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第六話「テープを、再生する夜」

第五話「桐島センパイが来た日」

 木曜日の放課後、放送室の前に見知らぬ人物が立っていた。桐島誠——去年まで放送部の顧問だった人物で、置きっぱなしの荷物を取りに来たのだという。

 桐島はソラが去年も放送への誘いを断り続けていたことを知っていた。「雨宮がここで喋るとは思わなかった。ちょうどいい感じだな」と、ハルとソラの関係を外側からさらりと肯定した。

 帰り際、桐島が置いていったのは古いカセットテープのプレイヤー。「声は録っておくといい。残るから」という言葉を残して去った。

 ソラは「使わない」と言いながらも、プレイヤーを捨てなかった。ハルは「使わなくていい。でも捨てたくもない。近くにあればいい——そういうことだと思った」と言い、ソラはかすかに笑った。

 その日も二人は放送をした。ON AIRのランプの光が、机の上のカセットプレイヤーをそっと照らした。

第六話「テープを、再生する夜」


 きっかけは、雨だった。

 月曜日の放課後、外は本降りだった。旧棟の窓に雨粒が叩きつけていて、いつもより部屋が暗かった。

 ハルが放送室に着くと、ソラは机の前に座っていた。でも、窓の外は見ていなかった。

 机の上のカセットプレイヤーを、見ていた。

 ハルは黙って自分の椅子に座った。コーヒーを入れる前に、少しだけソラを見た。

 ソラはプレイヤーから目を離さなかった。

「……再生、しようと思ってる」

 突然、ソラが言った。

「わかりました」

「まだしてない」

「はい」

「……怖い」

 その一言は、ハルが今まで聞いたことのないトーンだった。

 ソラが「怖い」と言うのを、ハルは初めて聞いた。

「何が怖いですか」

「声が、変わってたら嫌だなって。記憶の中の声と、テープの中の声が、違ったら」

「お父さんの声ですか」

「……笑い声が入ってるかもしれない。『面白かったぞ』って言ってた、あの声が」

 雨の音が、少し強くなった。

「聴きたいから怖い、ってことですか」

 ソラはゆっくり頷いた。

「……再生したら、終わる気がして。今はまだ、テープの中に残ってると思えるから——それが、再生したら消えるみたいで」

 ハルはしばらく考えた。

「消えないと思いますよ」

「なんで言い切れるの」

「声は消えないので」

 ソラはハルを見た。

「……それ、私が言ったことじゃない」

「ソラさんが言ったことなので、正しいと思います」

 三秒の間。

「……屁理屈」

「ありがとうございます」

* * *

 ソラはしばらく黙ってから、プレイヤーを手に取った。

 テープを取り出した。あの、黄ばんだカセットテープ。「深夜三時のラジオ 第一回」と書かれたラベル。

 ゆっくり、プレイヤーに差し込んだ。

「……聴く?」

 ソラがハルに聞いた。

 ハルは少し考えた。

「ソラさんが聴いてほしいなら」

「……一人は、嫌だから」

「聴きます」

 ソラは再生ボタンを押した。

 プレイヤーが、かすかに唸った。

 最初は、ノイズだった。

 ざざ、という音。それから、布擦れのような音。マイクをどこかに置く音。

 そして——

 小さな声が、聞こえた。

『こんばんは。深夜三時のラジオ、はじめます』

 子どもの声だった。

 高くて、少し緊張していて、でも一生懸命だった。

 ハルはその声を聞いて、今のソラの声と重ねた。似ていた。少し違うけれど、確かに同じ人の声だった。

『今日ね、お父さんとご飯食べた。カレーだった。お父さんのカレーはじゃがいもが多い。私はお肉のほうが好きだけど、言えなかった』

 ソラが、小さく息をした。

『お父さんはラジオが好きだから、私もラジオやってみた。お父さんに聴いてほしいな。でも恥ずかしいから、寝てるときに聴いてほしい。起きてたら恥ずかしい』

 ハルは笑いそうになったが、笑わなかった。

『えーと……今日の雲はね、犬みたいだった。大きいふわふわの犬。お父さんに見せたかったけど、学校だったから見せられなかった。残念だった』

 ハルは窓の外を見た。雨が降っていた。今日は雲が見えない。

『深夜三時のラジオ、第一回でした。また今度やります。おやすみなさい』

 テープが終わった。

 ノイズが少し続いて、それから——

 別の声が入った。

 低くて、温かい声だった。

『ソラのラジオ、面白かったぞ。お父さん、ちゃんと聴いてたよ』

 プレイヤーが止まった。

 部屋が、静かになった。

 雨の音だけが残った。

* * *

 ソラは動かなかった。

 プレイヤーを両手で持ったまま、下を向いていた。

 ハルは何も言わなかった。

 言えることが、何もなかった。

 ただ、隣にいた。

 雨が窓を叩いていた。

 しばらくして——どのくらいかわからない、一分かもしれないし十分かもしれない——ソラが顔を上げた。

 目が、少し赤かった。

 でもソラは泣いていなかった。泣かなかった、というより、泣くのをやめたような顔だった。

「……録ってたんだ」

 ソラが言った。

「はい」

「知らなかった。テープに声が入ってるの、私の声だけだと思ってた」

「お父さんが録ったんですね」

「……寝てるときに聴いてほしいって言ったのに」

 ソラの声が、少しだけ震えた。

「起きて聴いてたんだ。ちゃんと聴いてたって、残してくれた」

 ハルは何も言わなかった。

 ソラも、しばらく何も言わなかった。

 二人は雨の音を聞いていた。

 ずっと。

* * *

 帰り道、雨はまだ降っていた。

 校門のところで、ソラが言った。

「……ありがとう」

 ハルは少し驚いた。ソラが「ありがとう」と言ったのも、初めてだった。

「何がですか」

「一緒に聴いてくれたから」

「聴きたかったので」

「……嘘つかないで」

「本当です。いい声でした、お父さん」

 ソラはしばらく黙った。

「……うん」

 それだけだった。

 でも、その「うん」は今まで聞いたどの返事より、少し違う重さがあった。

 ソラは傘を差して歩き始めた。

 ハルは雨の中、しばらくその背中を見ていた。

 傘が角を曲がって見えなくなってから、ハルも歩き始めた。

 雨は冷たかったけれど、悪くなかった。

 今日は雲が見えなかった。でも——雲の代わりに、何か大切なものを見た気がした。

 ハルはその夜の日記に、短く書いた。

「声は、ちゃんと届いていた」


——第六話・了——

次回「放送、校内に流れる」

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