第七話「放送、校内に流れる」
── 前話のあらすじ ──
第六話「テープを、再生する夜」
雨の月曜日、ソラは机の上のカセットプレイヤーをじっと見ていた。「再生しようと思ってる。でも怖い」——聴きたいから怖い、と言った。
ハルの「声は消えないので」という言葉に押され、ソラはとうとう十六年前のテープを再生した。流れてきたのは小学一年生のソラの声。カレーのこと、雲のこと、お父さんに聴いてほしかったこと。
テープの最後に、もう一つの声が入っていた。低くて温かい父の声——「ソラのラジオ、面白かったぞ。お父さん、ちゃんと聴いてたよ」。ソラが知らなかった、父がこっそり残してくれた返事だった。
ソラは泣かなかった。でも目が赤かった。帰り際、「一緒に聴いてくれてありがとう」と言った。ハルはその夜の日記に書いた——「声は、ちゃんと届いていた」。
第七話「放送、校内に流れる」
事件は、ハルのうっかりから始まった。
水曜日の放課後。いつも通り放送室に入り、いつも通りミキサーの前に座り、いつも通りスライダーを上げた。
そこまではよかった。
問題は、その日に限って桐島が「ついでに校内放送の配線も繋いでおいた」と言っていたのを、ハルがすっかり忘れていたことだ。
先週、桐島から連絡があった。「非常放送用の配線を点検したついでに、放送室のラインも校内スピーカーに繋げておいた。スイッチ一つで切り替えられるから」と。
ソラはそのスイッチに赤いテープを貼って、「絶対に触るな」と言った。
ハルは「わかりました」と言った。
そして水曜日、ハルはそのスイッチを、何も考えずに入れた。
* * *
ソラが放送室に来たのは、ハルがスライダーを上げて三分後だった。
「……ハル」
名前を呼ばれた。珍しかった。ソラはあまり名前を呼ばない。
「はい」
「赤いテープのスイッチ」
「はい」
「入ってる」
「……あ」
「あ、じゃない。今、あなたの声が校内全部に流れてた」
ハルはしばらく考えた。
「何を喋ってましたか、私」
「『今日の雲はイルカに似てます。でも尾びれが短いので、もしかしたらイルカではなくサメかもしれません』って」
沈黙。
「……それが全校に?」
「全校に」
ハルはスイッチを切った。「ON AIR」のランプが消えた。
「すみません」
「謝っても遅い」
「そうですね」
ソラはため息をついた。長い、深いため息だった。
「……どうしよう」
「どうしましょう」
「人ごとみたいに言わないで」
「すみません。どうしましょう」
* * *
翌日、廊下でケンジが走ってきた。
「ハル! 昨日の放送、お前か!?」
「そう」
「なんで校内放送でイルカとサメの話してんだよ!」
「うっかり」
「うっかりで校内放送するな!」
ケンジは肩で息をしながら続けた。
「でも——なんか、反響あったぞ」
「反響?」
「昨日の放送、誰だって話になってる。声が聞こえた瞬間、廊下がざわついたって三組の奴が言ってた」
「ざわついた?」
「悪い意味じゃなくて。なんか急に放送室から変な声が聞こえてきて、みんな顔見合わせて笑ったって。でも——」
ケンジは少し声を落とした。
「『また聴きたい』って言ってる子もいた」
ハルはしばらく考えた。
「……ソラさんに言っていいですか、それ」
「なんで敬語なんだ。まあ、言えば」
* * *
放送室でその話をすると、ソラは黙った。
長い沈黙だった。
「……また聴きたい、って」
「ケンジがそう言ってました」
「私の放送じゃなくて、あなたのイルカの話を?」
「それは……そうですね」
「複雑」
「すみません」
ソラはしばらく窓の外を見た。今日の空には雲が少なかった。薄く白い筋が一本、遠くまで伸びていた。
「……校内に流す、って、怖いと思ってた」
「はい」
「でも——聴いてた人がいたなら」
ソラは言葉を止めた。
ハルは続きを待った。
「……悪くない、かも」
それだけだった。
でも、ハルには十分だった。
* * *
木曜日の放課後、二人はいつも通り放送室にいた。
でも今日は、机の上に一枚の紙が置いてあった。
誰かがドアの隙間から差し込んだらしく、折り畳まれた便箋だった。
ソラが開いた。
ハルは隣から覗いた。
手書きの文字で、こう書いてあった。
「昨日の放送、聴きました。
イルカかサメかわからない雲、私も見てました。
また放送してください。
聴いてる人、ちゃんといます」
差出人の名前はなかった。
ソラはしばらく、その紙を見ていた。
ハルも、見ていた。
「……届いてた」
ソラが、小さく言った。
「届いてましたね」
「……うっかりで、届いた」
「すみません」
「謝らなくていい」
ソラは便箋を丁寧に折り直した。机の引き出しにしまった。あのカセットテープと、同じ場所に。
それからミキサーの前に座った。
「……今日、校内に流す」
ハルは少し驚いた。
「いいんですか」
「怖いけど——」
ソラはスイッチに貼られた赤いテープを、ゆっくりはがした。
「聴いてる人がいるなら、流したほうがいい気がする」
ハルはマイクの前に座った。
ソラがスライダーを上げた。
赤いテープのスイッチを、今度は自分の手で入れた。
「ON AIR」のランプが灯った。
その光は、いつもより少し大きく見えた。
* * *
放送が終わったあと、廊下に出ると三年生の女子が二人、旧棟の入り口のあたりをうろうろしていた。
ハルに気づいて、一人が言った。
「あの、放送部の人ですか」
「一応」
「今の放送、聴きました。雲の話」
「ありがとうございます」
「また聴きたいです。毎週やってますか?」
ハルは少し考えた。
「木曜日に」
「楽しみにします!」
二人は嬉しそうに去っていった。
ハルはその背中を見送った。
隣でソラが、静かに立っていた。
「……聴いてくれてた」
「聴いてくれてましたね」
「……お父さんも、こんな気持ちだったのかな」
ハルはソラを見た。
ソラは空を見ていた。
夕暮れの中、薄い雲が一本、静かに流れていた。
「きっとそうだと思います」
ハルは言った。
ソラは答えなかった。
でも、その横顔は——今まで見た中で、一番穏やかだった。
——第七話・了——
次回「リスナーが増える日」




