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甘い結婚なんて  作者: 惣領莉沙
番外編
35/35

苦味は甘さへの道しるべ

俺が社長に就任して以来、身の回りの雑用を引き受けてくれる秘書から出された


『孫が生まれるので、一週間ほどお休みが欲しいんです』


という言葉。

妹尾さんという女性秘書は、父親の代からお世話になっている会社の生き字引と言っても過言ではない女性だ。

社長が処理する業務のうち、出席する社内の会議の段取りや、社員と直接話をする時間を調整したり。

対外的な仕事は他の秘書が進めてくれるけれど、妹尾さんがこなす仕事は細かくて多い。


そう言えば、俺が地方の支店に出張の時には、その地方の名産物や県花、知事の名前など、会議の流れがスムーズにいくような話題をまとめたメモを手渡してくれたり。


かゆい所に手が届く、本当に頼りにしている秘書だ。

秘書というよりは、母親に近い感覚を抱かずにはいられないほどの距離感で俺を見守ってくれる人だ。

社長に就任して以来、社内外での立場はまだまだ不安定な俺には、まるで背後から守り続けてくれる温かさを感じる女性だから。


『困る。妹尾さんが一週間も休むなんて……でも、お孫さんか……仕方ないな。いいよ。必要なだけ側にいてあげてくれ』


大きなため息を隠そうともせず、俺はとりあえず笑って彼女に答えた。

俺が会社にいる間、仕事なら一人で考えて処理し、必要となれば会社の外にも出向いて業務にあたるけれど、社内での小さな仕事や段取りは、妹尾さんによって整然と整えられてこそ、居心地良く進められるのも、事実で。


一週間も、もしかするとそれ以上の期間、妹尾さんがいないままで俺の業務は混乱なく処理できるんだろうかと不安になる。


『妹尾さんがもう一人いればいいのに』


思わずそう呟いてしまった俺に、大きく笑うと、妹尾さんは俺の肩を軽くたたいて。


「社長のあなたが何を言ってるんですか。私がいなくても仕事は順調に進みますよ。会社なんて誰かがいなくなったら滞るなんてもんじゃありませんよ。社長が休んだとしても大丈夫なんです。

だから、多少の不便はあるかもしれませんけど、どうにか頑張って下さいね」


孫が生まれるとは思えないほど若々しい笑顔を俺に向けて、妹尾さんは俺を励ましてくれた。


「私がお休みいただいている間は、秘書課の女の子が代行として来ますから安心してください。

私よりもかなり若くて綺麗な秘書さんですから、毎日楽しくなりますよ……あ、社長には溺愛されている奥様がいらっしゃいますもんね。若さや見た目は関係ないですね」


「ああ、関係ないよ。沙耶以上の女が世の中にたくさんいるんだろうけど、俺には沙耶が一番だから、どれだけ極上の女が目の前に現れたとしても、関係ない」


「あらら。ごちそうさまです。ごちそうさまといえば、先日私にも作っていただいたお弁当おいしかったですよ。

忙しい社長のお体に気を遣われていて、野菜がたっぷりで。

本当にいい方とご結婚されましたね。……ふふっ。うちの嫁も負けないくらいにかわいい女の子ですけどね」


にっこりと笑って、妹尾さんはお嫁さんの事を考えているように見えた。


「お嫁さんって、もうすぐ孫を産むっていう?」


「はい、そうです。カメラマンっていう不安定な職業の息子を支えてくれたしっかり者で優しくて。

本当に、我が家にはもったいないお嫁さんです。……さっき陣痛が始まって病院に行ったって連絡があったんですよ」


「は?陣痛?なら早く帰らないと。お嫁さん、待ってるんじゃないのか?」


のんきに俺と話している場合か?今頃病院で痛みに耐えてるのなら、すぐに行ってあげて励まさなきゃならないんじゃないのか?

どんと構えてる妹尾さんよりも、第三者である俺の方が焦ってしまう。


「大丈夫ですよ。初産ですし、生まれるのはきっと夜中頃です。それに、息子が側についているので、春ちゃんもそれだけで安心してるはずです」


春ちゃん。きっとお嫁さんの名前なんだろうけど、その名前を呟く時の妹尾さんの表情はとても温かくて和みを与えてくれる。息子さんのお嫁さんだという春ちゃんとの関係は良好そうで幸せそうに見える。


