返すことしかできない。
「しばらくはそのままゲームに触れること。私は今向こうの世界で忙しいから、事が落ち着いたらまた連絡するわ」
優しくネクタイの手を離し、麗華はスマートに身支度を整えて席を立った。
「その調子でせいぜい、お友達と楽しんでね」
カツカツとヒールの音を響かせ、麗華は振り返ることもなく去っていった。
開いたドアから吹き込む冷たい外気が、熱を持った蓮司の首筋を撫でる。
(忘れてた。今の俺は貧乏なだけじゃなくて……奴隷だった)
これからの行き先に重い不安を抱きながら、蓮司は深く溜息をつき、カルトナージュ調の背もたれに頭を預けた。
──その時だった。
カラン、とドアの上につけられた小さなベルが、優しく涼やかな音を鳴らした。
「あ、蓮司くん。お疲れ様〜」
麗華と入れ違いで店に入ってきた一人の女性。
綺麗にまとめられた透き通るような銀髪に、少し意地悪そうな、けれど陽だまりのように温かい笑みを浮かべている。
このカフェ『クロノス』の店長──桐雨美琴が、そこに立っていた。
「今の子、知り合い? はっ……もしかして、彼女──」
「違います」
「即答かよ」
美琴は肩をすくめながらクスクスと笑う。
年齢は蓮司とほぼ同じか、せいぜい一、二歳上。
この『クロノス』を立ち上げてからというもの、彼女はほとんど休みなく店に立ち続けている。
だがその佇まいには角がなく柔らかい。長閑な空気が満ちる店内で、彼女の笑顔ひとつが訪れる客の心を自然と解きほぐすものがあった。
「それにしても、これまたいつもより酷い隈だねぇ。夜更かしでもした?」
「まぁ、そんなところですね」
「珍しいじゃん、何してたの? まぁ高校生だし、ちょっとえっちなあれとか──」
「……色々あってVRゲームを」
「え、マジ⁉︎ あの蓮司くんが⁉︎」
「あのって何ですか」
「金稼ぎ効率厨」
「引っ叩きますよ」
「いや待って、今日イチびっくりなんだけど! あのいつもスカした感じで『効率が〜』とか言ってる癖に急に……何があったの?」
「……クリアすれば、報酬金が出るって話で」
「あー、あれか! 『マジシャンズ・ラグナロク』!」
「それです」
美琴は驚きに目を白黒させたあと、どこか嬉しそうにふっと目を細めた。
「そっか……そっかぁ! 蓮司くんにも人並みの趣味ができたんだぁ。よかったねぇ」
「趣味って訳じゃないですよ。金目的です」
「恥ずかしがんなよー。思春期か? 思春期だな?」
「二十歳手前をつかまえて思春期って言わないでください」
軽口を叩きながらも、美琴の声の端々には確かな喜びが混じっていた。
あしらいつつ、蓮司はエプロンを身につけ、接客の準備を整えた。
「ふぅ。それじゃ、今日も頑張りますか!」
「はい。お願いします」
それから数時間、ふたりはいつものように息の合った手つきでシフトをこなしていった。
夕暮れの店内には穏やかなJAZZが低く流れ、常連客たちが静かに読書や会話を楽しむカトラリーの音が心地よく響いていた。
注文を暗記し、テーブルを清掃し、空いた皿を下げる。作業を淡々とこなす中で、先ほどまで蓮司を苛んでいた重圧が、少しずつ洗われていくようだった。
──閉店時間が近づき、窓の外に濃い夜の帳が落ちた頃。美琴がグラスを布巾で拭き上げながら、ふと口を開いた。
「今日はもう上がっていいよ。後は私一人で片付けるから」
「いいんですか。でも一人じゃ大変でしょ」
「いいってば。弟ちゃんと妹ちゃん、家で待ってるでしょ? 蓮司くん親代わりなんだからちゃんと顔見せてあげな」
美琴は肩をすくめ、追い払うように手をひらひらと振った。
「ほら帰った帰った!あと、趣味なのは良いけど夜更かしはほどほどにね」
