09. 好きの理由
♢
──カァン。
『立て。休むんじゃない』
遠い日の竹刀の甲高い乾いた音。そして冷たい畳の匂いが、刀を握る掌の裏にふと蘇る。
あの頃は額を伝う汗を拭うたび、父の重苦しい視線が背中に刺さるのを実感していた。
『肘を上げるな、刃筋を叩き込め。何の為にやっていると思っている』
幼い腕に擦り込まれたのは勝つための『技術』ではない。意志を殺し、ただ命じられた通りに体を動かす『型』。
(つまんないな。……かといって、やりたいこともないや)
朝練、放課後、週末。
薄暗い道場の中で、足の裏の皮が剥けるまで木床を滑らせる日々。父が彼に求めるのは剣を握ることのみ。そこには息の詰まる義務しかなかった。
──それが一変したのは、彼の両親が離婚した時だった。親権は母親が取り、父は腹立たしげに自身の元を去っていった。
『一つ、受け取って欲しいものがあるの』
荷物のまとまった静かな居間で、改まって母親から言われたことがある。
『今だから聞けるけど、直人は剣道、楽しかった?』
『…………』
『……だよね』
言葉を詰まらせる直人の反応に母は目を細めると、小さな手で自室のデスクへひとつの機械を置いた。
──流線型のフォルムをした最新式のVRセット。
『なに、これ?』
『しばらくお父さんから助けてあげられなかった、ごめんなさいの気持ち。一度でいいからやって見て欲しいの』
後日、彼は自室で初めてゲームというものに触れた。
視界いっぱいに広がった眩い青空。自分の足で踏みしめた草原の柔らかさと、刃を振り抜いた瞬間に手に残るずっしりとした手応え。
何もかもが新しく、事あるごとに心が動く未知の世界。
彼にはそれが楽しくて堪らなかった。
『何もこれじゃなくてもいいの。これからは直人がやりたいことを応援するから──頑張ってそれを見つけてね』
誰に命じられたわけでもない。
己の指先で風を切り、己の眼で敵の動きを見極める。
黒道直人が『クロード』として、刀を振るう理由はひとつしかない。
***
(……何で、分からないんですか)
頭に浮かんだ男──ヤブキの冷めた眼光を意識の底へ振り払い、クロードは夜の平原を独り歩いていた。
始まりの街『スターティア』の巨大な城門が、月光を受けて淡い灰色のシルエットを浮かび上がらせている。草むらを渡る夜風が、湿った頬を冷ややかに撫でていく。
世界の端々にまで惜しみなく注ぎ込まれた開発者の情熱──その細部まで研ぎ澄まされた空気を、全身で味わう。
「…………ん?」
──しかし門前に近づくにつれ、異変に気づいた。
静寂が、一瞬で耳を刺すような金切り音によって弾け飛ぶ。
「ふっざけんな! 何でっ……なんでこんな、初心者エリアに⁉︎」
「逃げろ! 門の中に逃げ込めぇぇッ!」
悲鳴と怒号。門前のプレイヤーたちが恐怖に顔を歪め、蜘蛛の子を散らすように街へとなだれ込んでいく。
「ちょ、っと……何が起きて──」
よく見ると門前には、およそ100を超えるであろうゴブリンの大群。しかし彼がそれに気づいたのは二の次。
平原の地煙を爆発するように突き破り、スターティアの門前に鎮座しているのは──異次元の巨躯だった。
赤黒い鋼のような甲冑肌、小鬼首領とは似て非なるその筋骨隆々の肉体、そして背中から生えたいくつもの巨角。
打ち鳴らされる丸太のような鉄塊の棍棒が、乾いた音を立てて地面を抉る。
逃げ遅れたプレイヤーの身体を容赦なく叩き潰し、その肉体を眩い光の粒子へと粉砕していった。
「ぉ……お母さん……」
阿鼻叫喚の混乱の中、プレイヤー達の死骸の死角に、十歳ほどの小さな影が蹲っていた。両手で必死に抱え込み、青白い顔を膝にうずめて小さく震えている。
その頭上に揺れるのは青色の文字列──この世界の住民である、NPCの証。
「……ッ!」
クロードは一筋の風となって地を蹴った。
無数に湧き出るゴブリン達の猛攻を紙一重で滑り抜け、子供の目の前へと割り込む。
「ぁ、ぇ?」
「怖かったね。もう大丈夫だから」
優しく声をかけ、立ち上がらせた──まさにその瞬間。
地面を揺らす不吉な重低音が響き、足元の石畳が跳ねた。
背後から押し寄せるのは、肌の産毛すら凍りつくような狂暴な殺気の津波。
