第二話「ON AIRのランプが点く夜」
第二話「ON AIRのランプが点く夜」
放送部の活動時間というものが、存在するのかどうか、ハルにはわからなかった。
翌日の放課後、旧棟の放送室を訪ねると、ソラはいた。昨日と同じ窓際の椅子に、昨日と同じイヤホンをして、昨日と同じように窓の外を見ていた。
「来た」
ソラが言った。振り向かずに。
「来ました」
「……なんで」
「部員なので」
ソラはようやくこちらを向いた。昨日と同じ、感情の読めない目だった。
「あの入部届、有効かどうかまだ確認できてないんだけど」
「そうなんですか」
「うん。だからまだ正式な部員じゃないかもしれない」
「でも今日も来ました」
三秒の間。
「……座れば」
ハルは机の椅子を引いて座った。机の上には埃が薄く積もっていた。指で「蟻」と書いてみたら、くっきりと残った。
「掃除、しましょうか」
「好きにして」
ハルは雑巾を探し始めた。机の引き出しを三つ開けたところで、古いカセットテープが一本出てきた。
「これは何ですか」
ソラが素早く立ち上がり、テープをひったくった。
「触らないで」
声のトーンが、昨日より少しだけ鋭かった。
「すみません」
「……べつに怒ってない。ただ、触らないでほしいだけ」
「わかりました」
ソラはテープを自分の鞄の中にしまった。何が録音されているのか、ハルは少し気になったが、聞かなかった。聞かないほうがいい気がした——なぜかはわからないけれど。
雑巾は結局、掃除用ロッカーの中に見つかった。
* * *
机の埃を拭いながら、ハルは言った。
「ラジオ、やりたいんですが」
「ダメ」
即答だった。
「なぜですか」
「機材が古い。マイクも死んでる。そもそも学校の放送設備に繋ぐ権限がない」
「でも、放送部ですよね」
「名前だけ。実質廃部みたいなもの」
「名前があるなら活動できます」
「……なんでそう思うの」
ハルは少し考えた。
「看板が出てる店は、開いてるってことだと思うので」
ソラはしばらくハルを見ていた。
「……屁理屈」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
でもソラは、立ち上がって機材棚の前に移動した。埃をかぶったミキサーを眺め、配線を一本抜いては戻し、スイッチをいくつか確認する。
ハルは黙って見ていた。
「……マイクは一本だけ生きてるかもしれない」
ソラが言った。声が少しだけ変わっていた。さっきより、わずかに温度が高い気がした。
「試してみますか」
「……まだ何も繋がってないから音は出ない」
「繋げれば出ますか」
「……理論上は」
「やりましょう」
ソラはため息をついた。でも、「やめろ」とは言わなかった。
* * *
一時間後。
二人は床に座り込んで、ぐるぐると巻いたケーブルを前に途方に暮れていた。
「……どこに繋がるんですか、これ」
「わからない」
「ソラさんも?」
「私は放送のことは知らない。ただここにいるだけだったから」
ハルは「ただここにいるだけ」という言葉を、少し不思議に思った。放課後、毎日一人でこの薄暗い部屋に来て、窓の外を見ている。それはどういう気持ちなのだろう。
聞こうかと思ったけど、やめた。
「検索しましょう」
「何を」
「放送室の配線のやり方」
ソラが眉を上げた。
「……それ、調べたら出てくるの?」
「案外出てくるものですよ、世の中」
ハルはスマホを取り出した。「学校放送室 配線 つなぎ方」で検索すると、驚くほど丁寧な解説ページがいくつも見つかった。
「出てきました」
「……本当に出てきた」
「世の中は優しい」
ソラはしばらく無言でスマホの画面を覗き込んでいた。ハルの肩に少し身を寄せる形になっていたが、どちらも気にしなかった。
「……これ、できるかも」
ソラの声が、また少し変わった。
「やりますか」
今度の間は、短かった。
「……やってみる」
* * *
さらに四十分後。
ハルはマイクの前に座っていた。
ソラがミキサーのスライダーをゆっくり上げる。
「……喋ってみて」
ハルはマイクに向かって言った。
「蟻は夢を見るのでしょうか」
スピーカーから音が出た。
ハルの声が、小さく、でも確かに、部屋の中に響いた。
ソラが、動きを止めた。
ハルは気づかずに続けた。
「見るとしたら、砂糖の山の夢でしょうか。あるいは、ひたすら列をなして歩く夢かもしれません。でも、もしかしたら蟻には夢というものがなくて、ただ——ただ、その日の記憶を夜に繰り返しているだけなのかもしれない。それはそれで、悪くない気もしますが」
しばらくの沈黙。
それからソラが、小さく言った。
「……何それ」
「感想です」
「感想を言ってって頼んだわけじゃないんだけど」
「でも音は出ました」
ソラは何も言わなかった。
ハルはふと気になって、天井を見上げた。
「あ」
「ON AIR」のランプが、点いていた。
赤い光が、埃の中でぼんやりと灯っていた。
「……ランプ、点いてます」
「……うん」
ソラの声は、少し変だった。
ハルが振り返ると、ソラは機材棚の前に立ったまま、ランプを見ていた。
表情は、やっぱりよくわからなかった。
でも——目が、少し違う気がした。
さっきまでとは、違う目だった。
* * *
帰り道、ハルはまたケンジに電話した。
「ラジオできそう」
「え、マジで」
「マジで。機材も繋がった」
「……その幽霊みたいな人と?」
「雨宮さんと」
「雨宮さんね。どんな人だったの、もうちょっと詳しく」
「謎が多い」
「それしか言えないの?」
「無口で、古いカセットテープを持ってて、でも配線のことは意外とできた」
「カセットテープ?」
「引き出しに入ってた。触ったら怒られた」
「何が入ってたんだろうな、それ」
「わからない」
「聞かなかったの?」
「聞かないほうがいい気がした」
電話の向こうでケンジが少し黙った。
「……それにしては、お前にしては珍しいな」
「何が」
「気を遣ったってこと」
ハルは夜空を見上げた。星がいくつか見えた。蟻は星を見るのだろうか、とも思ったが、今日はそれより別のことが気になった。
「ケンジ、一つ聞いていい」
「なに」
「誰かが毎日、一人で古い部屋に来て、ただ窓の外を見てるとしたら、それってどういう気持ちだと思う?」
ケンジは五秒黙った。
「……待ってるんじゃないの」
「何を?」
「それは本人に聞けよ」
電話は切れた。
ハルは歩きながら考えた。
待っている——何かを。
ランプが点いた瞬間の、ソラの目。
古いカセットテープ。
名前だけ残った放送部。
バラバラな断片が、まだ何も形を作らなかった。
でも——なんとなく、続きが気になった。
ハルにしては珍しく、翌日の放課後が来るのが楽しみだった。
——第二話・了——
次回「カセットテープの中身」