「だから趣味じゃないですって。……でも、ありがとうございます」
「うん。気をつけてね」
見送られながら、蓮司は『クロノス』の重い木製のドアを押して外に出た。
──カラン。
扉が閉まり、静まり返った店内にポツリと残された美琴。
彼女は誰もいなくなった客席を見つめ、拭いていたグラスを静かにカウンターへ置いた。
「それにしても、蓮司くんもあのゲーム始めたかぁ……」
ふふっ、と。
どこか愛おしそうな苦笑いを浮かべる。
「……いつか、会っちゃったりしてねぇ」
扉が閉じた後。
誰にも聞こえない美琴の小さなつぶやきが、琥珀色の空気が満ちる店内へ静かに響いた。
***
──アパートに着いたのは夜になってすぐだった。
蓮司がドアを開けると、元気な足音が近づいてくる。
「にぃに、おかえり〜! 」
先に飛びついてきたのは弟の舜だった。小学生特有の活気に満ちた顔。後ろから中学生の妹、瀬奈が落ち着いた様子で続いてくる。
「おかえり。店長さんに帰してもらったの?」
「ああ。ただいま、二人とも」
蓮司は二人の頭を順に撫でるとすぐにキッチンへ向かった。
帰り道で買ってきた食材を広げ、手早く包丁を握る。レトルトやコンビニに頼る日もないわけではないが、毎日何か一品は作るようにしている。
「今日は肉じゃがにするわ。瀬奈、テーブル拭いてくれ。舜は食器出してな」
「うん! わかった!」
「……お兄ちゃん、大丈夫? 目の下いつもより黒いよ」
「大丈夫。ちょっと夜更かししただけだ」
「夜更かしは体に悪いって、前にも言ったじゃん。てか今日朝ごはん食べていかなかったよね?」
「すまんすまん。もうしないから」
蓮司の手は慣れたものだった。野菜を切り、肉を炒め、煮込む。湯気が立ち上り、アパートの狭いキッチンには徐々に、鰹の温かい匂いが広がっていく。
やがて食卓が整った。三人分の皿が並び、舜が嬉しそうに手を合わせる。
「いただきます!」
「いただきます」
蓮司も箸を取り、料理を口に運ぶ。
ごく普通のささやかな夕食。親のいない三人で、こうして食卓を囲む時間。これが蓮司の一番好きな時間だった。
舜が学校の話を始めた。今日の体育で転んだこと、友達との些細な出来事を、身振り手振りで話す。
「でさ、俺が走ってたら転んでさ! でもすぐ起きてみんな笑ってた!」
「えぇ、怪我はしなかった?」
瀬奈は静かに聞きながら、時折「それは危ないよ」と落ち着いた声で注意を挟む。蓮司は相槌を打ち、時々笑い、普通の兄としてそこにいた。
なのに——。
蓮司はふと箸を止めた。
胸の奥がどこか満たされない。温かいご飯、弟妹の笑顔、日常の幸せ。
それは確かなものとしてここにある。
だが、頭には依然として昨夜の出来事が残っていた。
この食卓は蓮司にとって確かに大切で、守りたいものだった。だが同時に——あの非現実の衝動が体のどこかで疼いている
(……満足してない、とでもいうのか)
蓮司は黙って食べ続けた。普通の幸せな食卓。
なのに自分だけが、少しだけ離れている気がした。守りたいものを守りながらも、どこかで『もっと』を求めてしまう自分に、蓮司は静かに戸惑っていた。
食事が終わり、舜が風呂に入り、瀬奈が宿題を始めているのを確認し、蓮司は自分の部屋へ向かった。
薄いカーテンを閉め、布団に座る。そうする事で疲れが一気に押し寄せてくる。
だが目を閉じて忘れようとしても、脳裏には昨夜の光景が浮かぶ。
(────ちょっとだけ、なら)
心配されたように、今日は身体を休めるつもりだった。
だがその指はすでに、ヘッドセットのスイッチにかかっている。
蓮司——ヤブキは静かに息を吐いた。
現実ので感じたあの微かな不足感。それを埋めるように。あるいはただ、確かめるように。