クロードはすかさず子供を己の背後へと押し込み、無言で振り向いた。
(……マジかぁ)
こちらへ少しずつ歩み寄る巨躯の影。そ頭上に禍々しく浮かび上がる───ゴブリンキングの文字。
ゴブリン族の頂点に君臨し、その理不尽な実力から上級冒険者の間でも忌み嫌われるA級モンスター。
その瞬間、クロードの眼前に青白く明滅するシステムパネルが割り込んできた。
【緊急クエスト発生:人鬼大帝の討伐。およびNPCの保護、街の防衛】
【推奨レベル】 Lv.80
【警告】 単独での接触は極めて危険。即座の撤退を推奨。
【報酬】なし
現在の自分のレベルは、先ほどの戦いで上がった分を加味しても『26』。一撃でも直撃を受ければ、先のプレイヤー達のように瞬殺は免れないだろう。
だが彼の軸足は、一ミリたりとも後方へ引いてはいなかった。
手癖だった無駄な力みを完全に削ぎ落とし、しなやかな動作で柄を握り直す。
「少し、下がっててね」
声をかけると同時に、親指で静かに鍔を押し上げた──。
***
一方その頃。
「つぅ……ッ、クソ……」
「大丈夫ですかヤブキさん? もしかして、現実の方で体調でも……?」
「あぁいや、大丈夫だ。元気だよ」
未だ腹部に残る鈍痛に顔を歪めながら、ヤブキは暗い森の樹海を踏みしめていた。
(あの女イカれてやがる。 知っててあの機械を渡しやがった、俺が苦しむように)
これでは一歩の踏み込み、一度の判断ミスが死に直結する。
これから先の戦いを思い浮かべ、胃の奥が焼き切れるような重苦しさが募っていた。
「にしてもまともに食らっちゃいましたね。やっぱりヤブキさんも『スキル』覚えた方がいいですよ。攻撃だけじゃなくて、回避や防御に使えるのもあって便利ですし」
「ん……スキル?」
息を荒げるヤブキの横で、ショウゴが歩調を合わせながら人差し指を立ててみせた。
「このゲームのスキルは、呪文を詠唱したりボタンを押したりするものじゃないんです。感覚の引き金……言うなれば『内的アクション』ってやつですかね?」
「発動したいスキルを頭の中で強くイメージすることで、システムがその身体動作を自動で補正してくれるんです。自分の所持スキルを意識しなきゃいけないって壁はありますけど、感覚さえ掴めば簡単ですよ」
隣を歩くエリナも、身振り手振りを交えながら静かに頷く。
「つまりみんな、戦闘中もずっと考えてんのか。直感的じゃねぇなぁ」
胸の奥でその理屈を反芻しながら、スターティアの街へと続く街道を進んだ。
──だが、鬱蒼とした木々が途切れ、スターティアの巨大な城門が視界に入った瞬間。
ヤブキの僅か前を歩いていた二人の足が、ピタリと固まった。
「なんか、やけに騒がしくないですか?」
「馬鹿! あれ見て──ッ!」
エリナが指を指した先──スターティア門前の平原では、大規模な戦闘が行われていた。
黒煙が立ち上る壊れた門。そして無数のゴブリンを引き連れる、比較するのも烏滸がましいほどの巨躯。
「……一応聞くけど何かのイベントだったりする? エリナ」
「いや、この街でこんなの見たことない。どう考えても普通の依頼の範疇を超えてるし……」
(未曾有の襲撃イベント、ってところか?)
ヤブキは細めた目で門前の惨状を観察する。
逃げ惑う群衆の中に、数人ほどのプレイヤーがゴブリンの雑兵と刃を交えてはいるが、誰一人としてあの巨大なゴブリンキングへと立ち向かおうとはしていない。
「あれ……ヤブキさん、あの人って──」
しかしそんな中。血と光の粒子を撒き散らしながら泥臭く向かっていく一人の影。そこには激戦の渦中にたった一人で踏みとどまり、刃を閃かせている異質な侍の姿が。
「クロード?」
何度吹き飛ばされ、地面に身を打ちつけられようとも、膝をつくことなくすぐさま立ち上がり刃を構え直す。
(……そりゃそうだ。痛みも感じねぇこの世界なら、いくらだって)
『俺は俺の「好き」を追うためにこのゲームをしてる。俺は、あなたのような人が嫌いだ』
「──っ?」
脳裏に、先ほど冷たく自分を拒絶した少年の言葉が鮮烈に蘇る。
(本気でも、結局はたかがゲームじゃねぇか)
それなのに。
(なんでそこまでして……?)
