異世界転移は突然に②
◇◇◇トータス村・ニック◇◇◇
「パパっ! 危ないよ、行かないでよぉ!」
ニックが出かけようとするのを、彼の娘が必死で止めようとしていた。
「……もう食料がないんだ。行かなければ母さんがさらに悪化してしまう」
ベッドに寝ているのは妻。
妻の身体の周りには、黒いモヤが薄らと渦巻いている。
──妻は瘴気病だ。
しかもすでに重度。発熱を繰り返し、咳もひどい。
神殿で症状を緩和させることはできても、慰め程度。
完全に治すことなど不可能で、ましてや魔獣に至っては緩和することすらできず、その命を絶つしかない。
一度でも瘴気が自身の許容量を超えてしまえば、緩やかに死を待つのみ。
重度の瘴気病が出たということで、我が家は村人たちから遠巻きにされている。
致し方のないことではあるが、すでに家にある食料は尽きようとしていた。
食料調達のため、森に行かねばならない。
娘が心配しているのは──今現在、そこに非常に強力な魔獣がいるのが分かっているから。
三メートルほどの巨体で頭にクリスタルのツノを持つ、四つ足の真っ黒い魔獣は、神話に出てくる【虚空の王】そのもの。
──世界の終末をもたらすと言われている伝説の魔獣。
出会ってしまえば命はない。
だが行かなければ食べ物すら、もう底をつく。
意を決したニックは、心配する娘を置いて森に入った。
◇
運よく、キノコや果物がたくさんとれた。
肉も手に入った。
そろそろ帰ろうか、という時に。
──急激に周囲の空気が禍々しくなった。
(……いる。虚空の王だ……!)
ニックはヒュッと息を呑んだ。
あの草むらの陰に、見るからに巨大な瘴気の塊がある。
寝そべってはいるものの、その大きさは明白。
少しでも動こうものなら、気づかれて襲われる。
身動き一つできないまま、どれほどの時間が経ったのだろうか。
──なにやら、どこからからがやがやと騒ぐ声が聞こえてきた。
(……っ、ばかっ! 来るなっ! 死ぬぞ!)
声のする方に顔だけ向けると──そこだけ光り輝いていた。
自然と漂う瘴気など元から存在しないかのように、その一か所だけ鮮やかな色どりを見せていた。
(……なんだ?)
歩いてきたのは、見慣れない服を着た男女二人。
女の子はストレートの薄い栗色の長い髪に、ぱっちりとした大きな目。
ひざ丈の短いスカートを履いている。
男の子は前髪がぎりぎり目にかかるくらい。
襟足はきれいに刈り上げられているという、初めて見る髪型。
女の子と同じく薄い栗色の髪色。
二人ともとても整った、よく似た美しい顔立ちをしていた。
立派な服装や手入れの行き届いたその姿から、貴族のように見える。
こんな森になぜ、と、一瞬虚空の王のことなど忘れ、茫然としてしまった。
彼らは二人でずっと楽しそうに話を続けている。
手元の小さな板を見ながら……。
(やはり、彼らが来た方向が光っている……。あれは一体?)
ニックは意味が分からないながらも、ずっとハラハラしている。
なぜならもうすぐ彼らが虚空の王がいる場所にたどり着いてしまうからだ。
これほどの禍々しい瘴気を彼らは全く気にかける様子もなく──すでに真横には虚空の王が!
