夢の残滓
全ては遠い昔のようだ。
城の見事な中庭を一人歩きながら、フェリアはそんなことを考える。
崖の屋敷に閉じ込められていた、遠い過去。離宮で夢のように過ごした幸福な時。それらは、すべてが夢の中のように遙か遠いことのように感じられた。
それとも、ここにこうして居ることが、夢なのだろうか……?
ダーナは死んだ。シャルに切られた傷が元で、あの館に連れ戻されて幾日もたたないうちに神に召された。フェリアを閉じ込めていた魔女は、もういないのだ。
いとしいあの人が来る
私に逢いにやってくる
服を整え
長い髪を梳き
あなたを迎えるの……
「王妃さまーぁ」
口ずさむフェリアに、ミアの声が聞こえた。
「王妃さまーぁ」
「ここよ、ミア」
手にしている、たった今庭師から貰った花束を少し揺らして、それに答える。
「どうしたの、そんなに慌てて、あなたらしくないわ」
微笑む彼女に、ミアは息を整えながら言う。
「王様が狩りからお帰りになられます」
「まぁ、本当?」
ぱっとフェリアの顔が輝いた。
「では、お迎えしなくてはね」
ラバールは王になった。そしてフェリアはその王妃となった。彼の統治は今のところ大変うまくいっているようだ。それも『幸運の姫君』がついているからなのかもしれない。
けれど、と思う。
ラバールはあの時から少し変わってしまった。復讐を終えた時から消えてなくなった暗い情念の代わりに、哀しみを湛えた瞳をするようになった。そして、静かで穏やかな顔をするようになった。その表情はシャルのそれにとてもよく似ている。
それは、復讐の二文字で飾られていた若い時代を終えてしまったからなのかもしれない。
フェリアもあまりに多くのことを知ってしまった。自分の存在する意味。人を愛するということ。愛されること。人の死。……深い哀しみと、苦しみ。無知であることの、罪。
――知ることは、汚れていくことなのか。変わっていったのは、ラバールだけではない。フェリアも昔のように無邪気に笑うことはもう無い。……自分を、知ってしまったから。
……知らなければ良かったとは、思わない。でなければ、今の幸せはなかった。けれど、哀しみの後の幸福とはなんて苦いのだろう。そして多くを知った後でも、無知故に犯した罪は消えはしないのだ。
今でも、時々確認するようにラバールは、フェリアに尋ねる。幸せか、と。
フェリアは間違いなく幸せだった。だから、決まってこう答える。笑いながら、
「もちろん、幸せよ。あなた」
けれど、時々思い出したように考えるのだった。幸福とは、一体どういうものなのかと。
そんな時は、一瞬判らなくなる。自分は幸せなのか。そして、今となっては遠い夢のようになってしまった、あの館での自分は果して不幸だったのかと。
幸福と不幸。他人の尺度で、どうしてそれが計れるだろうか。確かに、フェリアはいつでも不幸ではなかったのだ。
ラプンシェルもそうだ。だから、彼女も追い出されるまであの塔を離れようとはしなかったのだ。王子と逃げだしはしなかったのだ。
今のフェリアにはそれがよく判る。フェリアとて、ラバールが手を差し延べるまで自分からあそこを離れる気などなかったのだから。
いとしいあの人が来る
私を救いにやってくる
夢みるように、フェリアは口ずさむ。遠い記憶の中にある、やさしい母のぬくもりと共に。
それは、繰り返しささやかれた子守歌。
フェリアの居た、崖っぷちの小さな館はもう無い。ダーナが死んだ後取り壊されたのだ。ラバールにとってはフェリアを閉じ込めていた忌まわしい場所でしかなかった。
今となっては、このラプンツェルの歌だけが、あの小さな世界の名残を留める唯一のもの。
懐かしい、時の彼方に忘れてきた、夢の残滓――――。
髪を編み
紅をさして
あなたを迎えるの
「幸せか?」
ラバールが問う。
「もちろん、幸せよ」
フェリアは、笑って答える。
それが、彼の幸福に繋がると信じて。
捕らわれの姫は、もういない。
読んでくださってありがとうございました。
お粗末な話ですみませんm(__)m