依頼ではないというのなら、報酬が得られるわけでもない。
守っているのは制作者が作り出したNPC、人間じゃない。
損得で言えば逃げ出すのが圧倒的に正しい。
「…………」
ヤブキの胸の奥で、またもやドクリと黒い塊がざわめく。
余計な感情など一切ないその青く澄み切った熱量が、ヤブキの冷めきっていた胸の奥を抉るように揺さぶる。
そんな違和感の元、彼の身体には不思議と力が漲っていた。
「──と、とにかく! 無理に近づく必要はないですよ! あんなにプレイヤーが逃げてきてるんだし、そのうち上位勢が来てなんとかなりますって!」
「……ショウゴ。誰に言ってるの?」
「え? それはもちろんヤブキさんに──」
振り向いたショウゴの視線の先。
隣に立っていたはずのヤブキの姿は、すでにどこにもなかった。
「へ?」
***
『マジシャンズ・ラグナロク』の世界における苦痛の定義とは何か。それは外部から加わる衝撃を意味する。
打撃、斬撃、刺突、圧迫。それらの攻撃を受けるに伴う痛覚は遮断され、代わりに神経を刺激する独特な感覚に変換される。
しかし、身体の内部で起こる現象においてはこの限りではない。
極限の運動による肉体の疲労、スタミナの枯渇までは誤魔化せない。
「ハハ、強すぎでしょ……君」
戦闘開始からどれほどの時間が経過しただろうか。幾度となく刀を振るおうと、気にも止めずにこちらへ迫るゴブリンキング。息は激しく乱れ、肺が焼け付くような圧迫感を伝えてくる。
(レベル差約60。瞬殺されてないだけ上出来かな)
だが、彼は再び脚に力を込め、地を踏みしめた。
彼が戦う理由。
それは後ろで怯える子供を守る為か。はたまた、門前に残された人々の逃げる時間を稼ぐ為か。
(……いや、違うな)
ただ──ここで諦めたくないのだ。
「ここで背を向けたら、俺はただの半端者。最後まで……やり切る」
好きなことに全てを捧げる。口で言うのは容易いが、土壇場で逃げ出せばただの不格好な道楽に過ぎない。
地位も名誉も興味はない。この作り物の世界を心から愛し、この世界に生きる一人の人間として。
「俺だけは、『たかがゲームだ』なんて思っちゃいけないんだよ……」
両手で柄を固く握り直す。
回避など不可能なほど間近に迫る巨腕の軌道を、見開いた瞳で真っ直ぐに見据えた。
避ける気力はもうない。それでも逃げない。
(でも──、楽しかったなぁ……)
達成感にも似た満足感が湧き上がる。笑みを浮かべ、攻撃を受け入れる。
しかし最後までその瞳は巨腕を見つめ──
「それは違ぇだろ」
刹那。
クロードの耳元を刺すような低い声とともに、目の前に割り込む一つの漆黒の影。
ゴブリンキングが振り下ろした凶悪な鉄塊の棍棒。その圧倒的な圧力を、横合いから跳び込んできた影が、長剣の刃で正面から受け止めた。
腕の筋が激しく浮き上がり、剣の周りにうっすらと透明な光の膜が生じる。
教わったばかりの内的アクション──意識のスイッチ。タイミングを完璧に噛み合わせ、全身の体重と軸足を同期させる。
「──重ぇ、んだよコラァアア‼︎」
【パリィ】の衝撃波が空間を叩く。強烈な弾き返しにより、数トンはあろうゴブリンキングの巨躯が不格好に後方へ傾いだ。
「っ、ぇ……!?」
クロードの思考が一瞬フリーズする。
目の前に仁王立ちしているのは、先ほど自分が冷たく拒絶し、軽蔑したはずの男。
──ヤブキが肩越しにぬっと振り返る。どこかすっきりとした表情のまま、クロードを見下ろした。
「ヤブキさん⁉︎」
「よぉ、さっきぶりだな。中々男前になったじゃねぇの」
「さっきぶりって、何で、俺を……?」
「んー、話すと長くなるから後だ。それより──」
「むぐ⁉︎」
ヤブキの大きな手が伸び、クロードの両頬を力任せにバシッと鷲掴みにした。
強引に顔を引き寄せられる。
「お前最後、なんで避けようとしなかった」
「……え?」
「俺にあそこまで啖呵切った挙句、『最後までやり切った。俺は手を抜かなかった、偉いんだ!』……ってか? あめぇよ馬鹿が」
掴まれた頬越しに伝わってくる、ヤブキの鋭い眼光。しかしその冷めた眼の奥底で渦巻くのは──焼けつくほどに、苛烈な熱。
「結果の伴わない努力なんてのは全部ゴミだ。目標があるならいつだって、それを叶えることだけを考えて行動するんだ。夢を追う自分に酔うな」
「な、なんなんですかアンタは! 俺のことを否定したいのか肯定したいのか、どっちなんですか!」
「どっちでもねぇ。俺は最初から、思ったことをそのまま言ってるだけだ」
投げかけられる言葉は全て本心。
瞳を見れば、クロードにはそれがすぐにわかった。
「っ! ……結局は、お金目的の癖に」
「その通りだ。だが、お前は違うんだろ?」
顔をさらに近づけ、真っ直ぐに目を見る。
「今度は俺が聞く。──お前は何でこのゲームを始めた?」
「! …………っ」
胸の奥を直接拳で殴られたような衝撃だった。クロードの瞳が激しく揺れ、やがて迷いを振り払うように強靭な光を取り戻していく。
「好きだから……です」
「そうか。ならコンテニューだな」
「──わっ!っ、とと」
ヤブキは掴んでいた手を放すと、クロードの肩を力強く掴み上げて立ち上がらせた。
二人並んで背筋を伸ばし、目の前で再び地鳴りのような怒号を上げるゴブリンキングへと視線を据える。
「お前がまだやる気なら、最低限のサポートくらいはしてやるよ」
「……言われずとも、やってやりますよ」
相容れないはずの二つの想い。
それらが不器用に噛み合いそして── 一つの意思となり、燃え上がる。
「俺に、お前の本気を見せてみろ」