普段、俺の世話をしてくれる姿しか知らないせいか、その嬉しそうな笑顔に複雑な心境になった。

そんな心境に気づいて、更に複雑な思いを抱えた俺の表情が変わってしまったのか。


「社長?」


妹尾さんは俺の顔をじっと見つめて怪訝そうに首を傾げた。

心配そうなその視線にはっとして、少し慌て気味に。


「あ、なんでもないんだ。その、春ちゃん?の側に早く行ってあげてくれ。仕事なら何とかなるから大丈夫だ」


ほんの少し上ずった声で、無理矢理作ってみた笑顔で、妹尾さんに告げた。


その日の夕方、いつもなら俺より早く帰る事はない妹尾さんが、申し訳なさそうに帰っていった。

彼女が留守の間の段取りを気にしながらも、社長室を後にするその背中は浮足立っていて、幸せそうだった。


そして、その姿を目にした俺は、少し切なくて寂しくて。

いつも俺を見守ってくれる、そして無条件に俺の為に動いてくれる大きな優しさに気づいた。

仕事の忙しさに紛れていたとはいっても、今更気づくなんて。


気付いて、俺の胸には苦味が溢れてきた。これまで感じた事のない苦味。


そして、妹尾さんの息子さん夫婦への嫉妬を、ほんの少しだけ感じていた。ほんの少しだけ。



  *  *  *


翌日、会社へ行く準備をする俺の様子がおかしいのに気づいているのか、お弁当を俺に渡す沙耶の瞳は心配げに揺れていた。いつもと同じ段取り通りに出かける準備をする俺に、どこか違和感を感じるのか何か言いたげにしているけれど、うまく言葉にできないのか無言で首を傾げている。


上目づかいに俺を見遣るその視線に、体はぐっと熱くなって会社に行きたくなくなる。

いつでもかわいい、俺の愛しい奥さんだけど、こうして儚げに潤んだ目で見つめられると、その魅力は更に何十倍にもなる。


本当、どこまで俺は沙耶にやられてるんだろうか。


「凌太が大好きな『つくね』と『だし巻』が入ってるから、ちゃんと食べて社長のお仕事頑張ってね。

新しい秘書さんのお弁当も用意したから、ちゃんと渡してちょうだい」


はい、と言って手渡された二つの弁当。


いつもの俺の大きめの弁当箱と、ピンクのギンガムチェックの布に包まれた小さな弁当。


どうして秘書の弁当まで?と視線で疑問を投げかけると。


沙耶はふふっと小さく笑って。


「牽制よ、牽制。私の大好きな旦那様に手を出すなっていう牽制。ま、その必要はないと思うけどね」


最後の言葉は小さく呟かれたせいか、よく聞き取れなかった。独り言のように流された言葉を聞き返そうと口を開くよりも早く、沙耶がにっこりと笑って


「何度か妹尾さんにもお弁当作ったでしょ?すごく喜んでくれたのよね。

だから今日からしばらく凌太をサポートしてくれる若くて綺麗な秘書さんにもお弁当作ったの」


「あ、そうなんだ……。でも、どうしてその事を知ってるんだ?俺、話したっけ」


玄関に向かいながら、首を傾げると。


「妹尾さんから昨日の夕方電話があったの。新しい秘書さんとの慣れない時間のせいで、凌太にストレスがたまるかもしれないけれど、すみませんって。ま、お孫さんが生まれるんだからね、おめでたいし仕方ないよね」


俺のネクタイをそっと綺麗に直してくれた。


不意に、沙耶の指先が俺の頬に伸びて、優しく目の辺りをなぞって。


「妹尾さんいなくても、寂しがらずに頑張ってね」


ゆっくりと背伸びをした沙耶は、形のいいその唇を俺の唇に重ねた。


ほんの数秒。かすめるほどの軽いキスだけど、沙耶からのキスは滅多になくてかなり貴重。


驚いたまま、沙耶の顔を見つめるだけ。


「それに、若い秘書さんにデレデレしたり、にやにやしないでよ。私がいるのを忘れないでよ」


小さく頬をふくらましているけれど、その言葉が冗談だとすぐにわかる軽い声に、俺の重い気持ちも少し浮上した。


いつも、可愛くて愛しい沙耶。彼女さえいれば他の女なんて必要ないのに。


どれだけこの気持ちを伝えれば、彼女は納得してくれるんだろうか。


激しく抱くことだけが、そして、愛していると言葉で告げるだけでは無理なんだろうか。


そんな重苦しい気持ちが表情に現れたのか、沙耶はくすりと肩をすくめると。


「なんせ凌太は浮気の前科があるから心配もゼロにはならないの。仕方ないんだよ」


「仕方ないって……それって、いつまで?」


「んー。一生?」


「は?一生?いい加減、俺の事を信用してくれよ」


わかってはいるけれど。沙耶を裏切った過去は、簡単に消えるものじゃないってことくらいわかっているけれど。


一生沙耶の心をまっさらなものに書き換える事はできないと宣言されたようで胸が痛い。


確かに俺が悪いし、沙耶を諦めきれなかった俺が沙耶に対してしでかしていた事を正当化しようとも思わないけれど。


今の俺は沙耶しかいらないし、沙耶がいなければ生きていけないと、そう思っている気持ちを一生信じてもらえないと思うと、ため息すら出ないほどに落ち込んで。


「沙耶……」


沙耶の腰をぐっと引き寄せて、そしてその耳元に。


「ごめん、本当にごめん。過去は変えられないけど、今から死ぬまでずっと、沙耶一人を愛するし裏切らないから。沙耶が一生を終える時に、幸せだったって思えるように、愛するから」