ようやく気付いた二人は、「なんかいる! 気を付けて!」と声を掛け合い、じっと草むらの方を凝視し──ニックはこれから起こることを想像し、『もうダメだ』と目を逸らそうとした。
恐怖で呼吸が浅くなる。
それでも硬直した身体は視線すら逸らすことができなかった。
がさりと音を立て──魔獣はその姿を現した。
(……でかい。もう……ダメだ)
四つ足だというのに立ち上がったその魔獣は、すでに三メートルを超えるほどの巨体になっていた。
禍々しい、真っ黒な瘴気を身にまとい、頭には真っ黒に光り輝く大きなツノが一本。
やはりあれは──世界の終焉を招く、虚空の王。
今まではそれに近しいもの、という意味で呼んでいただけなのだ。
それくらい、強そうな魔獣がいるぞ、という意味で。
だが、今目の前にいるのは、本物にしか見えない。
あんなのが他にいてなるものか。
この日をきっかけに世界は終わるのだという感覚が、急激にニックを襲った。
恐怖を超え、もう納得しかない。
人はこういうとき、冷静になるものなのか。
そのとき、すべての空気をぶち壊すような、明るくかわいらしい声がした。
「え、かわゆ。真っ白ふわふわニャンコじゃん」
女性が満面の笑みでしゃがみこみ、おいでと虚空の王に手を出す。
(……彼女は一体なにを)
虚空の王の顔はそこではない。
もっともっと上だ。見上げられないほどに。
瘴気をまとい、真っ黒で禍々しい姿……。
それが、彼女に触れた瞬間。
一気にパンッ! と光が弾け──虚空の王の姿が消えた。
そして彼女の目の前には、真っ白い小さな子猫が一匹。
あたりには瘴気の陰すらも見えない。
感じたことがないほどに清浄な空気が、森一体に漂っていた。
(……は? 今、一体何が……虚空の王はどこへ?)
キャッキャとはしゃぎながら子猫を囲む二人。
その子猫の額には、小さな透明なクリスタルのツノ。
「異世界の猫にはツノがあるんだねぇ」
呑気にそう言った声が聞こえた。
(……異世界? ──……異世界だと!?)
ニックは驚愕した。
それは子どものころに聞く、おとぎ話を思い出したからだ。
【世界が終焉を迎えるとき、異世界からすべてを浄化する聖女が訪れる。慈悲深き聖女はその身を尽くし、世界を清浄の地へ導くだろう】
さらにニックは、聖女に抱きかかえられる真っ白な子猫を見て驚愕した。
(待て……! 虚空の王が白くなればそれはまさしく──かつて大陸全土を統治したヴァルハイト大帝国の建国神話に出てくる、伝説の【銀嶺の守護獣ルミナーク】そのものではないか!?)
我らがファルネス王国の歴史すらはるかにさかのぼる、伝説の守護獣。
その正体が……聖女により完全に瘴気を浄化され、愛くるしい姿となった【世界を終焉へ招く虚空の王】だったというのか。
吟遊詩人の歌でも、幼い頃に聞かされた絵本でも、そんな話は一度だって聞いたことがない。
となれば、あの白い子猫の姿も真実ではないのだろう。
伝説のルミナークは、大きさを自由に変えれると神話に出てきていた。
とはいえ、子猫にもなれるとは聞いたことがなかったが。
(……これは、きっと誰にも言ってはならぬこと。自分ごときが知ってよいことではない……っ!)
