第八話「リスナーが増える日」
前話のあらすじ
第七話「放送、校内に流れる」
ハルが誤って校内放送のスイッチを入れてしまい、「今日の雲はイルカかサメかもしれない」という話が全校に流れた。ソラは「複雑」と言いながらも、翌日ドアに差し込まれていた手紙を見て表情を変えた。
差出人不明の便箋にはこう書かれていた——「聴いてる人、ちゃんといます」。ソラはその手紙をカセットテープと同じ引き出しにしまった。
ソラは自分の手で赤いテープをはがし、スイッチを入れた。怖いけれど、聴いてる人がいるなら流したほうがいい——その決断だった。
放送後、廊下で三年生に「また聴きたい」と声をかけられたソラは、夕暮れの空を見ながら言った。「お父さんも、こんな気持ちだったのかな」。その横顔は、今まで見た中で一番穏やかだった。
第八話「リスナーが増える日」
木曜日が、変わった。
といっても、劇的な変化ではない。ただ——放送室の扉の前に、人が集まるようになった。
最初は二人だった。次の週は五人。その次は八人。
全員、廊下に立って放送を聴いていた。扉は開けない。部屋には入らない。ただ旧棟の薄暗い廊下に並んで、スピーカーから漏れてくる音に耳を傾けていた。
ハルがそれに気づいたのは、三週目の木曜日だった。
放送を終えて扉を開けると、廊下に七人いた。
「……あ」
七人がこちらを見た。
ハルも七人を見た。
数秒の沈黙のあと、一人が言った。
「面白かったです」
「ありがとうございます」
「毎週楽しみにしてます」
「ありがとうございます」
「あの、雲の人ですよね」
「そうです」
「雲、今日は何に見えましたか」
「クリームパンです」
「クリームパン!」
七人がざわめいた。楽しそうだった。
ハルはその反応を、少し不思議に思った。クリームパンの話が、なぜそんなに楽しいのだろう。
でも——楽しそうにしている人たちを見るのは、悪くなかった。
* * *
問題は、ソラだった。
ハルが部屋に戻ると、ソラは窓際に立って廊下の様子を覗いていた。
「……何人いた」
「七人」
「先週より二人増えた」
「数えてたんですか」
「……なんとなく」
ソラは窓から離れて、椅子に座った。
「私の声、聴こえてた?」
「聴こえてたと思います。ソラさんも喋ってたので」
「……どう思われてるんだろう」
「どういう意味ですか」
「声だけ聴いてる人たちに。どんな人が喋ってるって思われてるんだろう」
ハルは少し考えた。
「聞いてきましょうか」
「聞かなくていい!」
即答だった。珍しく声が大きかった。
「……聞かなくていい。ただ、気になっただけ」
「わかりました」
ソラはしばらく黙った。コーヒーカップを両手で包む。
「……怖い、ってわけじゃない。ただ——顔の見えない相手に声を届けるって、不思議な感じがする」
「それがラジオだと思います」
「……お父さんが好きだった理由、少しわかってきた気がする」
ハルは何も言わなかった。
ソラが自分から父親の話をするのは、今ではそう珍しくなくなっていた。
* * *
その日の帰り道、ケンジが走ってきた。
「ハル! 放送部、人気出てきてるじゃないか」
「そうみたい」
「廊下で聴いてた子たちと話したぞ。みんな楽しみにしてるって」
「何が楽しみなんだろう」
「お前の雲の話と、雨宮さんの声、らしい」
「雨宮さんの声?」
「落ち着くんだってさ。静かで、でもちゃんと届く声だって」
ハルは少し立ち止まった。
「……それ、ソラさんに言っていいですか」
「なんでまた敬語になるんだよ。言えばいいだろ」
ケンジは少し笑った。
「お前、雨宮さんのこと、わりと気にしてるよな」
「部員なので」
「それだけか?」
ハルは少し考えた。
「……それだけではないかもしれません」
「おっ」
「何がおっですか」
「いや——珍しく自覚があるなと思って」
ハルはケンジを見た。ケンジは意味ありげに笑っていた。
「……何ですか、その顔」
「別に。頑張れよ」
「何をですか」
「いろいろ」
ケンジは手を振って先に行った。
ハルは「いろいろ」の意味を、歩きながらしばらく考えた。
結論は出なかった。でも——なんとなく、心当たりがないわけでもなかった。
* * *
翌日、ハルは放送室でケンジの言葉をソラに伝えた。
「落ち着く声だって」
ソラは三秒固まった。
「……誰が」
「廊下で聴いてた人たちが」
「……静かで、ちゃんと届く声、って?」
「そう言ってたそうです」
ソラはカップを置いた。窓の外を見た。今日の雲を、しばらく見ていた。
「……お父さんも、そう思ってたかな」
小さな声だった。
「きっと」
「根拠は?」
「テープに残してくれたので」
ソラはゆっくり頷いた。
「……そうね」
しばらく沈黙が続いた。
窓の外で、雲がゆっくり動いた。
「ハル」
「はい」
「……放送、続けようと思う。ちゃんと、続けようと思う」
今までと何が違うのか、言葉では説明しにくかった。
でも——今日の「続けようと思う」は、今までとは少し違う重さがあった。
「わかりました」
「またその返事」
「全部わかったので」
ソラは小さく息をついた。
でも今度は、ため息ではなかった。
もっと柔らかい、温かい音だった。
* * *
その夜、ハルは日記を開いた。
今日の雲の欄には「クリームパン」と書いた。
今日気になったことの欄には、少し迷ってから書いた。
「ソラさんの声が、誰かに届いている。」
「それが、なぜかとても嬉しい。」
ハルはノートを閉じた。
窓の外に星が見えた。
蟻は星を見るのだろうか——と思いかけて、また今日もやめた。
別のことを考えていたかった。
ソラさんの声のことを、もう少しだけ。
——第八話・了——
次回「文化祭放送、やりますか」