結婚式で誓った言葉よりも神聖な気持ちでそう告げた。


ずっと手に入れたくて忘れられなくて、身勝手な自分を恥じながらも手放す事ができなかった。


こうして沙耶を妻として側に置く毎日が続いていても、過去の罪悪感からは逃げられない。


「沙耶、愛してるから。その気持ちは信じてくれ。たとえどんな女が俺の周りにいても、それは関係ないし沙耶が不安に思う事はないから」


ゆっくりと、言い聞かせるように呟いた俺に、沙耶はあっけらかんとした声で。


「あー、不安もゼロにはならないよ。それも、一生ね。今日だって、新しい秘書さんは若くてきれいだって妹尾さんがからかうように言ってたもん。そりゃ、気になる。だからお弁当作って牽制するの。

凌太の嫁は私なんだよーって卵焼きに念を閉じ込めたし」


「念……って」


「ふふふ。まあ、妹尾さんも凌太が他の女の子に目がいくわけないから安心してくださいて言ってくれたし、私も基本は信じてるよ」


「あ、ああ……そう、そうなんだよ。他の女に目がいくわけないから。大丈夫」


妹尾さんが沙耶に伝えてくれた言葉に安心して、思わずそう呟いた。


本当に、沙耶だけなのに。


「うん。わかってるよ。でもね、私達は普通じゃない時間を経てこうして夫婦になったから。

それに、お互いに相手に対してマイナスの気持ちを抱える覚悟を持って結婚したから。

まっさらに気持ちをクリアにしてってわけにはいかないのよ」


「……沙耶」


明るく優しい声で言う内容ではないのに、何度も沙耶は気持ちに折り合いをつけてきたんだろう。

すらすらと迷う事なくその気持ちを俺に伝えてくれた。


何度も悩んで泣いて、そして体に傷も負って。


それでも折れる事なく今こうして俺の側にいてくれることが奇跡だとも思える。


心底、愛しい。


「凌太は、過去の裏切りを反省しながら私を愛する。

そして、私は凌太から裏切られた悲しみを忘れられないまま凌太を愛する。

つらくて逃げようと思えば逃げる事もできたけど、逃げずにお互いを愛して生きる事を選んだんだよ。

そうしてしまうくらいにお互いを愛しているって、つらい気持ちを背負う事も含めて私は凌太を選んだの。それくらいに愛してるから。

だから、そんな私を大切にしてね」


「……っ、沙耶」


思わずその体を力いっぱい抱きしめて、唇を重ねた。


さっき、沙耶が落としてくれたキスとは比べられないほどに深いキスを。


貪るように、息もできないほどに。



   *   *   *


迎えの車に乗り込んで、会社への道のりで気持ちを落ち着けた。

朝から交わした深いキスの温度を心の隅におしやって、横にいる秘書から今日の予定を聞いている。

通常通りの業務。

社長としてはまだまだ半人前で、親の七光りという声を否定しきれずにいる不安定な俺の立場。

あらゆる仕事をそつなくこなすことが、俺の立ち位置を確かなものにしていく。


と、わかっている。


それでも、今は沙耶のことしか考えられない。


流れていく景色をぼんやりと見て、秘書からの言葉に相槌を打って。


俺が家を出る時に沙耶にかけられた言葉を思い出す。


『他の人なら見捨てて逃げてるような男を愛してしまう私って、かなりいい女?

それともだめな女?』


へへっと笑う沙耶は、何だか楽しそうに見えた。


そんな表情に勇気づけられて。


『もちろん、いい女だろ。俺には世界一』


勢いよく、そう告げた。途端にくしゃりと笑った沙耶は。


『だよね。ふふっ。凌太がどんなにダメな男でも、愛してしまうから、もう離れてあげないよ。

だから、不安になっても、それはオプションだと思って、お互い愛し合おうね』


大きな笑顔を俺に向けてくれた。


「くくっ」


思わず笑い声をこぼした俺に、秘書は怪訝そうな声で。


「どうされました?」


「いや、なんでもない。悪い。続けてくれ」


「はあ……」


俺よりも年上の男性秘書は、俺のにやけているだろう顔に不思議そうな視線を向けた後、業務に関する事をつらつらと話し始めた。


仕事だ、仕事。


とりあえず、今は沙耶の事は心にしまって、秘書の言葉に集中しようとした時、携帯が鳴った。


メールだ。相手は妹尾さん。


内容を確認すると。


『無事に女の子が生まれました。3日ほどお休みいただいたら、仕事に戻ります。

社長も普段通り、頑張ってくださいませ。奥様のお弁当、また楽しみにしております』


そっとそのメールに保護をかけた。


大切な人が自分の側にいるという幸せは、離れてみないとわからない。

沙耶といい、妹尾さんといい、俺は、恵まれているし、幸せだ。


「そういえば、もうすぐ結婚するんだよな、奥さんが望むように、新婚旅行は連れて行ってあげてくれ。

休みなら遠慮なくとれよ。で、ちゃんと戻ってきてくれ」


ふと思い出して、隣の秘書にそう告げた。


一瞬驚いた秘書、曽我さんは、驚いた後嬉しそうに顔をほころばせて頭を下げた。


「戻ってきてくれるなら、それでいい」


心から、そう思う。


大切な人が自分の側にいてくれるという確信こそ、幸せの源。


離れている間の苦しみが、幸せへの導火線だ。


そう。


体に感じる苦味は、甘さへの道標だから。













































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