とんでもないことに気づいてしまったニックは、茫然と女性に視線を定めたまま、ふらふらと足を進めた。
彼らはこちらを振り向き、驚いたように大きな目で凝視する。
「聖女様……」
ニックは思わず口にしていた。
◇◇◇◇◇◇
突然「聖女様」と口にした男性は、いきなり頭を地面にこすりつけた。
……つまり土下座である。
「聖女様! どうか、どうかわが妻を浄化していただけませんか! 瘴気病で苦しんでいるのです!」
令和の高校生が。
何もしてないのに、突然大人の男性に土下座されている……。
──ドン引きである。
「レン。ねーちゃんの後ろに下がってて」
白い子猫のルルを肩に乗せたリオンが、見知らぬ土下座男を警戒しているというのに。
「……ねーちゃん、聖女様って呼ばれてね? プフッ。聖女様って。ねーちゃんが聖女様って」
必死で笑いをこらえようとしているが、全然こらえられてない。
(レンのやつ、絞めなければ。弟の教育は姉の使命だからね)
足を軽くゲシッと蹴っ飛ばしてやった。
話を聞くと、男性はニックというらしい。
どうやら子猫のルルが彼には巨大な黒い魔獣に見えていたらしく、それをリオンが浄化したのだという。
(そっか。ルルが『こくうのおう』とかいう巨大な魔獣に見えて……)
瘴気とかいうのが彼には見えていて、それにより今、彼の妻も寝込んでいるとか。
「……あれかな。ちょっと幻覚が見えちゃってる系の……」
レンにひそっと囁くと、レンも残念そうな顔をしながら頷いた。
だってこの森は最初から何も変わってないし、ルルだって最初から小さな白猫だ。
つまりは──そういうことだ。
彼には見えないものが見えているのだ。
(うん……そういうこともあるよね。……怪しい薬の幻覚じゃないといいな)
「でもそれがねーちゃんでキラキラ浄化されたって思ってるんなら……なんかねーちゃんが気休めになるってことなんじゃ?」
「あ、鬱々した気持ちが、大好きなアイドル見たら一気に視界晴れるみたいな?」
「それだ! ってことは、ねーちゃんが浄化する儀式みたいなのをしてあげたらさ。気が晴れたりすんのかな?……呪文とか踊りとか」
レンはうーんと首を捻る。
「私が言える呪文っぽいの、寿限無しかないけど……」
(寿限無寿限無五劫の擦り切れ……うん。まだ言える)
「あれ、念仏っぽいし、イメージ違わね? うーん。やっぱ踊った方がいいんじゃね? 必死さが伝わったら良くね? ワンチャン、気分も晴れるかも」
「私が一人で踊るとリズムがおかしくなるタイプなの、知ってるじゃん」
「あるじゃん。完璧に踊れるやつ。この前、カナちゃんと一緒に踊ってたじゃん」
カナちゃんとは、小学校三年生の従妹である。
「……え? あれ?」
「うん。迫力満点だし……」
レンはスマホをポチポチとして、「あった」と笑った。
画面に映るのはダウンロードされた音楽リスト。
たくさんのクラシック音楽曲の中に、一つだけ異彩を放つ曲目があった。
「ほら! 俺あのとき音楽ダウンロードしたからWiFiなくても音出せる!」
その曲は──『ソーラン節』。
(ってなると、もうそれ踊るしかないかぁ……)
カナちゃんの運動会練習のために付き合ったのだ。
リオンが一人でしっかりと踊れるのは、ソーラン節とラジオ体操のみ。
さすがにラジオ体操じゃダメだろうから、消去法でソーラン節になる。
ソーラン節の迫力が満点なのは認めるが。
(でも、ソーラン節かぁ。一人で? 恥ずかしすぎない?)
「こんなのが気休めになるかなぁ? それに知らない人についていくの危なくない?」
「でもさ、初めての村人遭遇だし、ついて行くしかなくね? だって俺ら、今日どこで寝るの。食べ物ももうないし」
「よし、ついていくのは確定ってことで」
一晩の宿と食事の提供をお願いしよう。
テントもないのに外で寝るとか無理だ。
虫がくる。寝袋もない。絶対無理である。
(もし変な人だったら……逃げよう)
それに、この世界のことを色々聞きたい。
そのためにはこちらも出来ることをせねば。
(そう。ソーラン節だ。それしかない。分かってはいるけどさ~!?)
「……レンも一緒に踊ろうよぉ」
「俺、音楽係だから」
しれっとした顔で告げたレンに、また後ろからゲシッと蹴ってやった。
「それにしても、異世界人なのに言葉は普通に通じるんだね」
「俺も思った。これが異世界転移特典ってやつか。でもそういうのってちゃんと事前に解説するのが普通っぽいのに、ないとかさぁ? ちょっと説明不足すぎるよな」
目の前に王様がいないのならば、神様みたいなのが説明してくれるものだと思っていた。
……全然なかった。




