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第三話「カセットテープの中身」

第三話「カセットテープの中身」


 三日目も、ソラはいた。

 四日目も、いた。

 五日目になると、ハルが放送室のドアを開けた瞬間、ソラが「来た」と言うより先に机の引き出しからマグカップを二つ取り出すようになっていた。

「これ」

「ありがとうございます」

「インスタントだけど」

「十分です」

 お湯は電気ケトルで沸かす。コーヒーはソラの鞄の中にある。砂糖はハルが三日目に近くのコンビニで買ってきた。

 気づけば、小さなルーティンができていた。

 ハルはそれを、悪くないと思った。

* * *

 その日、ハルは少し早く放送室に着いた。

 ソラはまだ来ていなかった。

 ハルは椅子に座り、机の上のマイクをぼんやり眺めた。先日繋いだケーブルは、まだそのままだ。ミキサーのスライダーは下げたままになっている。

 ハルはスライダーをそっと上げてみた。

 機材がぶうんと唸り、「ON AIR」のランプがじわりと赤く灯った。

 ハルはマイクに向かって、小声で言った。

「こんにちは」

 自分の声が、スピーカーからそっと返ってきた。

 不思議な感じだった。自分の声なのに、少し遠くから届くみたいに聞こえる。

「今日は五月の、水曜日です。窓の外の雲は、今日はクジラに似ています。大きくて、のんびりしていて——」

「何やってるの」

 ドアが開いていた。

 ソラが立っていた。鞄を肩にかけたまま、ハルを見ていた。

「練習」

「誰もいないのに?」

「誰もいないほうが練習しやすい」

 ソラは三秒ハルを見て、それから部屋に入ってきた。スライダーを下げる。ランプが消える。

「勝手に触らないで」

「すみません」

「……でも」

 ソラは小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。

「クジラ、って言ってたね」

「はい」

「……今日の雲」

「クジラに似てます」

 ソラは窓の外を見た。ハルも一緒に見た。大きな白い雲が、ゆっくり流れていた。

「……そうね」

 それだけだった。でも、ハルには十分だった。

* * *

 コーヒーを飲みながら、ハルは聞いた。

「ラジオ、前から興味あったんですか」

 ソラの手が、カップの上で止まった。

「……なんで」

「配線、すごく手慣れてたので」

「手慣れてなんかない。あの日が初めてだった」

「でも、迷わなかった」

 ソラは答えなかった。カップを両手で包んで、湯気を見つめていた。

 ハルは続けなかった。

 窓の外で、クジラの雲が少しずつ形を変えていた。

 しばらくして、ソラが言った。

「……お父さんが、ラジオが好きだった」

 声のトーンが、いつもと違った。

「深夜のラジオ。古いやつ。毎週同じ番組を聴いてた」

「どんな番組ですか」

「知らない。私が小さかったから、内容まではわからなかった。でも——声だけは覚えてる。遠くから聞こえてくる、低い声」

 ハルは黙って聞いていた。

「お父さん、もういない。三年前に。だから——」

 ソラは言葉を切った。

 それ以上は、続けなかった。

 ハルも、続きを聞かなかった。

 聞かなくても、少しわかった気がしたから。

* * *

 その日の帰り際、ソラは鞄から古いカセットテープを取り出した。

 あの日、引き出しにあったものだ。

「……見る?」

 ハルは少し驚いた。

「いいんですか」

「見るだけなら」

 ハルはテープを受け取った。薄いプラスチックの外側は少し黄ばんでいて、ラベルに手書きの文字があった。

『深夜三時のラジオ 第一回』

 日付は、十六年前だった。

「……お父さんが録ったんですか」

「違う」

 ソラはテープを受け取り返した。

「私が録った。小学一年生のとき」

「ラジオ番組を?」

「なんちゃってラジオ。お父さんのラジカセを借りて、一人で喋った。深夜三時に」

「なぜ深夜三時に」

「深夜ラジオって、夜中にやるものだと思ってたから」

 ハルは少し笑いそうになった。笑っていいのかわからなかったので、笑わなかった。

「内容は何を喋ったんですか」

「覚えてない。その日あったこととか、好きな食べ物とか、……お父さんに聴いてほしかったこととか」

「お父さんは聴きましたか」

「……聴いた。次の朝、すごく笑ってた。『ソラのラジオ、面白かったぞ』って」

 ソラの声は、ずっと平坦だった。感情を乗せないようにしているのか、それとも本当に平坦なのか、ハルには判断できなかった。

「だから——」

 ソラは窓の外を見た。

「だから、ここに来てた。この部屋に、ラジオの機材があったから。なんとなく、近くにいたくて」

 ハルは少し考えてから言った。

「じゃあ、ラジオをやりましょう」

「……もう言った。機材が古いし」

「繋がりました」

「聴いてくれる人がいない」

「ケンジが聴いてくれます」

「一人じゃん」

「最初は一人でいい。お父さんのラジオも、最初の回は聴いてたのは一人だったかもしれません」

 ソラはハルを見た。

 長い間、見ていた。

「……あなた、変わってるね」

「よく言われます」

「褒めてない」

「わかってます」

 またしばらく間があった。

「……考える」

 ソラが言った。

「それで十分です」

 ハルは立ち上がり、鞄を持った。ドアに向かう途中で、ふと振り返った。

「ソラさん」

「なに」

「お父さんのこと、話してくれてありがとうございます」

 ソラは何も言わなかった。

 でも、窓の外を向いたまま、少しだけ——ほんの少しだけ、うつむいた。

 ハルはそれを見て、ドアを閉めた。

* * *

 夜、ハルは日記に書いた。

 日記といっても、ノートに短い文章を書くだけだ。「今日の雲」と「今日気になったこと」。

 今日の雲の欄には「クジラ」と書いた。

 今日気になったことの欄には、少し考えてから書いた。

「声は、消えない」

 カセットテープの中に、十六年前のソラの声が残っている。

 そしてそれを聴いた父親の笑い声も、どこかに残っているかもしれない。

 声は、消えない。

 だからラジオというものは、面白いのかもしれない。

 ハルはノートを閉じて、窓の外を見た。

 夜空に星がいくつか見えた。

 蟻は星を見るのだろうか——と思いかけて、今日はやめておくことにした。

 今日は別のことを、もう少し考えていたかった。


——第三話・了——

次回「深夜三時のラジオ、第二回」

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