第一話「放送室には幽霊がいる(たぶん)」
第一話「放送室には幽霊がいる(たぶん)」
朝倉ハルは、廊下を歩きながら考えていた。
蟻は夢を見るのだろうか。
見るとしたら、何の夢だろう。砂糖の山? それとも、ひたすら列をなして歩き続ける夢? だとしたら、それは夢というより業というべきではないか。いや、そもそも蟻に「業」という概念は——
「朝倉ッ! ぼーっとすんな、ぶつかるぞ!」
肩をつかまれて引き戻された。
振り返ると、田中ケンジが額に青筋を立てて立っていた。幼稚園からの腐れ縁で、今では「ハルの緊急停止ボタン」として校内に認知されている人物だ。
「また蟻のこと考えてたやろ」
「よくわかったね」
「顔に書いてある。ていうかお前、毎朝考えてるじゃないか。蟻か雲かカタツムリやろ」
「今日は蟻」
「知っとる」
ケンジはため息をついた。目の前には、ハルが気づかなかった自動販売機がどっしりと鎮座していた。確かに、このまま進んでいたらぶつかっていた。
「……ありがとう」
「いいから教室行くぞ。ホームルームはじまる」
ケンジに背中を押されながら、ハルは歩き出した。蟻が夢を見るかどうかという問いは、脳の片隅にしまっておくことにした。答えが出るまでには、たぶんあと三年はかかる。
* * *
問題は、午後に起きた。
ホームルームで担任の木村先生が言った。
「えー、現在校内でいくつかの部活が部員不足で存続の危機にあります。学校側としては、できれば皆さんに積極的に参加してほしいと——」
ハルは窓の外を見ていた。
雲が、面白い形をしていた。ちょうどカバのような——いや、カバにしては首が長い。キリンか? でもキリンにしては胴体が丸すぎる。あれはきっと、キリンとカバの中間の生き物で——
「朝倉くん」
「はい」
「聞いてた?」
「雲を見てました」
教室が少しざわめいた。木村先生は三秒間ハルを見つめ、それから「まあいいや」と言って話を続けた。先生もすでに諦めているらしかった。
* * *
放課後。
ハルは迷子になっていた。
トイレを探して歩いていたら、気づけば校舎の旧棟に入り込んでいた。
旧棟は普段ほとんど使われていない。廊下の電球が半分切れていて、窓から差し込む夕日だけが頼りだった。床板が古くて、歩くたびにきゅうきゅうと鳴る。
トイレはもっと新棟にあったのだろう、とハルはぼんやり思った。でも、せっかく来たのだから少し歩いてみよう、とも思った。
そして、一枚の扉を見つけた。
他の扉と違うのは、小さなプレートがついていることだった。
ハルはプレートを読んだ。
【放送部】
放送部。
ハルは三秒考えた。
そして、ノックもせずに扉を開けた。
* * *
部屋の中は、薄暗かった。
窓が一つ。机が二つ。古いマイクが一本。壁には機材がずらりと並んでいたが、どれも埃をかぶっている。天井には「ON AIR」と書かれたランプがあったが、消えていた。
そして——
窓際の椅子に、一人の女子が座っていた。
イヤホンをつけて、窓の外を見ていた。
制服のリボンは少し緩く結んであって、膝の上には開かれた文庫本があったが、ページはめくられていなかった。长い黒髪が、夕日の中で静かに揺れていた。
ハルは彼女を、しばらくの間見ていた。
幽霊だ、と思った。
そういうものが存在するとしたら、きっとこういう佇まいをしているに違いない。
「……なに」
声が、した。
女子はこちらを向かずに言った。イヤホンの片方だけを外して、ぶらりと手に持っている。
「あなたが幽霊ですか」
間があった。
「違う」
「よかった」
「何が」
「幽霊がいたら、どう対処すればいいかわからなかったので」
また間があった。今度は少し長い間だった。
ようやく女子がこちらを向いた。
切れ長の目が、ハルをじっと見た。感情の読めない目だった。怒っているのか、呆れているのか、それとも全く別の何かなのか、ハルには判断がつかなかった。
「……放送部に何か用?」
「入ろうかと思って」
「なんで」
「プレートが出てたので」
女子は少し眉をひそめた。
「入部届、持ってきた?」
「持ってません」
「じゃあ入れない」
「どこでもらえますか」
「……職員室。でも」
女子は立ち上がって、机の引き出しを開けた。ごそごそと何かを探し、一枚の紙を取り出した。ハルに差し出す。
「これ、使う?」
紙は、少し黄ばんでいた。
ハルは受け取って、眺めた。
「……日付が、平成十四年に なってますけど」
「うん」
「つまり、二十年以上前の入部届ですね」
「計算できるじゃない」
「それでも有効ですか」
また、間。
「……知らない」
正直な答えだ、とハルは思った。
* * *
名前を書いた。
朝倉ハル、と。学年と組と生年月日も書いた。緊急連絡先の欄には悩んだが、とりあえずケンジの番号を書いた。
女子はそれを受け取り、じっと眺めた。
「……朝倉、ハル」
「はい」
「変な名前」
「親がつけました」
「そうでしょうね」
彼女は入部届を机の引き出しにしまった。それが有効なのかどうか、二人とも深く考えないことにした。
「あなたは?」とハルは聞いた。
「雨宮ソラ」
「変な名前ですね」
今度の間は、少し険しい空気をはらんでいた。
「……お互い様でしょ」
「確かに」
ソラはため息をついた。窓の外に目を向けると、夕日がずいぶん傾いていた。
「一つ聞いていい」
「どうぞ」
「放送部に入って、何がしたいの」
ハルは少し考えた。
「ラジオをやりたい、かな」
ソラの目が、かすかに動いた。さっきまでと同じ無表情なのに、何かが変わった気がした。
「……なんで」
「声って面白いと思って。話しかけても顔が見えない相手に、言葉だけが届くっていうのが」
ソラは答えなかった。
ハルも、別に答えを求めていなかった。
しばらく二人は黙っていた。「ON AIR」のランプは、やっぱり消えたままだった。
窓の外で、夕暮れが深くなった。
* * *
翌日。
「放送部に入った」とハルがケンジに言ったのは、翌朝の登校中だった。
「はあ?」
「放送部」
「聞こえてるわ。いつの間に」
「昨日の放課後。トイレを探してたら見つけた」
「なんでそこで入部するんだよ」
「プレートが出てたので」
ケンジは三秒間ハルを見た後、大きくため息をついた。
「……部員は?」
「一人いた」
「どんな人?」
「幽霊みたいな人」
「幽霊って何だよ」
「静かで、謎が多くて、窓の外を見てた」
「……それ、普通の人間じゃないの」
「たぶん」
「たぶんって何だよ!」
ケンジの叫びが、朝の通学路に響いた。近くを歩いていた一年生がびっくりして振り返った。
ハルは空を見上げた。今日も雲がきれいだった。昨日の、キリンとカバの中間の生き物はもういなくなっていて、代わりに大きな魚のような雲が浮かんでいた。
放送部。
ラジオ。
雨宮ソラ。
何かが始まる気がした。
ハルにしては珍しく、そんな予感がした。
次回「ON AIRのランプが点く夜」




